全て人です

そんなことは解り切っていたでしょということに、自動運転分野における知財の獲得件数において、AI機能の覇者が勝つのだろうということ。どこぞの新聞の見出しに顧客ニーズ獲得傾向をいち早く機械学習させ利益に繋げてきた起業が、他を引き離してトップだということが踊った。自動車企業はAI開発と活用において強みは無いのは解り切ったことで、早期に自動運転の為のネットワーク技術を育ててきた、某H社が古典的自動車テック系としてはナンバーワンなのが救いである。

こんな時に出てくるお話が、人材不足。それもずっと昔から解っていたことなのだけれど、日本のDXの意識の無さから、AI人材の教育の体制構築が遅れたことと、AI人材への企業の拒否反応の両方が重なったのではないか。AIだけではない。電子機器を教育の現場に持ち込むことへの拒否反応が強かったと感じる。Z世代諸氏は空気を吸うかのごとくに技術を吸収していくのに、それを「教えなければならない」恐怖から拒絶反応が起こった。AIに対しては「仕事が無くなる」という都市伝説が凄かったしね。

そりゃ、無くなるものは無くなって良いのですよ。その当たり前の意識が受け入れられなかった。今、内燃機関からEVへのシフトが海外で叫ばれて、自然エネルギーの導入が進み、日本初のパワーデバイスで急速充電が出来るインフラと共に進められているのだが、日本は様々な規制が働いて、遠距離走行に有利な急速充電のインフラが整わない。もっとも、原発が停められている現状においては、急速充電なんて夢のまた夢。すると海外でのEV製造、販売としていかないといけない。すると人材が育つ環境が国内に無い状況になる。

AIだけではないのだ。ものづくり全てにおいて人材育成が停まっているのだ。ものづくりと言っても、価値を生み出す商材を自ら規格から販売まで手掛けた企業がどれだけいらっしゃるのか。付加価値を付ける経験はあっても、価値を生み出す経験が乏しい日本では、人を育てる意識が、挑戦する海外とはまるで違ってくる。人材育成を自動販売機でお茶を買う如くと思っている限り、明日は無かろう。そう想う。

意識改革

お役所と有識者の皆様のご意見の中に、大学への税金投入は無駄だから、GDP向上に寄与出来る可能性がある企業の研究体制強化に税金を投じるべきだというのがある。それはそうかもしれない。我が国の論文創造力が減じたのは、バブル崩壊の後に企業が中央研究所を廃し、基礎研究を放棄して、論文を書いている者を放逐していった時期と一致する。粗利の一定量を未来投資することを止めて、拝金主義に陥った結果であるのだが、そんなことは有識者は忘れてしまっている。

未来投資を人づくりでは無く、企業に税金を投じることで、未来への競争力が獲得できるのだという考え方だが、鶏か卵かの議論はさておき、企業にお金を投じたとしよう。現状の人員だけで一人当たりGDPを世界3位くらいまで、一気にジャンプさせることが可能と言うことか?可能なのかもしれないが、承継者は必要ないのか。それまでも企業が担うということか。

まぁ、考えてみると、企業が人材育成を手掛けるとして、税金をそこに投じるとするならば、企業が粗利を次世代の開発に投じて、効率が良いということなのかもしれない。そんな効率に掛けるしか、日本に道は無いのかもしれない。無数に存在する大学に分散投資するよりも、技術の承継と発展には必要なことなのかもしれない。ただし、前提があって、企業群は明確なビジョンを持っているからこそ、国を導く人材の育成が可能になるということだ。単に銭儲けの学びだけをするのでは駄目だ。

今ある事から、次にはこれが出来るだろうという発想は、ちょっと脳を鍛えた人ならイメージできる。失敗を恐れず、いや、失敗を当たり前と思って挑戦に挑める人であれば、フォアキャスティングで次に迎えるだろう。しかし、国を導く者はバックキャスティングで思考を制御する者だ。フォアキャスティング思考の教育をやってきたから大学は要らないと言われてしまった。これは反省するべきで3ある。大学はまだ必要なんだと有識者に意識させるためには意識の改革が必要である。既に崖から落ちている事態を認識するべきだ。

温故知新

10年以上も前の講義資料を見直してみたのですが、ある時、突然、芸風がかわってるのですな。自ら得た知識を、他の方に活用して頂けるように自らの知恵に昇華させて、それをツールとして伝授するのが授業と言う技なわけだけど、劇的に変化するさまが面白い。年齢で言うと40代半ばからと言うところで、まぁ、いろいろあったころですな。単に経験と知識が増えてきたと言うだけでは無くて、一緒に活動してくれている学生の仲間達からの影響も濃かったことでしょう。

自らの資料の殆どが電子化されているので、宿舎でも延々とお仕事が出来てしまう恐ろしい環境になっているわけで、調べものと言う点において恵まれた時代である。あの頃、何をどのように考えていたのかしらと、時代と思考の関係性を眺めていると、実に愉快である。当時は、真面目に経産省の資料の切り貼りなどもしていたから、国の助成がどんな方向に向かっていて、その金額の大きさも見えてくる。研究テーマなどもそれへの挑戦も含まれて来ていて愉快である。

極めて大きな挑戦的なものも作っていて、日本の偉い、それこそ、有識者の皆様に鼻で笑われて、その後、海外の大学で、類似テーマの挑戦が始まった時には「日本を飛び出そうかな」と、まだ若かったから思ったものだ。なんで踏みとどまったかと言うと、やっぱりどっかの国から人がやってきて、技術を求められたからで、国への恩返しなどと思ったからだ。度胸が足りなかったということなのかもしれないけれど、必死に講義に取り組んできた姿が浮かんできて愉快である。

記憶に残っていて、でも、それを見返したいのだけれど、何処かに失せてしまっている。そうなるとそれが妙に重要なシートだったのではと悩んでしまうのだが、どうせ、自分で思いついたことであって、新しく思考しなおしてしまえばそれまでだ。そうなのだけれど、なんか記憶に引っかかって、無駄な探索を繰り返す。キーワード検索もしてみるのだが、それすらヒットしてこないところを見ると、大したことは無いのだ。しかし、その過程において、こんなこともあったなと、温故知新である。自らの棚卸も重要であるなと、起業に向けたメッセージを自分に向けても愉快だなと思った次第である。

夢を追って良い

起業の意識を高等工業専門学校生に持って頂こうと、そんな施策がこの4月から動き出す。今更ながらではあるが、それが実現することはとても嬉しい。言い出しっぺの法則でごちゃごちゃと関わらせて頂いているが、内向きな日本人気質を、少しだけでも「すぐそこにある海外」に向けて頂ければと思う。起業だのベンチャーだのスタートアップだの、といろんな事が言われるが、要は挑戦することである。夢を持って良いのだよということだ。死ぬために命があるわけでは無いからねという松本零士先生が仰った言葉が刺さってくる。

大量生産、大量消費が世界経済のトレンドで、それを前提に大企業が成立しているわけだ。雇用が発生して、皆、努力して命を繋ぐことが出来ている。一方で、大企業が生み出す商材に感動しなくなってきていることも事実だ。それよりも頭をひねってプレゼンシートを作っているほうがずっと幸せを感じる。要するに創造の喜びである。それが人の為になれば尚良いわけで、その一つの形が起業ということだ。起業したけれど、それが自己満足に終わっても良いではないか。発想が足りなかったというだけだ。努力が足りなかったというだけだ。

大学には理系・文系を問わず、天から与えられた学理を人の為に活用するための知恵があって、一つ一つが商売になるかならないかを内閣府などが気にしている。学理の探求が本来あるべき姿だとは想うのだが、高等工業専門学校においては、工学による社会の幸向上が存置理由になっているわけだから、学びで得た知恵を社会の皆様と共に育てていく、起業という選択肢がキャリアパスにあって良いのは当然である。

複雑な量子コンピュータとて、海外ではベンチャー企業が作っている。大企業で無いと責任が取れないから助成しないなんて思考は、正に旧態依然である。大学も巨大化して自ら稼げとか言っているし、スタートアップもユニコーンにならないといけないとか幻を追い求める。純粋に夢を描き、周囲の人達に幸をもたらす起業者が数多く、この国に誕生して頂きたい。勿論、鶴舞大学もそれを一つの目標としている。若者よ来たれ!である。戯言を読んでいる若者は居ないと思うが・・

失ってはいけないもの

技術の棚卸なんて言葉がずっと囁かれていて、自社の強みは何だとか、その時々で語るわけですな。勿論、教育機関においても同様で、何らかのセグメントを設定して、そこに資源を投入していくという奴だ。モビリティという広いカテゴリにおいて全てを網羅することは不可能だが、他社・他校と協業して、面で強くしていくやり方が世界と戦う上で正しいだろう。「だろう」というのは、どうやったら勝てるのかなんて解は無いから断言できないだけのこと。判断と決断は世の常である。

対話型のAIエンジンが当たり前化してきて、卒業論文をAIと対話しながら創り上げてしまう学生が続出しているとか。もしもAIエンジンを日本国には使わせないよとなった時の恐ろしさだ。文字と言葉と言う文化の骨格を放棄することに繋がるのではと危惧するが、AIエンジンを使いこなすことを否定はしない。むしろAIエンジンを成長させるような対話が出来るように、自らの言語能力と知識の深さを大学時代に獲得して欲しいと思っている。否定は何も生まないからね。

棚卸の話に戻るんだけど、自社の強みすらAIエンジンは株式や商材がどのように活用されているかなどの上方から紐解いて教えてくれるとか。もう、Google検索なんてやっている場合では無いなと思ったりもする。強みばっかりを、より強化する方向にいっちゃうんだけど、それで本当に良いのだろうか。AIエンジンが学べる現状って、まぁ、現状なんだよね。人間の地味な研究活動がAIの予測する時間軸よりも高速にアウトカムズを叩き出したとすると、AIエンジンを出し抜けることになるのだろう。いや、それすらも予測されているとするとお手上げだが、実際のものづくりはそう簡単では無い。

最近、思い始めたのが、技術の棚卸って「これを失ってはいけない」ということを導き出すことでは無いのかなと思っている。他社との比較で自らの強みって見えるのだけれども、地味だけど、それを支えるものをしっかりと確認して、それを失わない活動をすることが本質では無かろうか。シャッター街になった商店街だけれども、生き残る店舗は不動の地位を確保している。顧客の動向に固執し過ぎて横並びの安全を獲得しようとして、無意識に捨ててはいけないものを失っているのではないか。それが日本中で雪崩のように起こっている気がする。気がするだけなら良いのだが。恐ろしい。

座標

国際法によってその権利を認められている領域に、破壊のためのミサイルが撃ち込まれた。報道では「落下した『らしい』」として、それを断言しない。政治家諸氏からの口からも同様の発言を報道から聞き知った。国民に真実を告げず、国とは何かを国際法上の観点から説明もせず、『らしい』で逃げてしまう。こんな国だから防衛費を無限に増やし、教育に掛かる費用をゼロにしていくことがまかり通る。

これもTVの報道からだから、真実かどうかわからない。映像で見た落下物の火炎は2方向の固定カメラから観測されていた。固定点は決定されているわけだから、周辺映像の印影との直線関係から、その落下点は導き出せる。それは騙しようがない。もしもTVの映像が真実であるということであるならば。マスコミの報道が真実であるとは思っていないが、仮に真実であるとしよう。すると、撃ち込まれた点が定まることになり、EEZ内か、そうではないかが定まる。海岸線は決まっているわけだからね。

国際的に主権の領域に敵対的兵器を撃ち込まれたわけで、憲法解釈において、攻撃をされたわけだ。その定義を昨年来、散々やってきたにも関わらず、いざ、そうなってみると無かったかの如くに逃げてしまう。議論を放棄してしまう。議論をしない者は政治家ではないわけで、まぁ、いつも言うけれど、それを選んだ国民を映す鏡だ。そんな国だから、ぼんぼことミサイルが飛んでくるのであろう。

尤も、何を言っても聞かない者との議論は無駄ではある。ただ、EEZ内に撃ち込まれたと、正しい情報は国民と共有するべきだ。その情報をどのように活かすのかの検討も出来なくなる。真実は一つだが、解釈はいろいろとあろう。それは否定されるべきではない。真実が不明確では、議論しようがない。議論をするから人間である。答えだけ求めても、人の数だけ答えがある場合もある。そんな時にどこかに集約しようとするならば、真実が必要だ。その真実すら与えない政府は、もはや、国民の代表では無い。

脱私物化

どうも私物化という概念は無くならないものですね。そりゃぁ、身銭切って購入したものは私物でしょう。それを否定するものでは決して無いですよ。人事のこととなると、そのポストは自分のものだとか、採用したのは自分だから、自分のものだとかね。そりゃぁもう大騒ぎ。組織に属しているからには組織全体の一員と見なさずに、何故だか自分のものと思ってしまう。気に入らないと排斥するしね。どうも偉くなればなるほど、その傾向が強いようだ。

選挙なんかでも、親が引退したらその票を子が受け継ぐとかね。あれも見事な私物化で、極めて醜い所業である。そりゃぁ、優れた人物ということかもしれないけれど、昨今、子供を秘書に置いて買い物させるなんてのは、正に私物化の極致だね。正しいのだと言い張るけれど、そんな人の言う事を真に受ける国民がどれだけ居るのだろう。この国の経済の停滞の要因の一つに、そんなことがあるのではと思うわけだ。

何をするのかというところにも私物化がはびこる。新規事業創成にチャレンジしようと意見が出ても、前例がないからダメだとか、成功事例が無いから駄目だとかね。これも見事な私物化で、社員のやる気迄私物化して奪ってしまう。新しい事、次々とゲームチェンジが起こっているのに、旧態依然を私物化していく。法律の改正も極めて遅く、議員立法も殆ど出て来ないから、何十年も前の規則に縛られて、世界の潮流から完璧に置いてきぼりを食っている。それでも旧態依然を私物化していく。

脱私物化は挑戦である。何から何まで新しくする必要は無いのだが、降る雨が少なく成ったら山からの栄養が足りなくなって、海苔がまともに育たないなんてね。瞬間瞬間で判断しなければならないのに、その機動性が無い。今までは良かったから、これからもそのままで良いなんてものは無いと思って良いのだ。日本は安全だなんてことは無くなったのは、新聞を見るまでも無い。挑戦して失敗する。当たり前が許されない社会に未来はない。そう思う。

バージョンアップ

身銭のお話をさせて頂いたのだが、特に大企業の方々にはその思考は難しかろう。広大な中小企業のすそ野の上に君臨し、安かったら使ってあげるという姿勢を貫こうとされる。まぁ、解らなくも無いのだ。首相が勝手に「賃金を上げろ」とか言い出すしね。その分、留保して危機管理に回そうと思うのは当然。何せ数万人も雇用していればそう考えるのに無理はない。すると、リスキリングなんてさせるよりは、作業に縛り付けてミスの無いアウトプット生産者になって欲しいと願うだろう。ミスも大いなる不慮の出費だから。

不慮の出費を防ぐには、定型作業は機械にさせるのが宜しい。セキュリティを常に万全に保ち続ければ、24時間働いてくれますしね。刃物加工であれば、刃物の寿命を2倍、10倍としていけば、連続運転が可能になって、ものづくりコストの低減と被加工物の品質向上にも繋がる。適性な価格で刃物を購入して頂けるのであれば、それによって受ける恩恵は大きくなる。しかし、今までと同じ穴を空けるのだろと従来価格の踏襲を迫ってくると、これまた身銭を切らないのだなと感じるわけだ。自分ばっかり儲けようとする。

リスキリングって、世界では当たり前なんですよね。様々な福祉環境が、人が成長するインフラとなっていくことが前提で作られている。学ばない人はご退場ではなく、子供の面倒を見るお役が残っている。生まれて死ぬまでインフラである。その為に学び続けるし、身銭を上回る支援がある。それもとても大切。身銭ゼロでは得られるものは無いのだ。学んだことを使いこなせないと、それは学んだことにならないし、リスキリングでは無いからね。

アウトプット重視の時代からアウトカムズ重視の世界に変容しているわけで、私はこれが出来ますなんてアウトプットの表現は役に立たなくて、私のリスキルで貴方はこれを獲得できますというアウトカムズとして自らを表現していく時代。パソコンが使えますなんてことを履歴書に書く人が居なくなったように(居るのかな?)「だから何」と言われるような表現力ではインフラに成れないということだ。自らをバージョンアップし続ける。そういうことだ。

身銭

今の時代、一つの分野の学問だけで解決できることなど何も無い。かなり前から電子デバイスを印刷で作り始めているし、そうなると、印刷機器から電子デバイスとして働く素材を印刷可能にするとか、勿論、使われる場所の想定も必要だ。チャットGPTが全部やってくれるまでは人間が係わらないといけない。ロボットと強力なAIが合体しているのかこれからなのか解らないが、それでもそれらを形作るのは、今のところ人間の仕事になっている。

横断的知識と言っても、南方熊楠先生のような博覧強記の天才を求めるわけでは無く、異分野・異文化の方とも対話が出来るレベルで良いのだ。単なる相槌を打つだけだと、マラソンが札幌に行ってしまったりするから恐ろしいが、しっかりとNoと言えるレベル(かなり高いレベルだが)で、いくつかの分野をまたがった学びが必要だ。その為の入試改革だったりするのだが、入試問題が難しいとかね、外野から不思議な声が聞こえてくる。

詰め込み教育は反対だとかね、詰め込まなかったら、それを活用する知恵など何の役にも立たない。チャットGPTが全部教えてくれますとか言うのかもしれないけど、一々「教えてGPT」なんてなったら、GPTも成長を停めてしまって、結局、人類の知恵はそこで終焉を迎えるなんてことになってしまう。知らないことを知りたい欲望こそ、人間の有り様だと思うし、与えられることを拒否することも大切なことだ。例え遠回りになったとしてもね。

全ての領域でプロになんかなれない。一本はプロでその他は二流でも良いのだ。でも、三流では駄目だ。論文位は読めないといけない。それくらいのリスキリングが求められている世の中なのだ。そして智慧の獲得は無料であってはならない。自らを磨くためには身を切る努力が必要だ。何でも与えられる世の中は間違っている。身銭を切るからこそ艱難辛苦何時を魂とするのだ。甘ったれるな。

挑戦なんだよね

元来、サポインとか国の事業って「挑戦者集まれ!」的なものの筈なのですよ。だから胴元のMETI殿も、恐らくだけど100%の成功率は求めていないような気がするのです。これを言うと税金の無駄遣いだ!って怒る人もいるかもしれない。でも、ここで怒ってしまうから、世界から日本に買いに来るユニコーンみたいな挑戦者のチャンピオンがなかなか出てこないのでは無いかな?ユニコーンが素晴らしいという事ではないけれど、挑戦すら許されない国では若者の元気は無くなっていくわな。

その中にあって、知多半島の刃物製造企業はチャレンジャーだ。そして自社ブランド構築に至ったことは称賛に値する。いや、称賛されるべきだし、称賛している。刃物1本あたりにおいて、大きく無い利益の為に億の金を投資する勇気は並大抵のものではない。実際のところ、この研究においては泥棒はいっぱい現れたけど、自らが投資をされたのは初めてだもんね。それだけの勇気に対してはパートナーとして選ばれた者は全力で頑張りますよ。信頼には尊敬でお応えするというところだ。

まだまだいろんな面白い現象が世の中には眠っていて、いきなり、新しい場の創造なんてことは並大抵では無いのだけれど、これを解決したら素晴らしいということは沢山あって、それをどんな手法で解決していくのかということにおいて、それを発掘するのは挑戦者しか居ないのだ。B2B企業においては、相手のBが居なければ「お手上げ」となるだけで、大学と組んで自ら解決しようという企業と税制優遇みたいなものが我が国には少なすぎる。大学の知恵を産業の血液と肉にしていこうとする発想が無さすぎる。

大学と組む面白さは、いや、大学と言うよりも大学人ということかもしれないけれど、おだてるとどんどんと高い木によじ登っていくということだ。その木も大学人が勝手に育てたりしてね。そんな長い付き合いが産学連携には必要だ。M&Aで出来たものを買ってきて、それを組み入れて新商品とか言っている企業が多いけど、買った途端に古くなるからね。成長し続ける生き物を買わないと、枝から切り離された果実では、旬が終われば価格破壊どころか用無しだ。挑戦である。生きることは挑戦である。それだけの話だ。