技術の棚卸なんて言葉がずっと囁かれていて、自社の強みは何だとか、その時々で語るわけですな。勿論、教育機関においても同様で、何らかのセグメントを設定して、そこに資源を投入していくという奴だ。モビリティという広いカテゴリにおいて全てを網羅することは不可能だが、他社・他校と協業して、面で強くしていくやり方が世界と戦う上で正しいだろう。「だろう」というのは、どうやったら勝てるのかなんて解は無いから断言できないだけのこと。判断と決断は世の常である。
対話型のAIエンジンが当たり前化してきて、卒業論文をAIと対話しながら創り上げてしまう学生が続出しているとか。もしもAIエンジンを日本国には使わせないよとなった時の恐ろしさだ。文字と言葉と言う文化の骨格を放棄することに繋がるのではと危惧するが、AIエンジンを使いこなすことを否定はしない。むしろAIエンジンを成長させるような対話が出来るように、自らの言語能力と知識の深さを大学時代に獲得して欲しいと思っている。否定は何も生まないからね。
棚卸の話に戻るんだけど、自社の強みすらAIエンジンは株式や商材がどのように活用されているかなどの上方から紐解いて教えてくれるとか。もう、Google検索なんてやっている場合では無いなと思ったりもする。強みばっかりを、より強化する方向にいっちゃうんだけど、それで本当に良いのだろうか。AIエンジンが学べる現状って、まぁ、現状なんだよね。人間の地味な研究活動がAIの予測する時間軸よりも高速にアウトカムズを叩き出したとすると、AIエンジンを出し抜けることになるのだろう。いや、それすらも予測されているとするとお手上げだが、実際のものづくりはそう簡単では無い。
最近、思い始めたのが、技術の棚卸って「これを失ってはいけない」ということを導き出すことでは無いのかなと思っている。他社との比較で自らの強みって見えるのだけれども、地味だけど、それを支えるものをしっかりと確認して、それを失わない活動をすることが本質では無かろうか。シャッター街になった商店街だけれども、生き残る店舗は不動の地位を確保している。顧客の動向に固執し過ぎて横並びの安全を獲得しようとして、無意識に捨ててはいけないものを失っているのではないか。それが日本中で雪崩のように起こっている気がする。気がするだけなら良いのだが。恐ろしい。