イベント中止について

私が参加している学会の年次大会の開催中止の報が届いた。原発事故による中止以来の出来事である。新型で「どうなるのか分からない」から中止と言うことなのだろう。どうなるか明確になっているインフルエンザにおいて、学会が中止されたことは無い。いや、あるのかもしれないが、小生が関わるその学会は、小生が記憶している限りで中止は無かった。

いつも言う事だが、学者であるから忖度も遠慮もしない。駄目だと言うなら学術的根拠が無ければならぬ。良いと言う事でも同様だ。危ないかもしれないからという判断は、安全方向に振っているということで正しいように見えるが、しかしながら根拠が無いから気持ちが悪い。先の連休中にあちらこちらと出歩いたが、潜伏期間内だからかもしれないが、それらしい症状は出てこない。

年間、数万人の死者を一気に創出するインフルエンザウイルスであるが、その発症は1日~2日程度であって、タミフル等の型にあったワクチン接種によって高熱は収まり、後は、その人から他に伝染しない日数、閉鎖空間に居れば良いことが『解っている』。この『解っている』が重要であって、分かり様がない新型においては安全方向に振るということなのだろう。

そりゃぁ、げほげほ咳をしている者であれば、医者に行って欲しいのだが、その医者とその者の自宅との間、どれだけウイルスを発散させるか?確かに、科学的根拠を持って、インフルエンザの流行と比較して致死率が低いから学会は開催しようとはならないのかもしれない。開催していたら「お前は行ったのか?」と言われると、さっさと逃げ帰ってくるかもしれない。買い物すら恐ろしいという気持ちになっている状況であって、しばらく続きそうだ。皆さん、気を付けましょう。情けないがそれしか無さそうだ。

時代

大人の特性は労働と生産であり、子供は逆に、遊びと浪費である。これらは分断される必要は無く、適度に混じり合っているべきだと考えている。働いているばかりでは疲れ果てる。浪費も時にはしてみたい。と、思っているのだが、近年、密室志向の若者の増加に伴って、遊びと浪費が見受けられず、それが大人の労働と生産をも蝕んでいるのではと感じる次第。

ゲーム機に向かってバーチャルの世界で伸び伸びと振る舞っていることを否定するものでは無い。その時代においてそれが娯楽であるならば、それはそれで良いと思っている。そんな世界でのビジネスが発生して、バーチャルな経済圏が生まれるのであれば、恐らくではあるが、究極の「やりたい事」を実現出来る世界に、ものづくりの世界は太刀打ちできないだろう。

LSIや電脳の入り口である端末を作る必要があるではないかと言うかもしれないが、明確な欲求を満たす道具が作られるのは、それは誰かが必ずやり遂げる。食料はと言えば、恐らくだが、今の、小さい単位の生産というものは電子化・機械化された大規模生産に向かうことで、最小限の農薬や肥料で最大限の生産を成し遂げる仕組みが生まれるだろう。リアルな世界よりも容易である。何故ならば邪魔をするリアルが存在しないからだ。

邪魔とは規制であり、既得権益を死守する人々の群れなのだが、リアルな貨幣が価値を持たなくなった時、現在ある支配特権は全て消える。そんな時を迎えないと、何をやっても規制が縛り、ずっこける政治が続くのかもしれない。人間が介入するから上手くいかないことは沢山あるだろう。不確定性原理すら取り込んだものづくりの仕組みが出来上がった時、自分は墓の中で良かったと思うのかもしれない。そんな気がする。

捨てるもの

年度末が迫る中、様々な衣替えが発生しますな。組織人だから私の個人的な都合は関係無いわけで、容赦なく変えねばならないこと、変えてはならないことを骨格に添えて、様々なご意見を賜りながら進めていくわけです。立場上、嫌な事が沢山出てくるわけですが、それは職制上当然の事と受け止めなければならない。それを支える為に、自分を他人視するキーワードは何か?それは捨てること。何を?

第一にプライドという奴ですな。これは厄介。とっても厄介。常に怒鳴られる、威圧される、恐喝される。「昼間でもひとけが無い場所もあるんだぞ」とまで言われたこともある。それでも心は動かさない。表情には出るかもしれないけれど、心は心頭滅却、動かない。言いたい泣き言は沢山ありますが、まずはこれが基本。

思い込みも極めて厄介。これはお互いにということもあるので、これは対話が必ず必要。学んだ結果ということなのですが、例えば長い川を遡上しながら、泥の中を進んだウナギを食すのに、蒸して脂まで落とさないと臭みが抜けないとすると、それを「学んだ結果なのだから泥臭いまま食べろ」と言われても、それは違うぞとなる。一旦、乾いたスポンジにお互いがならないと進まない話がある。

IT化が急速に進む中、組織にとって不要になった仕事、あるいは、不要にするべき仕事は、長とすると消さねばならない。それによる人員削減は当然の結果である。AIががっちり成長してくれれば『長』などは最も不要な職制になるのだと思っている。さっさとそうなれば良いのにと思うのだが、今年度中はその実現は難しそうだ。安定志向は無い。世界の流れは圧倒的に速い。スピード感のある変革は必須である。自分に言い聞かせるところである。

大学入試

いよいよ大学入試ですな。近年、年6回の受験を受け付ける私立大学もあるので、「今日は・・」という区切りを入れることに何の意味もないのですが、鶴舞大学においては今日が前期日程の入試日となっています。コロナウイルスが大気に蔓延しているわけですが、試験を実施する側の問題が無きように頑張ってまいります。

想い出になってしまうのですが、入試に参加したのは1981年ですから39年も前のお話。うわぁっとのけぞってしまいます。笑い話ですが、入試当日、常磐線が「事故で動きません」となり、遅刻してしまったのですが、おおらかに対応頂きまして、今日があるわけです。まぁ、そんなこんなでルール無視はいけませんが、ぎりぎりのおおらかさでご対応させて頂きます。

鶴舞大学で思うのですが、正門から入試会場までとても近い事。これは受験生にとってとても有難いことだと思います。ガマの油売り大学で、バス停を一個間違えたらえらいこっちゃですから。正門から大抵の会場までは5分程度あれば辿り着けますので、万が一、勘違いをして他の建屋に行ってしまっても、落ち着いて行動して頂ける。お企業様の中には「あんたのところは正門から遠すぎて迷った」と仰る方もいらっしゃいますが、「それで良く営業できるな」と言いたいけど言えない(笑)

これから総受験生数が減少を続けるわけで、その中で魅力ある大学であり続けなければなりません。産業の場こそ基礎学理の実践道場と認識している鶴舞大学において、学理の深化こそ我が国の元気の源であるという、そんなワクワクの講義と研究であり続けることをお約束する。そんな場をもっともっと発展させたい、受験の度にそう願うところです。受験生の皆様、落ち着いて実力を発揮して下さいませ。

今こそ働き方改革

コロナウイルスの猛威は一向に収まる気配がありませんな。様々な機器や部品が中国から世界に広がっている中、ウイルスがどんどん世界に拡散していると思って間違いなかろう。自然に人間側に耐性が出来ない限り、収まらないのではなかろうか?

防護服を着ていても無駄だそうだから、被害除けにマスクをすることは意味が無さそうだ。ダメなものはダメなのだろう。ウイルスという生命とも物質との境界線にいらっしゃる物体に、人間としては偶然に収まったくらいを期待しないといけないのだろう。

近しいお企業様からも、現地の工場を再稼働させるのは良いが、そこで作った製品を他国に出せるかというところでお困りとのこと。全てを完全殺菌ということも出来ないし、殺菌出来ているかどうか判断も出来ないとのこと。まぁ、それはそうでしょう。

結局のところ人間の耐力ということなのだと思う。その為にはしっかり寝て体を休めるということが本質なのだと考える。それこそが働き方改革だろうし、効率の良い作業に繋がると考える。IoTを徹底的に導入して、紙のスケジュール管理を禁止するとか、中途半端な効率化を辞めるところから始めないといけない。見えないウイルスに怯えるのは御免である。そう思う。

中途半端

一昨年から具体的に始まった永平寺町の専用軌道上での自動運転試験の結果が気になって、ちょっと調べてみた。投げ出しちゃったかなと思ったのですが、実際に実証実験は進んでいたらしい。街中の試験ではなく、加えて専用軌道に電磁的誘導線を作ってやっているもので、一般的ではなく、平たいゴルフ場でカートが動くみたいな感じですな。

時速12kmという極めてのんびりしたスピードで、腰が引けた試験であることは明らか。自動運転車よりも、専用軌道上に電動自転車の貸し出しをしたほうが良かったのではと思ってしまう。農家の方々は、こんなに遅いのでは使い物にならないと、自家用車を結局使ってしまうそうな。

行政らしく、兎に角、思い切りが無いですね。永遠に先進国には追い付けないのではと思ってしまう。本気度が全く見えない悲しい状況。一体、何処に税金が投入されているのかさっぱり分からない。

挑戦が無い。挑戦を受け入れない。昨日と違うと大騒ぎをする。声が大きければ正義と思ってしまう。そんな日本に未来は無かろうと本気で思ってしまう。黙っていたら無くなるのだ。そんな時代なのだ。何故、挑戦しないのだろう。理解できない。

半導体を作らず使わず

世界の半導体の8.6%をApple社一社で使っているそうな。ちなみに第二位はサムスン電子で8%なんだそうだ。日本企業は10位以内には入っていない。これこそ日本の最大の弱みであろう。新しい半導体を活用する新しい機能創造に関係できていないということだ。挑戦の全く無い社会になっている。

販売する方においてはキオクシアが9位に入り検討している。とは言うものの、既に東芝半導体ではないし、日本企業とも言えないだろうから、日本企業は全滅だと言う事だ。国際的な最先端技術の集積である半導体チップに対して、作ることも使うことも出来ない日本が、AI等を搭載していく分野でどうやって世界に通用する製品を出していくのか?

窒化ガリウムを活用する分野においても、日本企業の挑戦は見られない。窒化ガリウム半導体を世に出していったのは日本人研究者であるのは間違いないのだが、その活用においては元気が見られない。元気が見られない間に酸化ガリウム半導体が台頭してきて、一体、どうなってしまうのやらと言うところだが、やっぱり活用という点においてはチャレンジが無いのだろうなと思ってしまう。

何故、ベンチャー支援を公的機関が担うのかということが話題になるわけだが、行政機関もうすうす感づいているのでしょう。最早、日本企業に挑戦を期待できないことを。挑戦とは他者から優秀な人材を引き抜くことと位置付け始めた日本において、人材教育も期待できない。であればベンチャーであろうと。背中を押してさようならということにならなければ良いのだが。少なくとも本学はそんなことはしない。寄り添って参ります。

モーターの正常進化

その昔のスピーカーって励磁式と言って、電磁石でボイスコイルを動かしていた。外から加える電流の値に応じて振幅幅を変化させることが出来た。純鉄のポールピースが放つ強烈な磁場によって、現在の永久磁石でも得られないほどの強烈な磁界を作ってオーディオとしていた。まぁ、一般家庭向けではなく、映画館で活用された代物だ。

その磁力を変化させる工夫が自動車に用いられるとのこと。始動用セルモーターなどを完全に置き換える代物らしく、伝達用タイミングベルトを介さずに直接エンジンを始動できることから、それらの周辺部品を完全に駆逐する。自動車の電動化によって無くなる部品がまた一つ増えたわけだ。ベルトはエネルギー伝達効率は低いから無ければ無いほど良いわけだが、それを具現化させたということ。

モーターの正常進化ということなのでしょう。ドローンのモーターなどにも利用できる技術と言う事で、省エネ化にも寄与するのだそうだ。ドローンを活用した宅配(こればっかなども出てくるでしょうから、モーターの高効率化、軽量化、高機能化は益々競争が激しくなる領域なのでしょう。

ちょっと雨が降ると街は渋滞。渋滞が全く発生しない仕組みだって、人間が介在しなければ出来そうなもんだが、それがなかなか進まない。レガシーが全くない最適環境によるテストは何故行われないのだろう。不思議でならない。

自動運転配送車

遂に米国で自動運転配送車に規制免除が与えられましたな。公道で自由にテスト走行が出来るという事。2年前から特区での実証実験が始まり、数千件のテストを繰り返し、漸くとのこと。米国の車両基準では、当然のことながら運転手が居るということが前提で、そうなるとハンドルやミラーの搭載が義務付けられるわけですが、それらが不要になると言う事。いよいよ次の時代ということですね。

考えてみれば、宅配がこれだけ進化してきていて、全てを人の手で運ぶというのはナンセンスと感じます。盗難がどうのこうのということを問題にして、絶対に試験を認めない我が国とは正反対。受取人が確実に玄関まで出てくることを前提にして、アクセスコード無しでは車を開けられない等々、何やらいろんな仕掛けがあるらしいのですが、セキュリティの面でもクリアしているとのこと。

冷凍ものから野菜等々、ドラッグストアで現在売られているような商品まで宅配してくれるということなので、最早、コンビニエンスストアなど要らない状況になりますな。必要と思うものは、その場所に確実に届けてくれる時代が、米国にはやってきたということ。挑戦者が行くわけですよね。

それだけを見に渡米するというのもばかばかしい限りで、何かのついでに行ってみたいなとは思います。6年前にグーグルカーが路肩でひっくり返っているのを見ましたが、それを確実にクリアしたと言う事ですね。冷蔵庫なんか要らないよってことになると、キッチンの在り方も変わってきそう。また一つ、楽しみが増えた、そんな気がします。

選択肢はある

オーストラリアのとある地域では、リアルなソーラーカーが街乗りの道具として動き始めている。晴天の日であっても、走行速度によっては搭載している電池容量不足で動けなくなるかもしれないという代物だ。AIと街の随所にある天気観測システムとIoTがリンクし、ソーラーカーに何処を走行するべきかを指示する。近い将来は自動運転化されるであろう。街からは排気ガスを出さない仕掛けが生まれる。水素燃料を作り出すエネルギーも不要である。

何処まで行っても電池を作るエネルギーやソーラーパネルを作るエネルギーは無くならない。Si太陽電池だけに考えてみても、大地を掘削し、珪石を取り出し、それを輸送し、化学的に分解・還元し、それを1420度で溶かして固めて切って磨いて、回路を作って形状化して、ユニットにして駆動回路とくっつけて、モーターと接続して・・・どれだけのエネルギーだ。エネルギー収支を思ったら作らない方が良い。しかし、走行時に炭酸ガスを出さないという事に限っては完璧だ。

高齢者が遠くの不燃ごみ置き場にゴミ出しをするのが億劫というのであれば、自動運転ゴミ収集車が門前まで行けば良い。ゴミ回収ロボットでも良い。しかし、今の町はガソリンを燃やして、我先と走りたい輩がそこのけそこのけと走る為に道路網が出来ている。人間の命より、自動車販売企業が儲かれば良いのだ。政府は、自動車と言う大量に販売できる高価な物品で、外貨を獲得出来ればそれで良いのだ。

暮らし方を転換しようと言っても、100年生きた人がどうやったら思考を転換できるのか?強力な為政者が命を掛けて説得するのだろう。そして街を変えるのだろう。そんな新たな原点が生まれる瞬間には立ち会えるとは思わないが、共生を捨てた日本においてそんな日が来ることを願っている。それだけのことだ。