限界?

同種の生命体が臨界点を超えると、その増殖は緩やかではあるが微分値を低下させ、その後、次の進化に向けて突然変異が繰り返される。という、恐竜の絶滅が顕著に見られた事例なのだそうですけれど、様々な生命体の大量絶滅が起こってきたわけだ。恐竜絶滅は巨大隕石の落下で太陽光が地上に届かなくなり寒冷化によって引き起こされたと言われるのですが、化石を調べてみるとどうも絶滅が進行していたところで隕石落下がとどめを刺したというのが正しいらしい。

絶滅と気候変動がペアでやってくるということなのかもしれない。地球上に飽き足らず、月や火星の奪い合いをしているような生命体は、宇宙の何処にでもいるのかもしれないけれど、台風10号の不可思議な動きを見ていると、地球の環境はここ数年で劇的に変動したのかなと体感している。日本だけではなく、世界のハリケーンの状況など、台風がすっぽり目に入ってしまいそうなハリケーンの衛星画像を目の当たりにして、これが常態なのだろうなと、活動様式を考えねばと思う次第。

台風はその場で空気を巻き上げているだけだで自走出来ないから、地球規模の駆動力を待って移動するわけだ。スーパーコンピューター予測とかで、初期の段階ではとっくに愛知県上空を突き抜けていたころなのだけれど、なんのことはない、一週間前の予測などなんの役にも立たなくて、九州地方に行ってしまうわ、東に向かってきたと思ったら南に移動してなんて予測が出始めている。どれだけのパラメータを入れても地球環境のシミュレーションなど出来ないのだなと納得している。

AIが進化して人をサポートしてくれるのはとっても有難いし、とっととシンギュラリティなるところを突破して頂きたいとは思うのだが、台風の進路予想などを見ていると、おいおい大丈夫かと感じている。極めてあいまいで基準すら勝手に作る人類が作るAIである。この辺りに恐ろしさがある。まぁ、市の教育委員会よりはAIのほうがましなのだが、結局何が起こったのか分かりませんでしたなんてニュースを拝見すると、そもそも絶滅時期に来ているのではないかと思ってしまう。自然災害に備えて、心身を引き締めましょう。

10号に思う

台風は大概、想定より弱くなるものだが、今回の10号はどんどんとエネルギーを蓄え、相当に危険な体力をつけて虎視眈々と陸地縦断を伺っている。ゆっくりとした歩みであればあるほど、海水温の高さからエネルギーを蓄えていく。東海地域も外周部の気流に洋上の水分が重なり、奥三河地方で甚大な被害をもたらしている。30日以上もからからの空模様であったのが、いきなり土砂降りである。平均化は望むべくもない。

気象衛星画像などをみると、巨大でくっきりとした目を持ち、久しぶりに見た豪快な台風である。小学生の時に、迫りくる台風に対して「突然、晴れ渡っても表に出て遊んではいけない。いずれ大雨が再びやってくる」と担任の先生がおっしゃったことをはっきりと覚えているのだが、まさにそんな目の状況である。50年も昔のお話になってしまったのだが、当時は台風が来ようが小学校は休みにならなかったわけで、まぁ、いろいろあったのでしょうね。

台風の目に飛び込んで台風そのものを研究する者もいらっしゃって、飛行機を操縦する者の勇気も半端ないなと感じる。映像などを拝見すると手に汗握って映画のようではあるのだが、真実であって無茶をするなと思うのだ。危険行動はご法度の研究ではあるのだが、台風しかり深海しかりである。ほんのわずかな、本当に瞬間とも言って良い気の迷いが命を失うきっかけともなろう。

H3ロケットのお話を伺ったのだが、わずか百分の三秒手前でノイズによる誤動作を防いだとのこと。これなどはフェイクニュースをしたたかに操る政治家諸氏に聞かせてやりたい。正しい人間の行動は、刹那的なフェイク(ノイズ)も許さないのだ。それこそがサイエンスを基軸にした技術である。その技術力をもってしても台風などはあやつれない。それが良いのかもしれない。人間は弱いうちが良いのであろう。そう思う。

バイコーンで良い

研究者は経営者では無い。雨夜の星の如くに、極々稀に企業経営者をはるかにしのぐ銭稼ぎセンスを持った研究者が世に現れるが、それこそ雨夜の星であるから、早々滅多にお目に係れる代物ではない。学生・教員問わず、起業してユニコーンになれと、蛇口をひねるとユニコーンが飛び出してくるかの如くに政治家は目をむいて叫んでいるが、そんなわけなかろう。世界のベンチャーからユニコーンと呼ばれる社の売り上げの、ほぼほぼ9割がGAFAであって、そのへんの「10億集めました」なんてのは誤差範囲だ。

コロナ禍で少し話題になったが、遺伝子操作型創薬ベンチャーなのだが、ターゲットが決まっていて、規制的な見方が出来ると、打率は低いが一気に資金獲得という方向に向かっていく。目的が明確で、かつ、人の命を救うのだから当然の見返りである。プロセス型開発であり、素材開発と言う点においては新規樹脂開発と工程は似ているのだが、ゴール設定が明確であるという違いは大きい。

医療用ロボットなどは組み立て型のビジネスなのだが、これは二束三文になりがちなのだが、人がどのように関わって、世界に伝播させることが出来ると、サブスクビジネスとの組み合わせで資金獲得の可能性がある。先行逃げ切りのダビンチなどがその好例であろう。特許切れを待って立ち上げたヒノトリなどはご存じの通り。症例が少ない医療機器など誰が使うものか。新規の半導体プロセスとはわけが違うのだ。

日本の中からコアテク系ベンチャーのユニコーンが駆け回る日が来るかと言われれば、可能性は限りなくゼロに近いと答える。要因は簡単で、ブレーキを本社が床が抜ける程に踏みつけて、アクセルを吹かせと言うから。いくつかの大学が回避をきちんとルールを作って出来る様にしているのだが、全国的に広がるには相当の時間が掛かろう。全ての研究者がアントレプレナーであって、チャンスがあるのだが、まぁ、この国で図抜けるなど困難を極める。先ずは小さい者の集合から始めようではないか。そこからで良い。日本的である。

自らに感動せよ

感動無き人生は虚ろである。魂が激動し、来世への、より高い試練の座席を与えられる感動こそ、生きる意味である。これが苦しいからやらない、これをやりたいからやる。それだけの人生を送っている者は、決まって他者の悪口で自らの正当性を語る。おぞましい限りである。感動出来る心を持っているからこそ自らがあり、自らがあるからこそ次の一歩を踏み出せるのである。自らとは他律機能である。自らが生み出した何事かが、他人を通じて社会を変革していく機能である。

ギブアップの声を出そうとも、前に進み続ける姿は美しい。言い訳をもってギブアップする者の、何と醜いことか。そんなことはどうでもよろしい。地獄の業火に焼かれ、肉体から魂が抜けだしたとしても、抜け出した魂が肉体を引きずり、起こし、そして勝利の美しき笑顔で飾られる。それこそが努力であり、感動である。感動は自らに成すものである。

何度挫折しても良い。そこには他者への批判は必要ない。挫折は自らの行動であって、誰の責任でもない。自らにしかきっかけと結果は無いのだ。思ったようにならない。当たり前である。宇宙の中の一つの命の思った様な、願った様なそんな陳腐な狭い出来事が発生して良いはずはないのだ。灼熱の太陽が容赦なく照り付け、体中の水分が蒸発しきり、最後のうるおいである魂までも肉体を離れたとしても、前向きに生きる一歩を踏み出す者の魂を、死神は獲得できない。

今があるなら、過去があったはずだ。自らが挫折と定めたことが過去に在ったことだろう。しかし、今があるのだ。明日があるのだ。言い訳など、なんの意味があろう。過去に足を引っ張った者への愚痴などどんな価値があろうか?自らへの感動の価値を下げるだけである。偏見の海を満たす者の呪いに足を捕られ続けるのか?君は前に進むのではないのか?過去の挫折の理由は自らの力不足だけである。他者の呪詛に引きずられる必要は無い。自らの不勉強と「だから出来なかった」という言い訳だけが自らの感動を阻むのだ。自らの弱さを刮目せよ。それだけだ。

台風10号につき

台風10号が強烈な進路を呈しておりますな。組織として特に27日、28日は在宅勤務をお願いしたい。北西に向かってカニ歩き的に進んでしまって、進行方向右側の、雨風共に大きな影響を受ける位置に名古屋がある。地上を走るJR、名鉄等だけでは無く、地下鉄も大きな混乱を呈するだろう。危険を押して職場に出てくるなどと言うことは止めて頂きたい。電力線の切断なども可能性としてはあるわけだから、分析途中の停電など、悲劇的な状況も考えられるので、外部からの委託も自然災害による延期で対処して頂きたい。

他の地域で、特に台風災害が酷い時に「名古屋だけが何故か被害が少ない」と語る時があるのだが、今度ばかりは大雨の予報が成されており、それは現実のものとなるだろうと予測できる。太陽が地球に与えるエネルギーの、我々が目にして、体験する変換形態の一つが台風である。太陽系という星々を従え、無限のエネルギーを与えてくる巨大な星の力を実感する。がきんちょの頃は、やたらと洪水被害などがあり、台風も大雨もそんなに変わらなかったのだが、近年では台風でも直撃しない限り、インフラの破壊を感じにくくなっている。

この感じにくくなってしまっていることが問題で、能登半島ではお正月に発生した大災害の、水道系のインフラ復旧すら成し遂げられていない現状にある。自民党総裁選などにおいては、近々に発生した宗教的献金問題は勿論のこと、「もりかけ」問題など全くなかったようにマスコミはだんまりを決め込んでいる。忘れやすさにおいては天下一品の日本人であり、感じにくくなっているということに関して、自然災害も人災も似たようなものだなと感じている。

対面会議をWeb会議に置き換えるお願いをしてみたものの、ネットワークが寸断されないとも限らない。そんな時にはすぱっと諦めるしかないのだろうけれど、お尻が決まっている会議の運営は、自然災害の猛威には弱いものだなと思い、いやいや、自然災害に強いものなどなかろうと苦笑いである。先日、炎天下を40分ほど歩いたのだが、完全脱水状態となり生命の弱さを感じた。その熱波のエネルギーが風雨のエネルギーとなって襲ってくるのだ。身構えるべきである。

廃棄考

機械の性能は作られたというか、工場で調整が終了した段階が最高で、搬送、組み付け中に落ち始め、1年も経過すれば減価償却状況である。販売価格には買い換え需要による利益も含まれているから大型加工機などにおいても信じられないほど廉価である。高品位・性能要求は日進月歩であるから、常に最新の機械・機器で工作、分析が成されなければならない。機器の寿命などは保証期間内に決まっている。

それが鶴舞大学においては108ヶ月とか、信じられない期間が設定されている。科学研究費補助金の研究機関が経過しても廃棄できない不可思議な設定が成されている。特に、ギアを含んだ回転機構を有する精密機械など、精度が哀しいほど落ちてしまうし、調整しようとすると新品を購入した方が性能が高くなっているし、遙かに安いなんてことになる。脳内のDXが成されていない者が設定するとこんなことになる。

ひたすら廃棄して、とっとと空き地にしたいのだ。そして「とっとと部屋を開けろ!」という要求はものすごく、それを実現しようとすると、あの手この手で遮ってくる。何故、歩み寄ろうとしないのか解らない。DXが全く成されていないことが一つの要因とも思える。公金で購入している訳だから、返納手続きをしたら「利活用マーケット」に自動で掲載されて、1ヶ月くらいで手が挙がらなかったら廃棄業者が回ってくるとかね。

誰かに使って頂こうとは思うのだが、既に性能が落ちた状態の機器を譲るのも譲られるのも気分が悪いのは当たり前。誰かが邪魔と思ったものなのだから、当然、誰もが邪魔に思う。毎年の物品検査は良いのだが、捨てたい時に捨てられないという状況はなんとかするべきである。最高性能を求める研究の場である。当然のことだ。

街のインフラ

某駅のエスカレーターが故障して久しい。下り方向だからか、修理される気配が全くない。SDGsですとでも言いたげな雰囲気で、カバーがずっと掛かっている。部品が無いのか、修理業者が故障まみれのエスカレーターを設置したせいで、修理が追い付かないのか。真相は闇の中なのだが「修理中」という、ちっとも「中」ではない状況に、この国の現状を見るようで胸が痛い。

ふと、能登半島の惨劇を想う。特に水道系のインフラ復旧が滞っているという。余震が頻発し、土壌の安定を最優先しなければならないわけだが、進捗が妙に遅い。ひょっとすると国は、再び大地震がどこかで発生するのを知っていて、能登半島の復旧に回す部品などを備蓄して、より大都市圏の災害復旧に備えているのではと勘ぐってしまう。都市部にあって、かなりの利用者が活用する機器が延々と「修理中」とさらされていると、この都市部で東南海地震が近々やってくるのかななどと思ってしまう。

建物においても、配線状況を定期的に調べることが義務化されているが、まぁ、人工物で、特に、ゴムなどの生ものは熱や水分等、環境による劣化が激しいわけで、定期検診は必須である。公共インフラにおいても同様に点検が成されているとは思うのだが、あるいは、自動で劣化診断などが行われるようになっているとは思うのだが、どうも、壊れてしまってからの後手後手の対応のように感じる。

コマツさんのコムトラックス戦略は有名だが、同様の考え方が他の企業や公共に広がっていかないのは一体どういうわけであろうか。今、総裁選挙などが成されているわけだが、その目的が税金を吸い上げることだけになっていて、税金を生み出す人々の安全や安心などには還元しないと思っているのか。税金を無駄なくダブりなく使って、無駄を無くす。当たり前なのだが、そうならない国である。あきれる。

博士考

教育に異様にお金が掛かるということと、日本人の博士取得者の絶対数が他国と比べて圧倒的に少ない事と関係があるのだろうか?某氏が「欧米ではそれなりのポジションでは博士を持っているのが当たり前で、日本人は勉強しないと思われている」と仰っている時に、博士課程進学者を企業や国がサポートする社会と、あくまでも個人のことだから、金は自分で何とかしろと言う我が国との在り様で、進学意欲と言うか、そこまで頑張り抜く家庭環境と言うか、そんなところで差が出来るかとちょこっと思った。

奨学金を頂きながら学び、就職したらそれを返還していくということに関しては欧米も我が国も一緒なのだが、博士を取得した人間のサラリーというか、社会的地位と言うか、その差が余りにも大きい事も関係しているのだろう。企業回りをしても「博士取得者は勝手なことをやらかすから、仕事の本流に就けられないのだ」と仰った大会社の会長殿がいらっしゃったが、今の日本においては勝手なことが何時か役に立つだろうなどと言うのんびりさは許され無いのであろう。

一体、我が国は何を造っているのだろうと思ったりするのだが、時々新聞紙上においては「ほう!」と思う発表があり、捨てたものでは無いなと感じるのだが、その時に、その開発チームの学歴一覧なども添付して頂けないだろうかと、博士人材増を目指す組織人としては思うのだ。そんなことを言おうものなら差別だの区別だの、やんやか言われてハリネズミにされるのだろうけれどね。そんなところから「どう考えるか?考え方を考える」ことが出来る博士人材を役に立てるところがあるような気がする。

起業家という点においても、信用のライセンスとして欧米では博士というものが考えられるのだけれども、どうもこの国においては、必死に学ぶことは格好悪いとか思われているのか、余りにも高額と考えられてしまうのか分からないが、もう少し増えても良いのではと思う。魅力ある目指すべき人材像の存在も大切なんだけどね。まぁ、リタイア直前の者が語る事では無いけれどね。学ぶこと、愉快なんですけどね。

ドックにて

一年に一度ではあるが、人間ドックなるものに入るわけだ。人間ドックとは善くぞ名付けたなと、そのセンスに感心するわけだ。各地の港でいろんなドックを拝見してきたが、自らがそこに入って修繕だの改造だのを受けるというのは愉快である。船の気持ちになれるわけだ。年々、検査項目を増やしてきたが、まぁ、こんなもので良かろうと今年は昨年同様だったのだが、その理由の一つが、日程が詰まっていて一泊できないから。結局、多くの知人から「この検査はやったほうが良いですよ」とご指導頂いたことは、来年送りである。ライスワークがライフワークを押しつぶす。この職場らしい。

特に変更する必要を感じないので、とりあえず、昨年と同じ病院で検査ということになるのだが、明らかにDXというか、現場の方々の事務書類的作業は減っているなと感じる。明らかに減っていて、実にスムーズに大勢を裁いているなと感じるのだ。工場の工程管理よろしく、いや、ロジスティクスセンターの如くと言ったら良かろう。鶴舞大学でも採用するべきだと思うのだが、決して受け入れないのだろうなとため息が出る。

コロナ禍で行われなかった肺活量というか、呼吸器関係の検査が復活していて、しかも5年ぶりということで機械が全く変わっていてどぎまぎしたが、一発でクリアしたら、現場の方にえらく喜ばれたというか感心された。手こずっている雰囲気があって、ちょっと緊張したわけだが、機械的に活動することには慣れてはいるのだが、まぁ、偶然である。あんなもの、一発で出来る方がおかしい。

胃カメラだのなんだのと、なんだか、検査がいい加減になったか?と感じてしまったのだが、本当にいい加減だったのか、機器の検出感度や解像度が高くなって、いい加減でも昨年並みの情報収集が出来るようになっているということなのか?検査技師の方々が手抜きの手法を体得されたのか?これから高齢者当たりの医師や技師(技士)の数がどんどんと減っていくと言われている。その方々の育成のあり方の改革も急務だ。ドック入りしながらそんなことを思っていた次第である。

歴史に学ぶ

愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ。愚者となる者は自分の経験から学ぶことが出来ると信じている。賢者と言われる者は、事前に自らの誤りを避けるため、他人の経験から学ぶことを求める。ただ、この国は失敗だったり政治の誤りだったりはきれいさっぱり消し去られてしまうし、有権者が賄賂と引き換えに帳消しにしてしまうから、他人の経験、即ち歴史から学ぶことはほぼ出来ない。自分が苦悩して血まみれになった歴史など忘れたいものだが、繰り返す歴史の中では知恵として残しておくことも悪いことでは無さそうだ。

8月は第二次大戦にまつわる報道などが比較的集中して行われているわけだが、某氏が暗殺されて以来、この国が隠してきた戦争加害者としての視点が報道されるようになってきたと感じる。原爆報道などは被害者としての視点一点張りなのだが、加害者としての末路という観点をもっと次の世代に繋ぐべきだと思っている。その観点を失うと、永遠に文明人に成れない。文盲の民と言われても仕方が無かろう。自らの歴史を正しく持っていないのだから。

ご近所にB29の襲来に対応した高射砲陣地があったことを知ったのは、かれこれ20年前なのだが、この夏に、近所程ではないが、住まわせて頂いている区の中に、捕虜収容所が存在したことを初めて知った。何とも情けないお話で恐縮してしまう。極々一部の遺構が残されているのだが、それに纏わる私小説を、鶴舞大学OBが残されていたこともこの夏に知った。

自らの経験を骨身に刻み、自らの戒めとすることは正しい。しかし、自らが成せることなど、極微なものだ。他者、そして国、世界の経験から学ぶために心眼を開かねばならない。人依存性の高い歴史は共有されていないから、突然、組織が瓦解していくこともある。狡兎死して走狗烹らる。これも歴史から学べることなのだが、為政者は熟慮するべきだ。そう思う。