歴史に学ぶ

愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ。愚者となる者は自分の経験から学ぶことが出来ると信じている。賢者と言われる者は、事前に自らの誤りを避けるため、他人の経験から学ぶことを求める。ただ、この国は失敗だったり政治の誤りだったりはきれいさっぱり消し去られてしまうし、有権者が賄賂と引き換えに帳消しにしてしまうから、他人の経験、即ち歴史から学ぶことはほぼ出来ない。自分が苦悩して血まみれになった歴史など忘れたいものだが、繰り返す歴史の中では知恵として残しておくことも悪いことでは無さそうだ。

8月は第二次大戦にまつわる報道などが比較的集中して行われているわけだが、某氏が暗殺されて以来、この国が隠してきた戦争加害者としての視点が報道されるようになってきたと感じる。原爆報道などは被害者としての視点一点張りなのだが、加害者としての末路という観点をもっと次の世代に繋ぐべきだと思っている。その観点を失うと、永遠に文明人に成れない。文盲の民と言われても仕方が無かろう。自らの歴史を正しく持っていないのだから。

ご近所にB29の襲来に対応した高射砲陣地があったことを知ったのは、かれこれ20年前なのだが、この夏に、近所程ではないが、住まわせて頂いている区の中に、捕虜収容所が存在したことを初めて知った。何とも情けないお話で恐縮してしまう。極々一部の遺構が残されているのだが、それに纏わる私小説を、鶴舞大学OBが残されていたこともこの夏に知った。

自らの経験を骨身に刻み、自らの戒めとすることは正しい。しかし、自らが成せることなど、極微なものだ。他者、そして国、世界の経験から学ぶために心眼を開かねばならない。人依存性の高い歴史は共有されていないから、突然、組織が瓦解していくこともある。狡兎死して走狗烹らる。これも歴史から学べることなのだが、為政者は熟慮するべきだ。そう思う。