認知コスト

世界中が暑いのだから、暑い暑いと苦言を出しても無駄なことだ。認知コストを無駄遣いする愚痴はやめたほうが良い。朝の5時前後に宿舎を出ると、朝日が昇る前になってきているから、少しは暑さが和らいできている。どんな活動を選択するかで、暑いと思考する認知コストを下げることが出来る。脳の疲労が閾値を超えると、当然のことながら、生産的思考が出来なくなるわけだから、閾値に到達する前に集中して仕事をするのが良い。生理的には4時間が限界らしいから、本の数分でも脳の無駄遣いはよろしくない。

こんな知識こそ認知コストの無駄遣いかもしれないが、各人が成せることを最大限に発揮している組織にならないと、どんどんと新しくなる教育サービスなど実行できなくなる。人は今を手放さないから、新しいことを思考してしまうと、やることが増えてしまって宜しくない。新しいことをやるには、古きことを2つ捨てるというのが正しいとは思っているのだが、個人経営事業者では無いから、これがなかなかにして難しい。これを理解しないと次も理解できないからと言われると、そんなものかもしれないなと思うことがあるだろう。

しかし、街に出てみれば、パンケーキミックスとか、千切り野菜とか、もう、事前準備を整えてくれているサービスがあるわけだ。海外においては、事前学習はWeb上で「自分で予習してこい」という状態が20年も前から当たり前になっている。JABEEの講習会では当たり前なんだけど、日本ではどうも受け入れられない。一日の読書時間がゼロという学生が全国生協調べで2022年度データで46.4%で予習復習に当てている時間が平均で61分だ。この数字を見せられると「予習などさせられない」となるのかもしれない。

その要因が「アルバイト代が必要だから、その時間確保が重要だ」とか、何か、ちょっと違うのではないかと思うのだが、それが「古い頭」と言われてしまうと、何を学ばせたいのかという根本的思考を放棄しているのではないかと感じてしまう。教える側、学ぶ側早々の認知コストを有効活用する手法を生み出していかないと、限られた人員で社会が欲する人員を排出できないのではないか。学び癖がとても大切だと思っている。学ぶことが当たり前になると強い。自頭と言うことなんだろうけれど、それを求めるのは無理なのだろうか。虚しさを感じる。

重箱の隅の人は?

あらゆることを考えて、ベストな判断をしろと無茶を語る人は、重箱の隅をつついてくる人かなと思う。その逆かな?重箱の隅をつつくような人だから、あらゆることを考えろなんて出来ない事を注文してくるのだろう。解決するべき問題を特定せずに、延々と問題の掘り起しだけを続けて行く。日本人特有なのだろうか?小生は違うのだが、そんな方が目の前に現れて、馬耳東風のくせにやたらと問いかけられて辟易することがある。

近未来で問題になりそうなものを特定したら、その問題を分解して、問題を解決したことをどうやって理解出来るかを考える。その為には問題を特定する時に、徹底した仮説検証が必要で、その仮説をどこまでエビデンスベースで追い詰められるかが重要である。単なる思い付きでは課題の抽出に至らない。問題は複雑で、関数関係にあるものを一塊においてしまうともう解けない。重箱の隅の人はその思考が出来ないような気がする。

事象を分解して思考することはかなりのトレーニングが必要なのだが、案外面白いものである。気が付くとそんなことばかり考えて居る自分に気が付く。アジャイル思考も必要だから、分解された課題を解決して、問題解決に近づいているかを検証していく。勿論、初期の仮説がしっかりと立てられていれば、一気に解決に近づくことだろう。重要成功要因とか言われるけどね。

解決された課題をどのように組み合わせて問題を解決するのか。それはもう、評価と絞り込みしか無いわけで、これは問題解決によって生み出されるアウトカムズを基準として評価するしかない。問題はアウトカムズベースで設定し、思考しなければ価値を生まない。重箱の隅の人には全く無い思考である。だから重箱の隅の人とはお付き合いをしたくないのだ。そんなもんだ。

討論考

ずっとそうなのだけれど、人と人とのお付き合いで聴き力が一番大切かなと思っている。思っているだけでそれが自身、しっかりと出来ているかと自分を見返すと、まぁ、完璧に出来る筈はない。そこそこ鷹揚に構えて意見を拝聴させて頂くわけだ。馬耳東風であってはならない。また、馬耳東風の方の意見に耳を傾ける必要も無い。それは単に時間の無駄遣い。自分の胸に溜まった不快感を吐き出させてくれという注文が殺到するのだが、それはどっかに穴を掘ってやってくれと言いたい。

ご意見を拝聴させて頂くのだけれど、その時に「この人はどんな経験を積まれた結果、このご意見に到達しているのだな」と探らせて頂いている。会話の中でどのタイミングで割り込んでこられたとか、特に熱心に繰り返される単語とかを聴き落とさずに拝聴する。するとそのご意見が景色となって表れてくる。自分事に置き換えては絶対にいけない。そして、良い悪いの判定などは以ての外である。経験から来るご意見なのだなと拝聴させて頂くわけだ。

すると疑問が湧いてくる。この方のご意見の根底にあるのは喜びなのか悲しみなのか、陳情は大抵、怒りの感情が発生源であることが多いのだが、それを身構えてしまうと、正しく受け止めることが出来なくなってしまう。あくまでもお地蔵様の如くに拝聴させて頂かなければならない。ご意見を総合して「これが主張ですか?」と討論を進めると「そう!」となるか「違う!」となるか、どっちかなのだが、いずれにせよ、ご意見の次に期待されるアクションが想起されるわけだ。そのアクションはご自身も関わるべきアクションになることが多いから、一方的なアクション提案であってはならない。

ここで難しいのは目の前にいらっしゃる方の価値観を取り違えてはならないということだ。当該事業所においてDXが一向に推進されないのはけしからん!というご意見に対して、言い訳をするのは以ての外だし、途中経過もご法度だ。あくまでも目指しているゴールをお話をさせて頂き、そこから「この方の価値観はこっちか?」と探りながら討論を進めさせて頂いている。一事が万事で、一方的に物事を押し付けて来られる方には一般解しかお答えできない。特解の討論は美しいが神経をすり減らす。価値観を探るご意見の拝聴。なかなか難しい。

SDGsは何処に?

昨日、SDGsの話題が某所で出たのだけれど、ふと、自分は何をやっているのかと考えた。そもそも論、日常的に行っているのは週末の買出し位で、その時だって、スチロールのトレイやラップにくるまれた肉だのなんだのを平気で勝ってくる。地球環境や社会に配慮されたエシカル商品とか、そんな意識を持って買い物などしていない自分に気が付く。そもそも論、フェアトレード商品を置いてある店などに出入りしていない。

ウェブ上では見かけるのだが、日用品などは分かり切ったものでない限り、手に取って購入することが多いし、家電製品などは、そもそも論、横着をしたいから購入するのであって、SDGsなんて言っていたら、アイロンなんて使えない。熱エネルギーで着衣を整えるなど、言語道断!きょろきょろ見渡してみると、ポットに一日分のお茶を作って持ち歩き、ペットボトルなどはほぼ購入しないとか、その程度はやっているかもしれない。これも好みのお茶を飲みたいだけなのだが。

夜間のエアコンだって、日中のお仕事に差し支えてはいけないから、睡眠を獲得するために活用している。入浴だって当然する。SDGs命の人達は、この気候変動の最中にどんな生活をしていらっしゃるのだろう。毎週、決まったマーケットを探訪するわけだが、確実に商品の値段が上がっている。ガソリンが値上がりすれば、輸送コストが上がるわけだから止むを得ない。来年は物流費用が更に上がるのだろうから、どこまで財布のひもを締められるのだろうかと、恐ろしい気がする。

その昔は店先にたまごだのたまねぎだのが並んでいて、さながらヨーロッパのマーケットの雰囲気であった。それがいつの間にか冷蔵庫が並んで、そこから取り出すようになってきた。きゅうりが真っすぐになって、大きさもそろってきた。そんな余計な手間暇のこちら側に居るだけで、既にSDGsでは無い。貧乏なくせにSDGsとは無縁のところに居る。SDGsって何処にあるのか?疑問である。

ジョブ型

ジョブ型雇用って聴こえは良いのだけれど、いざ、それを活用した時に、どれだけの能力を有しているかを定量的に表現することを日本人の多くは体験していないなと、日経新聞などを見ていて思った次第。その昔、とっても昔、某社に派遣されてとある装置に関わらせて頂いている時に、海外から来られたプロフェッショナルが、時間があると何かを纏めていらっしゃり「それ、何ですか?」とお尋ねしたら「スキルリストである」と教えて頂いた。

どんなプロジェクトで何を任され、自らが関わることによって、今までに不可能であったことを45%改善している。それを実現したのは自らのこんなスキルということを極めて定量的に示していらっしゃっていて、君もやってみたまえということでご指導頂いた。君なら米国で仕様書ライターになれると仰って頂き、あぁ、就職先はありそうだなと思った博士課程学生時代であった。残念ながらそのスキルは何処かに行ってしまい、こんな駄文で喜んでいる。

このジョブを叶えてくれるのであればいくらのサラリーを出しますよという雇用の仕方は、日本人的に周りの目を気にしてしまうとなかなか難しそうだ。これを終えたから、別のお仕事に移動します、さようならということがフレキシブルに許されるのであれば、能力を活かす社会になっていくのだろうなと考えている。ネットワークを活用しない社会の代表格が日本であるのだが、お盆という日本古来の日程中に「会ってくれ」とか無謀な要求がくる始末。文化違反は許されまい。

バブルに向かう昭和40年代の思考が、ずっと続いてきていると感じている。企業様の強みは何であるかということも、顧客満足を叶える中核技術もなんだかごっちゃになっていたり、誰かが居なくなっても誰かが代替できるということが組織の有り様と考えられてきた。それはそうなのだろうけれども、圧倒的な強みは出ないのだろう。我が国にも数社、そのようなお会社がいらっしゃるが、流石に世界トップを走っていらっしゃる。日本においても真のジョブ型が実現できるのだが、それに挑戦できるようになるには、意識のDXが必要なのでしょうね。遥か彼方だな。

SDGs考

Youtubeでススキの根を株ごと取り去る動画を見て、ススキと言う植物の強さにある意味感動した。江戸時代までは里山の4割は萱の原料であるススキの原だったそうで、屋根の原料から田畑の肥料にまでなるSDGsの根源だったわけだ。それが今では邪魔者扱いで、株ごと抜き取られて捨てられる存在になっている。SDGsだなんだとうそぶくが、結局は経済の道具としているわけで、2030年までにサステナブル目標の一つでも達成できるのか怪しいと感じている。経済原理まっしくらの世界だからね。仕方が無い。

ススキの株と戦う人達の悪戦苦闘ぶりが凄いのだ。木の切り株を取り去るほうが容易に感じられてしまう。そりゃぁ、樹齢100年の切り株を抜き取るような事になったら半端なことでは無いのだが、ススキの株の強さには感動する。これだけ強いからこそ、屋根の上で数十年、耐えるのだろう。ススキの驚きに、大地を溶かして、自らに酸化ケイ素を取り込んでいるというのがある。これは別の機会に知ったことで、ほぉぉっと思ったことだ。そしてしなやかさを産む進化とはこのような事だなと感心したこと。

ススキだけに限らないようだが、ススキは特にその性質が強いそうで、根っこが大地の原料である酸化シリコンを溶かして、自分の体に取り入れていくこと。酸化シリコンって要するにガラスの原料だから、ススキを大量に燃やすと、その灰の中にガラスが出てくるのだ。小生はがきんちょの頃、おふくろの実家で放置されていた農地のススキを刈り取り、野焼きの後に、大地に飴のようなものが残ったのをはっきりと覚えていて、「あっ、あれがガラスだったのか!」と知ったのが10年くらい前。それ以来、もう一度、やってみたいなと思うのだが、阿蘇の野焼きを手伝うと感じられるかなと思ったりはしている。

興味なんてそんなもんで、子供の頃、神秘に感じたことをじっと大切に思い出しながら育てていると、ある瞬間に神様が啓示を下して頂けるわけだ。そんなススキに対して、人類が悪戦苦闘しているビデオを拝見して「おいおい、それは無茶だろう」と思いながら、知らないと無駄な力を必要とするのだなと、学ぶ理由に気付いたりする。SDGsなんて言うのなら、もっと学んで少ないエネルギーで目的を達成することをすれば良い。省エネなんて言わないで「やらない」選択肢もあって良い。動きたくなくなる灼熱の夏の言い訳にはちょうど良い。

挑戦と失敗

挑戦と失敗は対である。失敗との対は成功と考えてしまうが、小生は挑戦と考えている。今の有り様は先人がその時の常識で創り上げてこられたものだが、それはその時の挑戦の結果であって、それすら、本当に正しかったのかどうかなどは、未来を基軸にしないとわからない。博士後期課程進学者を増やすにはとあれこれと考えてきているわけだが、現状においてもかなりの支援策があることが解って来た。立法府に居ながら「わかってきた」という位だから、学生諸君には全く見えなかったのではないか?

ルールはあるのだが、そのルールがきちんと納税者に届いていない。これは何も大学に限ったことでは無いのだが、少なくともそれに気付いた以上は対処せねば気が済まぬ。あちこちから槍が飛んでくるがいつもの事。DX砂漠においては上方の掘り起し、発掘から開始しないといけないところが極めて辛く、私物化された情報を明るいところに出さねばならぬ。何故、こんなことになっているのだろうと悩まないわけでは無いが、悩みながらも進まねばならぬ。

過去の実績に執着、固執して「こうするべきだ」と迫られるわけだが、いや、未来をこうしたいから挑戦するのだと言ってみても、そんなことは過去の実績からするとドン・キホーテだという。大いに結構である。失敗と言っても、自分が描いた理想のイメージとずれたとしても、活用して欲しい皆さんが笑顔になればそれで良いのだ。だから理想は広く持たねばならぬ。ピンポイントを狙うと擾乱によって元の木阿弥に戻る。それは避けるべきだ。

有識者は大学改革は全く進んでいないという。いろんな理由があろうが、何が出来るのかを考えて出来る事をパッチで付加し続けた結果である。原資が必要であれば、それは無謀な予算建てでは無く、無くすところは無くして、その後、建て替えとなる。無くされて槍を持つ方が多いが、受益者は未来の者であることを忘れてはならぬ。受益者がどんな力を未来で発揮して頂きたいのかを考えねばならぬ。それは狭い世の中では無い。世界の中でどうふるまって頂けるかを考えねばならぬ。5年が勝負だ。

古風

物価だけが猛烈な勢いで上がっていく。現役を退いてしまっているから、大型の装置などを購入することは無くなったが、現役の皆さんは大変だ。消費税もどんどんと上がって来て、億円単位の買い物をすると、その消費税の大きさに度肝を抜かれる。国家が正しく使って頂ければ諦めが付くのだが、一体、何処に消えていくのだろうと災害の有様を見て思う。100年に一度の災害が毎年発生している状況で、インフラ整備を何処までやれば終了するのだろう。

円が上昇傾向とか言うわけだが、絶対値的に80円台を経験した身にとっては、凄まじく安い。通過が安いということはそれだけ国の価値が低いと海外から見られているということだ。日本人には手が届かない旅行だって、海外の人は安い安いといって利用している。まぁ、友人がワーケーションですと、ウエブ会議を石垣島の太陽燦々の生中継でやられてしまうと、楽しむことって必要だなと勉強させて頂ける。何の為に生きているのかと、そんな時に思ってしまう。

人間が古いから、自ら進んで楽しむということが出来ない。研究に没頭するとか、仕事に打ち込むとか、そんなことしか教わってこなかったわけで、今においては職制もあって土日も何も無いわけで、なんだか不幸にあった身内のことを思い出してしまう。そんな年齢になってきたわけだから、少々、ストレス低減の方向に向かいたいものだが、それが許される雰囲気は皆無である。

背負ってきたのか、背負わされてきたのか?謎ではあるが、何故か今がある。好んできた分けでは無く、何故かこうなっている。そろそろ好んで何かをやって良いのではないかとは思うのだが、なかなかそうもいかない。いろんな関係性を一気に断ってみたい気がするのだ。そんな人種が少なからずいらっしゃるような気がする。だから我儘は言ってはいけないのかもしれないが、灼熱の毎日、雨でちょっとはマシになったが、いよいよ開けそうな梅雨を前に、へたれた精神に鞭を入れる。やっぱり古い人間だと苦笑いである。

カラスに負けている

小生が研究室の学生となった時から、技術系商社の方に助けられてきた。ものづくり系研究室でずっとやってきたから、こんな部材が必要だと指定して購入するだけではなく「こんな機能を持ったものを紹介して頂けないだろうか?」とお願いをする事が沢山。無茶なお願いも沢山あったし、ガマの油売り地区からお江戸に出向いて購入してきたこともあった。本当に「こんなものがあったんだ!」と驚かせて頂ける物品が沢山あった。

鶴舞にやってきてからというもの、最初に戸惑ったのは商社さんとのお付き合いであった。自動車系企業とのやりとり慣れをされた商社の皆様は、大学の研究者から「こんなものを?」と言われても「型番が無ければ受けられないね」と完全に見下してきた。見積もりをお願いしますと言っても、一個だけの、しかも、買うかどうか分からないものなんざ相手にしていられないのでね、別を当たってくんな!と、時代劇のようなやりとりをさせれて辟易した。どうすりゃ良いのだと悩んでいた時にO社のK氏がやって来た。

どんな無茶でも靴を減らして頂けて、研究が進みだし、新しい機械を作り、データを出し、その度に、新しい注文をさせて頂いて、こんなものかあんなものかと、一緒に考えて、共に研究を進めて頂けた。数年の後、K氏は別の部局を担当されるということで、I氏に代わられた。K氏からの申し渡しというだけではなく、I氏は誠心誠意という言葉はこの人の為にあるのだと、パートナーとして一緒に研究をして頂いた。今日があるのはI氏のお陰である。感謝している。

そのI氏も偉く成られて現場を交代することになり、代替わりの時を迎えてしまった。生涯忘れることは無いので、精一杯のエールをお送りさせて頂くのみであるのだが、辛い別れである。で、代替わりになったわけだが、途端にお願いした場所にお願いしたものが届かなくなった。次いでだからここで良いのだろうということだろうが、そういうモノでは無いのだ。自らの精一杯と顧客満足とはまるで違う。顧客満足を目指した前任の想いが伝わらないと、O社様も哀しいことになろう。Z世代だと、それだけでは済まされまい。これが日本の現状である。

知恵比べ

カラスが増えてきた気がする。そして賢くなっ来ていると感じる。緑区と言う田舎においても宅地化が進み、カラスの住処は沢山あるのに、ネズミなどの小動物がへっているのだろう。燃えるごみの日の人とカラスとの格闘はすさまじい。ネットを掛けているくらいでは上手に剥がして、中の生ごみを引っ張り出す。すると人はコンテナケースに金網を掛けて、その上から重石を乗せてカラスと力比べをするわけだが、そうすると、ごみ収集の皆様の労力が大変なことになるわけだ。

カラスとの知恵比べのはずが、力比べになり、そうなると今度は人間の利便性を阻害する方向に向かう。海洋マイクロプラスチックが魚に蓄積されて大問題だとか、ビニール袋をウミガメが食べて死ぬからと、脱プラスチックと言うか、SDGsというか、聞こえが良い方向に向かって動き出すのだけれど、便利を求めてきた人類がそう簡単にそれを手放すのかなと悩みながらも、新規開発は正しいとは思う。雑草という無限の資源を活用出来たらと、多くの人は思っているに違いない。

ススキを生活に取り入れていた時代があったわけで、勿論、そこに戻ろうなんて決して言わない。では瓦屋根はそれを製造するときにCO2を大量排出するから許されないとか、言っている人はいるんでしょうけれど、何処までそれを突き詰めるかだね。焼かないセラミクスというのがあるけれど、アルカリ処理でそれが環境に完璧にやさしいと言い切れるのか?そのプロセス全てにおいて、エントロピー変化を生じさせるために活用する薬品だのなんだのを含めてカーボンネガティブと言えるのか。

カラスの知恵の進化に魂消るわけだが、人も同様に進化しているのだろうかと疑問に感じる。これが気に入らない、あれが気に入らないと言うのは簡単なんだけど、じゃぁ、全ての人が気に入ることってなんなのかと言えば、空気や水が綺麗であって欲しいくらいのものだろいう。いや、水で儲けている人は、綺麗であってもらっては困るというかもしれない。絶対なんてものは無いなと、カラスとの知恵比べをしていて思った次第だ。