広辞苑

紙の辞書を最近使っていないなと。書斎の新明解国語辞典の裏表紙には、中学1年生の頃から名工大に転任になるまでの歴史が刻まれている。ネット時代において紙の辞書は場所を取るだけの存在になってしまっているが、ブリタニカの全集も未だに手の届くところに鎮座している。おやっと思うとすぐさまそれに応えてくれる紙の集合体は、古代人にとっては有難い存在だ。

新明解に限界を感じ、もう少し語彙を増やそうと広辞苑を購入したのは博士課程の1年生。某ガマの油売り大学は5年一貫の博士課程であったから、その3年生の時である。後輩の卒業論文の添削の為に購入したことを覚えている。今、教授室にはそれが鎮座している。しばらくそれを紐解いていないのだが、捨てる度胸が無い。恐らく、断捨離されることは無く、ここを去るまで居座っているのだろう。

辞書と思わしき紙の束が、教授室にどれくらいあるのかと眺めてみると、英語関係が最も多いが、中国語、ロシア語、スペイン語が目に付く。何故購入したかをしっかりと覚えている。その時代時代に必要であった言語である。自動翻訳機が出現している現代において、会話そのもののために語学を学ぶことに意味を感じないが、文化に触れる、理解しあうためには、語学を体得することは、国境を超え友達になるためには必須だと思っている。

相手の発言の向こうにはどんな意図があるのだろうと、近寄ろうとする前に、これを理解せよと迫ってくる方々がなんと多いこと。言葉に出す前に聞き手の感覚を意識しない。理解して頂いてこその会話であり、プレゼンテーションである。カチンと来たら自らを省みる。日々これ反省の私であります。

マルシェ

10月に2週続けて週末に台風が日本列島に強い影響を与えた。10月といっても月末であり、11月と言っても良い時期だ。この時期に、日本近海の温度が高いということは、相当に温暖化が進んでいるのでは無いのか?たまたまの気候変動であれば地球のくしゃみ程度なのだろうが、10月の日照不足はちょっと異常な気がする。これもたまたまであればそれはそれで良いのだが。

週末は可能な限りマーケットに出掛ける。マーケットと言ってもマルシェよろしく、地域のその季節に収穫された野菜を、綺麗に飾らずに販売している店舗に出掛ける。例年に比べて貧弱な青物に出会うと、天候不順がかなり深刻だなと実感する。緑黄色野菜を摂取しなさいみたいな健康志向があったとしても、地元で獲得出来ない場合には、遠方からはるばるやってくる栄養素が破壊され切った繊維だけを食するような気分になって気持ちが悪い。

普通のマーケットに行ってみると、○県産と、遠路はるばるようこそお越しくださいましたとばかりに、着飾った食品達が陳列されている。それでも例年に比べて高価に感じる。安部首相が叫び続けている物価を上昇させるのだという国内情勢を、気候はいとも簡単に達成する。自然の強さである。自然環境にこそ恐れをなすべきであって、自らの弱さを知り謙虚になるべきだ。食糧自給率に関して、瞬間瞬間の値を見たら、一体、どうなっているのだろうかと背筋が寒くなる。食糧事情が悪化すれば、健康保険料にすぐさま跳ね返り、お国の事情は労働力低下、予算不足に一直線。消費税を上げようが、買うものが無くなれば元も子もない。

世間をうろつくのは日曜の限られた時間しか無いのだが、なんとなく、それこそなんとなくなのだが、例年と比べて妙な感じがする。食べられるものだけ食べていれば良いのだが、ドメスティックなマーケットに通っていると、一体何が起こっているのかと、気象だけの問題か?と様々に不安ばかりが想起される。自分では解決不能な事実に悩むことほど愚かなことは無いのだが、いきなり食べ物が無くなるとそれはやはり不安の種だ。自然に謙虚に、人に謙虚に丁寧に、やっぱりこつこつと一歩一歩だなと、どう逆立ちしても勝てない台風に首を垂れる私であります。

Paradise Cafe

馥郁たる香り漂うところ、そこはParadise Cafe。親の趣味の受け売りでもあるが、コーヒーを「淹れる」ことが趣味である。コーヒーを飲むのもそれは好きだが、それよりも何よりも淹れる行為にこそ楽しさがあると思っている。

種々の謂れがあるなかで、アフリカのコッファの港から輸出され始めたからコーヒーとなったという説を好んでいる。趣味だから何でも良いというわけではない。えぐみ少なく甘みとアロマを抽出する。その抽出の行為こそ「淹れる」行為である。サイフォン、ネルフィルタドリップ等々、様々様々試してきた結果、今の方式に落ち着いている。難しい能書きを垂れる方は勝手に言っていて頂戴と、一杯2000円なんてコーヒーを有難く頂戴している方々はどっかに行っていて欲しい。

コーヒーを嫌いという人は、煮詰まって甘み無く、香りも無く、ただただ茶色い液体を飲まされた経験に依ると思う。勿論、嗜好品だから、好き嫌いは当然の事。無理はしなくて良い。ただ、残念なことだなぁと思う。折角、お茶を飲む文化がある日本なのに、同様の飲み物を楽しんでも良さそうなのだが、どうもそうはいかないらしい。真っ黒いから嫌と言われてしまうと、あぁ、そうですかと言葉を返す必要もない。

「教授の淹れるコーヒー」で評判を博したParadise Cafeも9年で幕を閉じた。閉じたのを幸いに、別店舗で開店しようじゃないか。何時、開店しているか分からない。それがこれからのParadise Cafeである。

秋晴れ

あなたの趣味はと尋ねられたら、5億年くらい語り続けるかもしれない。恐らく、先祖代々を遥かに超えて、128億年前に生まれた宇宙を越えて受け継がれたのではないかというくらい、熱中するものはある。真逆に、何にも無いという者も多いようだ。楽しみも無ければ、大学卒業後にどんな仕事をさせて頂いているかもイメージ出来ない大学4年生とは何事だと思う。自らの想いがどうなっているかは別問題として、誰かのために頑張っているんだってイメージくらい、抱いていても罰は当たらない。

久しぶりの晴れ間を仰いだが、昨日の戯言を神様がご覧になられたかどうかは知らないが、やはり晴れは良い。地球は丸いのだなと感じる。あぁでもない、こうでもない、無駄にシナプスが繋がったり離れたり。人間はこれから何処に行くのだろうかと、南極以外、陸地にはすべからく人間が住んでいるというのに、やはり発祥のアフリカを思い出す。何を馬鹿をと仰るだろうが、一人、サバンナを歩いていた記憶がある。灼熱の太陽に体を焼かれながら、とぼとぼと歩いていた記憶がある。貴方にもあるだろう?

二足歩行を始めてからたったの700万年だ。つい、昨日の気がする。現代は車輪を通じて地球に対して加速度を得ているが、人類は自らの肉体をもって地球と対峙するべきなのだと思う。数が増えすぎて誰かがリーダーとなっているが、宇宙が作った遺伝子とはなんなのか?偶然の産物にしては物事が整っている。整い過ぎている。エントロピーは増大する筈なのだが、減少方向に向かってはいないか?

なぁんて、それこそどうでも良いことをつらつらと考えてしまう。これこそが秋空であるべきだ。何があっても変わらない天空の青さと日本の政治。明治維新に立ち合いたかったわけではないが、為政者が趣味でもろもろいじくりまわすものだから、国民はひたすらあくせく歩き回る。歩き回っても当たる棒が無い。それが日本である。だからこそ、当たる棒を作らねばならぬ。こんな駄文こそ戯言だ。明後日、山に行けるのか?なんだか不安だが、それはそれで良いのかもと、週末の台風に、またきたかと、いよいよ海水温が限界を越えたのかと、それでも現生人類は生きていかねばならぬ。地球上、どこに行っても真夏の大地で、生命の95%が絶滅した2億5千万年前のメタンハイドレートが噴出した時代に近づいている。愚かな人類はそこまでいくのかと、久しぶりに太陽を仰ぎ見て感謝を越えて恐れを抱いた私であります。

雨に想う

少雨の夏が過ぎたら雨ばっかりの秋が来た。遠い秋空を仰ぎ見て思索に耽ることも無く、傘で空を遮りアスファルトの道路の水溜まりを避けながら、冷たくなっていくズボンの裾に嫌気を感じつつ日々の会議を想う毎日だ。毎日快晴なんてことになったら、要するにそこは砂漠なのだろうから、雨は恵と感謝しないといけないとは解っていても、降るなら真夜中にまとめて降れよと、叶わぬ思いを心の中で愚痴ってみたりもする。

ただ、考えてみると、雨が降るというのは重力に従っているということだ。我々とて重力があるから歩行できている。無風ならば雨は地球の中心を指しているのだ。物凄い物差しだ。ふらふらする人間よりよっぽど偉い。侘び寂びというところには到達してはいないが、心の中で偉いと思い、成すがままに地球に引かれているさまを寂びと捉えると、雨を見て侘び寂びを楽しめるかなななどと笑ってしまうと、もうそこには侘び寂びが無くなってしまう。先人の人生観の高さに脱帽するのみである。

うなだれて歩いていると気分も滅入る。懸命に努力しても結局は短期決戦で長期の努力が消えてしまうプロ野球の仕掛けにも滅入る。その昔は野球小僧であったが、今のプロ野球の仕組みのつまらなさには呆れかえる。頑張って一番になっても後から来た奴らに上前を跳ねられる。親方日の丸にはよくあることだが、こんなことで本当に良いのかなと、だんだん興味も薄れてきている。良い執念が実る、そんな社会が嬉しいと思っている。そうなるように努めようと思う。

最後の剣客と呼ばれる榊原鍵吉氏の墓所が四ツ谷西応寺にある。明治になっても刀を振り続け、明治天皇が趣味で開いた鉄兜を刀で割らせるという無茶苦茶な貴族主義的興行で、全国から集められた元武士3人の中、たった一人、鉄兜を割った人物。成せばなるかもしれない。成さぬと捨ててしまう人が多い中、何かを貫き成してみる。成してそれまでの努力は報われ、努力だったのだと当人は納得できるだろう。雨も降りたくて振っているのではなく、地球環境がそれを求めるから振るのであって、人間の都合などどうでも良い。いや、飲料水、食糧、諸々全てにおいて雨は有難い。有難いのだが、やっぱり夜中に振ってくれよと傘越しに空を見上げて苦笑いをした私であります。

 

進化?

挑戦があれば結果がある。結果を得ることを恐れると何もできない。天の声、神の声、様々な声と鉄槌があるが、その瞬間に猛烈に強烈に生きることをしないと、凄まじく短い人生なのに、何もせずに、そして生きた証すらなく終わってしまう。誰も尊敬することなく、畏敬の念を抱くことなく、我儘し放題な連中は、そんなもんだ。天上天下唯我独尊と、利己主義人種は、結局のところ、自らも幸せにすることなく消えていく。

このプロセスは、思うに人間という種の在り方とは異なるのではないか。お互いに声を出し合って、助け合い喜び合い、時には怒鳴り合い納得しあって数万年を生き抜いてきた種とは異なっている。声の無いネアンデルタール人に回帰していると感じる。学びで自我を埋めもせず、智慧の発信源を尊敬せず、そして自己満足もせず、シナプスを繋げることもせず、そんな新人類が出回っている。遺伝子的にはホモサピエンスかもしれないが、脳細胞は別のものだ。

会話は無く、誰とも目を合わさない。他人を無視する素振りを見せて、その実、徹底的に排除する。それが現生人類であり、それらが学校の先生という職に就き、同人種を指数関数的に増大させ続けている。未来ではなく自らの価値観、いや、エゴ、いや、なんと言ったら良いのやら、自らを除く同様の形態をした物体を喜ばせることは決して無く、そこで完結したその物質は、気持ちの悪いことに、どんどん、他種を仲間に取り入れ、気が付けば、昨日まで「おはようございます」と声を掛け合った方ですら、むすっとさせる。

6千5百万年前、ユカタン半島に落ちた、直径400mの隕石が遺伝子の発展の終焉にたどり着いた種にとどめを刺した。単一遺伝子で動くたんぱく質集合体であるホモサピエンスは、まだ、1億年の時を経ていないから、まだまだ遺伝子は変異を続け、新種の発現を止めることはない。共食いを始めた新種は旧種を滅ぼすだろう。気分的にはさっぱりだ。と、数年前から感じていたことだが、「のぞみ1号」という始発に乗ってみたら、隣の背広を着た新人類が、旧人類では理解できない様々な活動で朝の静寂をぶち壊してくれるので、とっととこのステージから消えていこうと、ぐっと握り拳、決意を固めた私であります。

大嵐

小生の職場においては投票済証を提出しないとお仕置きだという愚かな義務は課されていない。投票は国民の権利であってそれを行使することは当然の事だし、槍が降ろうが何だろうが、天下国家に意思表示はしておきたいと思っている。1億2千万分の1の効力でしかないが、それでも1票あることは有難いことだ。自らが国民として何を考えているのか、それを問い直すマイルストンともなる。職場によっては投票済証を提出しないといけないなどと不埒な要求があるらしいが、言語道断である。

名古屋市においてどの投票所にもあるのかどうかは知らないが、指定されている投票所に行くと、出口の付近にずらっと並んでいる。ご丁寧に絵柄を表にしてきちっと並べてあって、絵柄が違うものがあるのかと思いきや、全部同じなのだ。どうも束で置いておくと、どかっと持っていく者が居るらしいと毎日新聞は語っている。何のためにと思ったら、投票済証を提示すると、ラーメンの替え玉が無料になるなどのサービスを実施する自治体があるらしい。魂消た。そこまで愚かな国家であったかと嘆く気持ちすら失せる。

昨日は時が経つと風雨が激しくなりそうであったから7時過ぎに徒歩3分のところにある投票場に向かった。狭い投票所に公金で雇用された方々が群れを成し、次から次へと注文してくる。注文の多い料理店だって、これ程に無駄な要求をしないだろう。選挙権を有する者に送られてくるハガキを提出するということは、誰が投票したのかを管理するのかと思うが、まぁ、そこまで馬鹿なことをするまい。
入口付近で渡される細っこいわら半紙のなんと頼りない事かといつも思うのだが、名簿に割り印をされ、投票用紙と交換を受ける仕組みには、そこまで面倒なことをしないといけないのかなと、永遠に電子投票などにはならないのだろうなと、進化の止まった我が国の選挙の仕組みを歯がゆく思う。

主張の微々たる違いで党派が分かれ、且つ、一つの党においても主義が異なって派閥を作っているような、今だけを乗り切ろうとする政治家諸氏が居並ぶわけだから、選ぶ国民にとっては国のビジョンや方向性などを見極めて一票を投じるなど困難を極める。それでもなんらかの論点を読み解いて一票を投じるわけだ。立会人に「それはこっちだ」などと居丈高に怒鳴られて、なんと浅ましいことかと情けなくなった。結局のところみんな戦争が大好きで消費税もどかんと払う方向を選ぶ。若者も教育無償化に引っ張られるのだろうが、借金がその分嵩んでいずれ自分達に付けが回ってくるなどとは考えない刹那的な生き方。一票の格差が2倍に収まれば憲法違反では無いなどと、民主主義国家には永遠に成り得ないのだろうなと寂しさを感じつつ、それでもやっぱり投票には行ってみた私であります。

きのこの山

温暖化がトリガーかどうかは分からない。地球のくしゃみは突然やってくるので、人間の行動などあまりにもささやかで、地球を暖めているのが人類だという奢った考え方はさておき、山のキノコがどんどん減っている。キノコが減っているというべきか、暖かくなったエリアでは取れなくなって、東の寒い国ではクマが全部食べちゃったなんてことは無いのでしょうけれど、兎に角、キノコが山から消えちゃったらしいのです。

松茸などは金額を吊り上げるために不作だと叫んでいる可能性があるので参考にはならないが、様々な山のキノコが5割から9割減というから、これは不作なのだろう。山歩きの最中にキノコに出会うことがしばしばあるのだが、キノコだけは万が一、億が一があるので、登山中に食することは無いが、天然自然の環境のバランスが10年前とは変わってきていることは感じる。野生動物の植物へのアタックは相当に厳しい。春の新芽が無くなるのはここ数年感じる。つつじの花がかなり食べられてしまっている。山の花々を見に山に入ると、苦そうな花しか残っていない。野草ファンが多いと聞くが、根っこを残したまま山狩りをする盗賊はいなかろう。

山の環境は海の環境に直結するので、魚介類のありかたも大いに変わっていくだろう。というか、既に変わりきっているのかもしれない。サンマが云々と言われるが、食してみると、小生が購入するものが安価だからかもしれないが、なんだか脂肪が少なく、ぱさぱさのダイエットに成功したのかと問いたくなるような、引き締まったサンマしか入手できない。今シーズン、何度か購入してみたが、同様のサンマに出会うので、海の生態系も随分と変わっているのではないか?

キノコとサンマの因果関係は全く分からないが、山からキノコが消えたのに、八百屋でのキノコの販売価格は殆ど変化ない。養殖キノコだらけということだろう。一体、我々は何を食べているのか。考えてみればキノコが店頭に無い日は無い。となると、今、世間を騒がしている?キノコが山から消えちゃったというお話は、山男仲間の内々会話なのかもしれないが、朽ち果てた倒木からもキノコがなくなっちゃったというのは、クマや鹿が増えたとしてもちょっとびっくりネタなのだ。人が入りそうも無い尾根筋でも無くなったとなれば、これは気候が変化し続けた結果と考えるのが妥当かもしれない。化石燃料を燃やし続けて、46億年掛けて地球が作った環境を100年足らずで人間が変えたとすれば、それは物凄いパワーと言わざるを得ない。人間は何処に向かうのか。人間が生きていけない環境をせっせと作り出しているのだとすれば、なんと愚かなことか。そろそろ謙虚になりませんかね?

いんちき禁止

秋空はいったい何処に行ってしまったんでしょうか?いきなり台風がやってきて週末は天空大賑わい。計画していた山行きは一週間後ろにスキップ。お陰で紅葉は進むかな?10月の台風というと、小生が高校生の時に来た、台風20号を思い出します。凄まじい台風で、最低気圧が870hPaという、妙に記憶に残っています。減圧下で瓶を空けて、締めたら、もう開かないのではないかというとんでもない減圧。今回の21号は数字を見ている限りそこまでの派手さはなさそうですが、それでも週末の台風では、選挙に行くのが面倒だなと、義務を放棄しちゃう人が沢山出てしまうかな?皆さん、選挙は行きましょうね。

さて、秋空に大雨は似合わないのは言うまでもないのですが、似合わないと思うのが、日本企業のインチキ三昧。必死に良いものを作ろうと頑張る企業が多いのに、ごく少数の巨大企業がインチキを続けるものだから、なんだか、日本ってそんな程度だったか?と悲しくなったり、気持ちを引き締めたり。神戸製鋼の材料強度評価の嘘なんてのは、素材の日本の印象を根底から破壊した、はっきり言ってテロである。電子デバイス用スパッタリングターゲットにまで波及して、タッチパネル素材なども日本のものは駄目だねというレッテルを、今後10年は世界に振りまいたのではないか?

日産にしろタカタにしろ、いい加減にしてくれと。ただ、足元を見れば他山の石では無く、パンドラの箱を開けたら出てくる出てくる。どうして今まで大学は回っていたのだろうかという地獄もびっくりの様に、てんやわんやであるのだが、開けたから悪は叩けるが閉じたままにしたらぬくぬくと悪は育つ。見えるようにすること。それが「切羽詰まらないようになる」唯一の方策だ。見えるところに立っていれば、風通し良く、悪は乾いてどっかに行ってしまう。そんなもんだ。

悪を干しきるまでが大変だ。巨悪であればあるほど病巣は深く大きい。日本を侵食した素材の病巣は、それが作り出す様々な商材に波及するが故に、その影響は計り知れない。突っ込んで考えると、そんなインチキをしてしまうことを許す人間を育てた環境が悪いのだ。大学はその諸悪の片棒を間違いなく担いでいる。その意識を失ってはならない。ゲームの様にリセットボタンは無い。隠れた必殺技も無い。ただただ、繊細に、そして単純と堂々と、これからも一歩一歩の私であります。

朝日

地下鉄の駅から地上にでて、数歩歩いたら突然目の前が明るくなった。この季節の楽しみは朝日を浴びることだ。夏真っ盛りの季節は朝日どころでは無いが、この季節だからこそ、太陽が有難い。真冬になると太陽に出会うことなく職場に着いて、そして宿舎に戻ってしまう。太陽と向かい合うのは今の季節かなぁと、しみじみと感じる。春も同様と思うだろうが、春は桜に眼が行って太陽を拝む気分になれない。

実際のところ、太陽からのエネルギーは凄まじくというか、太陽の熱と光のエネルギーが無ければ、我々生命は生まれなかったのではなかろうか?なかろうかと疑問符付きなのは、ひょっとしたら真っ暗闇の中でも生きている深海生物だって居るわけだから、眼の無い生き物として存在しているかもしれなかったからだ。断定はできないが、太陽は有難い。

光も影も太陽があったればこそ。絶対的な存在があることは有り難い。何が有難いって、それより偉大なものがないと思うと、なんだか安心するではないか。選挙の時だけ国民のふりをする政治家諸氏を拝む者もあるようだが、天に唾する者に一票を投じるなど愚の骨頂。しかしながら、国民として選挙には行かねばならないし、誰かに代表になって頂いて、国家を引っ張って頂かねばならぬ。

真夏でも真冬でも、晴れた空を見上げて思う。太陽は偉い。ぐわっとエネルギーを我々に与えてくれているのに、見返りをよこせとは決して言わない。どんなにエネルギーを与えても知らぬ顔。外連味も無い。気合入っているなと朝日を見上げて思う。そういう人に私はなりたい。