紙の辞書を最近使っていないなと。書斎の新明解国語辞典の裏表紙には、中学1年生の頃から名工大に転任になるまでの歴史が刻まれている。ネット時代において紙の辞書は場所を取るだけの存在になってしまっているが、ブリタニカの全集も未だに手の届くところに鎮座している。おやっと思うとすぐさまそれに応えてくれる紙の集合体は、古代人にとっては有難い存在だ。
新明解に限界を感じ、もう少し語彙を増やそうと広辞苑を購入したのは博士課程の1年生。某ガマの油売り大学は5年一貫の博士課程であったから、その3年生の時である。後輩の卒業論文の添削の為に購入したことを覚えている。今、教授室にはそれが鎮座している。しばらくそれを紐解いていないのだが、捨てる度胸が無い。恐らく、断捨離されることは無く、ここを去るまで居座っているのだろう。
辞書と思わしき紙の束が、教授室にどれくらいあるのかと眺めてみると、英語関係が最も多いが、中国語、ロシア語、スペイン語が目に付く。何故購入したかをしっかりと覚えている。その時代時代に必要であった言語である。自動翻訳機が出現している現代において、会話そのもののために語学を学ぶことに意味を感じないが、文化に触れる、理解しあうためには、語学を体得することは、国境を超え友達になるためには必須だと思っている。
相手の発言の向こうにはどんな意図があるのだろうと、近寄ろうとする前に、これを理解せよと迫ってくる方々がなんと多いこと。言葉に出す前に聞き手の感覚を意識しない。理解して頂いてこその会話であり、プレゼンテーションである。カチンと来たら自らを省みる。日々これ反省の私であります。