無理と無茶

結局のところ公文書を書き換えようが8億円の値引きをしようがなんでも無罪放免の我が国。インフラ投資は遅く、世界で実施されているIT絡みのサービスの実施は規制され、結局、日本人は最も遅れた民族に成り下がっていく。無理は通って無茶はできない。こんな国では若者に元気は出てくるまい。ため息も出ない。

自動車産業も漸く重すぎる腰が上がるのかなとも思うけれど、インターネットとの繋がりEVが突っ走る中国に比べおっかなびっくりの我が国の環境意識の低さにも呆れる。中国では昨年の新車販売が約2900万台で、わがくにの520万台を遥かに超える。加えて中国ではEVが120万台越だ。中国政府の英断は素晴らしい。

市場の縮小を恐怖し、自前主義まっしぐらの挙句が、巨大なマーケットに挑むことなく消えていく臆病者の国になってしまった感がある。この状況は極めてまずい。挑戦を忘れた安穏な民族は間違いなく滅んでいく。無理をする必要は無い。無茶が必要だ。

鶴舞大学においても、無茶をやりたがる若者が増えてきていることは同慶の至りだ。爆発的に増えていって欲しい。先人はそれを妨げてはならない。過ぎ去った時は貴重な資源だが、それが次世代にとって原料となるとは限らない。新世代の旗手にとっての原料を我が国は育てているだろうか。不安になる。

古いファイル

昨日、ひょんなことから古いプレゼン資料を発掘して、仲間内で眺めてみた。12年の歳月を経てもちっとも古臭くなく、且つ、積極的で教育的だ。妙に説明臭くなく、現在のプレゼンスタイルの骨格は変わっておらず、大したもんだなと自ら想う。なかなかに良く出来ていて、やはり研究はいいなぁと思った次第。

過去を振り返るなんてことはほぼほぼしないのだが、時には太古のファイルを発掘して眺めてみるのも良いなと、クラウド上のファイルがどのくらい古いのだろうと、興味がわいた。わいただけで実際に発掘しようとは思わない。学生時代は万年筆と紙だし、助手になってから漸くNEC98以外の機械が出てきたくらいのものだ。そんなころの一太郎のファイルは読みようがない。

幻の電子本もその頃の出版で、今となってはリーダーすらなくなっているのではないかしら。ツールを発掘したとしても今のOSにはインストールできないだろう。このあたりは紙の媒体の強さだね。腐らずに残っている。大したもんだ。電脳のある風景なんて一体なんなんだなんて今更思うが、現代のスマホ社会を予見する20年も前の作品だ。

ふと気が付くと、自らのPCの壁紙は安藤広重の東海道五十三次の鳴海宿。これなどはもう100年以上も前の代物。流石だと思う。文化まで昇華するとこのようにして残るのだと、自らは何もしていないなと寂しくなってくる。ざっと眺めてみると2005年くらいからかなりのファイルが残っている。2004年に産学官テクノプラザ名古屋なる、当時の産連活動のファイルを見出した。流石に下手っぴぃだ。若干は成長したかなと思いつつ、ちょっと振り返るのも悪くないかなと、にやけてみている私であります。

自炊

誰が自炊と呼びだしたのか定かでは無いが、ScanSnapが商品化された頃だろうから、今から10年程度前なのかな?溜まりに溜まった雑誌などの背中を割いて、両面スキャンで電子化していく。これを売ったり上げたりすると犯罪だが、自分でデジタル画面で眺めるのは問題無いらしい。らしいというのは小生も法律を調べたわけでは無いので分からないということであって、まぁ、普通にコマーシャルされているので問題無かろうと思っているだけだ。

学生の頃からの論文のコピーだの、雑誌だの、教員居室が紙であふれかえって居場所が無くなった(大袈裟)のを機に、それこそ10年前に自炊を始めた。棚を空けてモノをしまおうと思ったのがきっかけなのだが、これがなかなかの決心が必要になる。何しろお金を出して買ったものを断裁して、結局は廃棄するわけだから気が滅入る。適当なところで止まってしまう。

数年経つとこれまた同様の状況になって、次のフェーズに入る。もうちょっと上等のものをスキャンして捨てるようになる。ようになったのだが、今度はスキャナが、静電気で張り付いたページを上手い事さばいてくれないので、イライラが募って止めてしまった。これは猛烈なストレスである。

どうもそれが解消されたらしいというか、前から気になっていたのだけれど、F社以外にも多くの機械が出てきて、価格も下落し始めた。性懲りもなく再び始めたのだが、これが調子が良い。そりゃぁ、電子機器だから数年間隔が空けば性能はとんでもなく高くなる。おやまびっくりである。はてさて今回は何処まで頑張れるか?機械が壊れるまでじわじわとやってみようかなとは思いつつ、ペーパーレス社会って永遠に来ないんじゃないのと思う程の書類の山にため息をつく私であります。

ティボーを聴きながら

Jacques Thibaudという人と奏でるオーケストラは実に素晴らしい。1925年から1953年までの間のHMVにて電気録音された音源を再生すると、その音色の香りに引き込まれる楽しさがある。デジタル云々言う前に、素晴らしい演奏があるべきだ。と、同様に、聞き手の怠慢を嘆くより、語り手の下手を悲しむべきだ。そう思い、日々努力を重ねるが、悲しいかな、生まれついての才能が無いという点が大きく、空しくなるばかりである。

それでも努力は身を助ける部分が必ずある。世間は分かってくれないなどと言ったとしたら、それは単純に努力が足りないだけである。誰でも努力は必ず実る。実ったら、それは努力したということであって、実るまでこつこつと必死に成すだけだ。自らが素晴らしいと感じたところにはきっと到達できる。そんなものだ。

Jacques Thibaudはバイオリニストの父を持ち、3歳からピアノを習い始め、5歳にしてバイオリンこそ自らの進む道と心に決めて、様々な音楽を学び今にその名を残す人となった。Fritz Kreislerと異なり、バイオリンがオーケストラと共にある学期になった後の演奏スタイルであり、現在のバイオリニストの原型とも言える演奏スタイルだから、今の方々にも違和感がないのではないか?

世の中はどんどん変わる。新しい音楽もどんどん出てくる。FMラジオからはそれらが垂れ流されてきて、おやっと思う楽曲を楽しめば良いという素敵な時代になっている。それも良いのだが、気に入った楽曲をお金を掛けて楽しんでも罰は当たらない。今日、無理やりの講演があるが、そのプレゼンを作りながらというか、音楽を聴きながらプレゼンを作ったのだが、はてさてそんな音色が伝わるのか、自ら、楽しみである。

あじさいの頃

ふと気が付くとアジサイが満開ですね。色とりどりのアジサイがあり、形も様々。群道の脇の公園で、恐らくは近所の方々が楽しみながら育てていらっしゃるものと思うのですが、他の花々とも相まって、とても心地よい。梅雨を迎えているのだなと感じた次第。今日は名古屋は30度を超えるそうで、これまた梅雨目前ですな。

昨日は久しぶりに大阪方面にお出かけ。どえらく重いお仕事では御座いましたが、何とか無事に返ってくることが出来てほっとしている。気が滅入るお仕事は厳しいですが、まぁ、それがお仕事と言うものかもしれません。楽しいだけで給料を頂いたのでは罰が当たる。

新幹線車中で携帯いじりは当然の事、PCでのお仕事に燃え上がる方々がとても増えましたね。映画を見ている人もいて、折角の景色を眺めることも無く、新幹線車中くらいデジタルデトックスの時間にあてれば良いのにと思ったりして。小生的にはPCを持ち歩かなくなって久しいのですが、持ち歩いていたら同様にいじり倒すかもしれない。

今週も週末がやってきた。出来なかった仕事を明確にして土日に持ち越すという不健康極まりない働き方が、いよいよ全ての人々にやってくるのだなと、法案成立を斜めから見ている。直ぐに給料を頂いている人全員が対象となるから。所詮、政治などそんなもんだし、日本はそっちに突っ走るんでしょうね。誰も居なくなったりして・・恐ろしい日本である。

指示待ち

足元で放火容疑者が走り回っていたんですね。名古屋市緑区のご近所で放火があって、SiCツールズのご近所の病院に居て、犬山まで盗難自転車で逃走という、名古屋市縦断の旅みたいな捕り物なんだけど、そんな凄まじい事件があったとはまったく知らなんだ。地元小学校では児童の帰宅対応に相当に追われ、てんてこ舞いだったとのこと。何があるか分からない、恐ろしい世の中である。

闘争ということでは無いが、小生も本当に時々になってしまったが、未だに宿舎と鶴舞大学との間を健康劣化を食い止めるべく自転車を使って移動することがある。なんと言っても季節の移ろいを感じるのが良く、山にちっとも行けなくなってしまい、塞ぎがちな気持ちが晴れて良い。それにしても犬山は遠いぞ。人間、やろうと思うとなんでもできるということか。

まるで話が飛んでしまうが、要はやる気と積み重ねなのである。指示待ち人間が増え、明日に向かって進めなんて言ってしまうと、寝たまま明日を迎える若者のみになってしまっているので、指示出しが好きではない小生にとっては厳しい時代だなと感じる。指示も相当に細かくしないといけないらしい。まぁ、そのあたりは加減しながらということなのだけれど、自分で考えろというのはいかんらしい。

ゲームというプログラムで育った世代故に、完璧な指示が必要なのかもしれない。乱数などもっての外、ゴールに到着したらそれも支持しないとゴールと判断も自らはしないようだ。ちょっとこっちの路地は面白そうだと寄り道もしない。そんなことでどうやって自らの幅を広げるのだろう?迷い挫折しそれでも一歩一歩。人生とはそいういうものだと思っている。これからも変えるつもりはない。

椅子

大学人だなぁと、なんだか思う瞬間というのが床や椅子の上で起きた時。机に突っ伏して寝るのではなく、床の上こそ醍醐味である。疲れなど感じない若い時だから出来る技かもしれないが、先輩が「ふつう」の椅子で寝てしまうと丸椅子を並べて寝るしかない。ガマの油売り大学は夜は冷える。氷点下20℃になる地域だ。今はそんなには冷えないかもしれないが、北海道からこられた先輩が「こんなに冷えたことは無い」というくらいに冷える。その冷えた床から身を護るのが椅子の上で寝る技術である。

寝返りなどとんでもないというか、そもそも数日間、寝ていない状態で椅子の上に横になるのだから、寝返りなどあり得ず、ぐわっと意識が無くなるだけであって、寝ているという意識も無い。意識が戻った瞬間から活動を始めるのだから、横になっていたということは丸椅子が5,6個並んでいる状況を確認して初めて分かることだ。それが研究者であり大学人の有り様である。

辛いかと聞かれたら、そうではないというのが本心だ。面白くて研究をしているのだから、寝ている間に何か変なことになっていたらそれこそ大変であって、辛さとかきついさとか、そんなものは何処にもない。それが大学という城に籠っている、正に籠城戦の面白さだ。何も分からない。だから挑戦する。挑み戦い、その結果、あら、違ったということばかりだが、時にはあたる。その瞬間を想いながら丸椅子を並べる。

流石に、この御年になると厳しい。丸椅子は部屋には無いからプラスチックの会議椅子を並べるわけだが、この形状がよろしくない。座る時には良いのだが、並べて寝るには最悪の形状だ。反った皿のような形になっているのだから、横になる者の気持ちなど何も考えていない。並べて横になっても心地よく疲れが取れる椅子。それこそ、家具屋が大学に納入するべきである。会議では眠くならない座り心地の悪さを呈し、本物の研究者には優しい椅子。どなたか、寄付して頂けないだろうか・・

技術の棚卸し

技術の棚卸しが加速している。特に製造業の技術伝承ということだが、高齢化まっしぐらな状況において、次世代に残るべき技術は何かという取捨選択をしている。これは誠に遺憾なことである。技術にもならない適当な口伝であればそんなものは消し去るのが良い。研究室の先輩が、たまたま上手くいったから、この前処理はこうするのだというようなことがあると、改善ループが途切れてしまう。こんなものには棚卸しは有効に働く。

そうではなくて、AIやロボットが代わりにやってくれるからというだけで捨ててしまう技術が増え始めている。特に腕力が必要な部分において、かなり消え去った技術と言うものがある。いきなり橋が落ちるとか。隠された前提こそ技術であって、それが伝わっていかないと、新しい工学などその上に乗るはずはない。

親方日の丸の仕事に関わって、まぁ、そんな場所に出ていると、世界情勢がひしひしと伝わってくるわけだが、それを先取りできる理解力、解決力、問題発見能力を講義していくとなると、教育プログラムの相当な棚卸しが必要になってくるのは間違いない。それに加えて自習するべき範囲がべらぼうに広くなる。これなどか喫緊の課題であるのだが、大学統廃合などでは決して解決しない内容である。

技術は人のためにあるから、当たり前なのだが、人が成長しようとする意欲と、意欲を支える基礎学力がどれだけあるかだ。江戸の終わりに西洋に目を向け始めた先人は、殆どゼロから言葉の壁を破り、知識の壁を乗り越え学問を身に着けていかれた。自学自習などできないなんてことは正に戯言である。ましてや伸びようとする者を陰口で追い詰めて引き下ろそうなど言語道断。天網恢恢疎にして漏らさず。そんな人間にはなるまいと、こつこつ、やっぱり一歩ずつの私であります。

ロイヤルウエディングにおもう

土曜日の夜中にSNS動画サイトを開くと、ほぼほぼロイヤルウエディングである。当分の間は拝見出来ないので、小生もほぼ100%の興味本位で拝見した。旧来のあり方というか、英国王室では考えられないしきたり破りのウエディングで、う~むと唸るシーンが多かった。まぁ、女王陛下がよくもお許しになられたなというところで、懐の広さ、深さを感じるのであります。

我が国の皇室における女性蔑視の風潮を思えば、英国王室のあり方はなんと素晴らしい事か。それでも長い歴史の中でいろいろとあったとは思うのだが、それを突破してこられた根幹には何があったのかと、ネアンデルタール人と色濃く繋がって出来上がったアングロサクソンと、縄文人との違いかなと思ったりなんかして。

囲炉裏に座れば煙たい席には奥方で、煮炊きの場所にはお嫁さんと、そんな風潮の日本をどんな目で見つめるのだろう。そりゃぁ、まぁビジネスシーンでそこまでの状況にはなかなか出会うことは無いけれど、ちょこっと山に向かえば今もそんな状況に出会うわけだ。ロイヤルウエディングの様子をどんな気持ちでご覧になられたことだろう。

姉さん女房は鉄の下駄をはいてでも探せとお袋は言ったが、ヘンリー王子は見事に探されたということか。引き出物の簡素さも素敵だし、とってもフランクで身近にありながら、でも王族を敬う国民の奥深さを感じさせて頂いた。我が国の未成熟と言うか、ディスプレーの向こうの景色に黙り込んでしまった私であります。

週末は謙虚に

梅雨明け直前に大雨というのは毎年のことだが、今年は梅雨入り前から大雨である。前線が列島を横断したなと思ったら激しく大雨である。5月半ばで30度を超えて、別の場所では大雨。数年前から確実に日本の熱帯化が進んでいますな。社会かで習う地域の気候の呼び方を変えないといけないのではないか?今の日本が亜熱帯だとすると熱帯はどう呼べばという状況だろう。温帯なんて生易しい表現の国ではなくなっているような気がする。

近年、本来、人が住まなかった場所における土砂災害が頻発している。住むことを許す国が悪いのだが、その都度、大災害とまくしたてる。1600万年前に奥三河でカルデラ大噴火が発生したわけだが、そこを雨風が削り、今の様相になっている。その地殻変動と風化が終わっているわけでは無い。変化をストロボ発光で切り取った、そんな瞬間に活動させて頂いているだけである。アスファルトやセメントなど、地球の変動力にとってみればばんそうこう以下の効力だ。

名古屋豪雨を思い出すが、あれとて地上最大の風雨であったわけではない。低気圧だって600hPaくらいまで原理的には下がっていく。肺が破裂しそうな気圧になると、その風雨は凄まじいらしい。1000mを越える津波が大地を襲う時、原発うんぬんのお話など何処かにふっとんでしまう。

四季の美しさを楽しむ余裕がある時は、まだまだ地球に生かして頂いているんだなって感じる。しかし、その地球がくしゃみをすると人類など消し飛んでしまう。この瞬間に必死になる。そうしていると地球が我慢してくれるような気がする。気がするだけだが、今年の天候はどんなものになるのだろう。5月の半ばだというのに連日30度の名古屋。少なくとも熱中症に気を付けて水分補給をこまめにしたい。そんなことしかできない人類である。か弱い存在であり、謙虚に生きようではないか。そんな週末である。