ハドロン観測

極めてマニアックなお話だが、筑波にある高エネルギー加速器研究機構(KEK)において、電子・陽電子の衝突実験の成功が伝わってきた。ビッグバンの直後、高密度の電子・陽電子空間において発生したはずのこの現象により、中間子やクォークが発生し、加えてそれらが結び合ってハドロンが出来たことが観測された。電子・陽電子からだけから陽子、そして中性子が生まれることが実験的に確認できたことになる。即ち、素粒子があれば人類はちゃんと生まれるということだ。

なんでこんなに盛り上がる?かと言うと、小生がガマの油売り大学に入学する時から実験されていたからだ。トリスタン計画なぁんてのがあって、明日にでも衝突がおこるぞって感じだったのだけれど、何と何と、37年の長きにわたり実現しなかったのだ。それを執念で実現された研究者を始めとして、その仲間の皆様全てに敬意を表する次第です。昨日、帰りの新幹線車中のテロップで見て、独り(恐らく)大喜びしていた。

135億年前の現象だが、それを仮想的ではあるが実験実証できるところまで人類がやってきた。135億歳という感じがする。電子・陽電子を使って、小生が生きている間に酸素ぐらいまでの元素合成をやって頂きたいものだ。それとても相当に大変なことだが、なんとなく太陽の模擬くらいならやってくれそうな気がする。他力本願の真骨頂である。

翻って考えると、学生時代の夢の一つが終わってしまったとも言える。永遠にぶつからないんとちゃうかと思っていたが、やっちゃいましたねぇ。次に何すんだろう、加速器ジプシーの皆様、そして友人のまのぶ君。CERNに集まって幽霊でも観測するのかしらとおちゃらけてみたりもするが、人間の好奇心の究極まで突っ走った後、どこにいくのだろうかと、折角の連休だからのんびり考えてみるかと思う私であります。

下世話ネタ

昨日の大雨が嘘のよう。風が強かったせいか落ち葉が道路に積もり、なんだか秋か?と思ってしまうような朝。今週は講義が3コマあり、なかなかにして声帯にハードな週だなと、終わったつもりでいても、今日もお江戸だ。なんだか毎週箱根を越えているが、これも5月までだからなんとか踏ん張るとしよう。

いろんなところで不正だの忖度だの出ているが、画面の向こうのことなので真実がさっぱり分からない。内閣が解散風を吹かせだしたところを見ると、足元が怪しくなった時の常套手段故に、これは内閣側に落ち度があったのかなと疑いたくもなる。世界は激しく動いているというのに、足元の親方日の丸は濁流の中の落ち葉の如く、全く見えない。

全く別のお話だが、麻疹が流行っている。流行っているというかなんというか、小生が小学生の頃に聞いた単語である。久し振りに聞いたことに驚くが、更にご近所の八事界隈が名古屋での流行発信源になりそうで更に恐ろしい。空気感染だから逃げようがない。一体どうなってしまうのか、これはとても気になる事件である。ヒアリの話など何処かに行ってしまった。

テレビによれば連休は前半部のみが晴れで後半は雨続きらしい。宿題をやっつけろということか?こうなってくると間近に迫った週末からの連休に向けて本気で計画を立てねばならぬ。お籠りは大嫌いだ。太陽の下が良い。くっきりと足元に繋がる影を見るのが良い。全身から汗を噴出させるのが良い。今の季節が一番だ。新幹線車中で考えるかと、出張モードが延々と続く私であります。

ドライブ考

久しぶりの大雨。街が綺麗になって大雨は良いのだが、通勤時間帯など、強い風と共にやってくる横殴りの雨には辟易する。びしょ濡れの状態からの一日のスタートは、やや憂鬱である。うつむいて歩くのは、嫌なものを直視するよりは気が楽である。憂鬱でもあり気楽でもある大雨の朝、スリップした車が突っ込んでこないか不安になりながら一日のスタートである。

昨日に続いて休日ドライブネタでいこうと思う。思うと言ったって、誰に何をということではないのだが、単なる備忘録というだけである。基本、山道が好きである。酷道であればなお良い。千尋の谷底に聳える岩稜をえぐって作ったような道路ならなお良い。なんだそりゃと思うかもしれないが、我が国にはそんなところが至る所にある。ほったらかされて戦後に廃道となった舗装道路とて相当数ある。

そこまで派手ではないが、ご近所にもそんなところがある。ダートはお薦めしない。平地の分水嶺で名高い作手から県道37号線にいく。僅かの区間だが、なかなかに楽しめる。あくまでも楽しめるレベルで、くらががり渓谷に出るまでの区間、対向車には十分注意しなければならないが、くらがり渓谷から少し下ったところで川遊びができる。平たい石が多い河原は、山道具があれば愉快な日帰りキャンプ地になる。

「空」で有名な酒蔵に出掛けてみようという方には、足助から県道33号線の長い山道をお薦めする。こちらは酷道ではないが、風雨に刻み込まれた山谷を抜ける愉快なドライブルートである。二等三角点を持つ段戸山入口のため池周辺にはトイレもあり休憩には良い。ひたすら走るといきなり関谷酒造近くに出る。渋滞に出会ったことは一度も無い、なかなかのルートである。そのまま岩古谷山を抜けとよねの温泉に行くも良し、とよねから県道426を通り県道1号が通る、合併前には日本最少の村「とみやま」の温泉に入るも良し。そこまで行っちゃったら、下るより国道418号を目指し、おきよめの湯に行くも良い。くれぐれも気を付けて体験を思い出にしてくださいませ。

連休は何処へ?

間もなく5月連休。買いためた本を読みふける方もいれば、今こそ大掃除という方もいらっしゃるでしょう。噂ではこの頃の大掃除が、床のワックス掛けとかには良い季節らしい。冬に掃除をした場所もなぁんとなくですが掃除を待っている気がしないでもない。何処かに行こうかという気もするのだが、ひたすら大掃除と言うのもわるいわけではない。皆様、それぞれの連休をお過ごしください。

思い出にふけるわけではないが、父親が急に思い立っていきなり箱根に行こうと言い出した。出かけたのだけれど、多摩川を越え横浜に近づくと全く車が進まない。これぞ渋滞というか駐車場状態というか。結局、そのままUターンの連休という、そんな思いでですな。それ以来というわけではないけれど、渋滞がとことん嫌い。どんな酷道でも良いけれど、渋滞だけは嫌だな。

こちらにやってきていい加減になんとかならないのかなというのが四日市方面の渋滞。新名神が繋がってもどうなんだろうというあの詰まりっぷりは、絶対に行くもんかという気にさせる。と言うことで、この連休は関西には行かない。関が原も鈴鹿も魔窟に思えて通過する気になれない。出かけるとすると東の方向かしら?ただ、名古屋というところは川に囲まれているので、それを越える時には必ずつまりますな。まぁ、これは我慢するか、夜中の内に抜けちゃうか。

国道的に面白いのは152号だが、418号も捨てがたい。目的地がどこと言うよりも、どの番号の国道を走るかということに面白みがある。近所で楽しむなら473号も良い。岩古谷をトンネルが出来て、危険はかなり回避できるようになった。四谷の千枚田も良い。愛知県は見所がいっぱいだ。遠出は必要ない。水とストーブとコッヘルの山道具を積んで、ステアリングを握ったと思えば既に山だ。素晴らしい。皆さん、愛知県巡りしてくださいね!

新酒

春の名物と言えば木曽谷方面の酒蔵開き。今年も無事に研究室の新歓ゼミとも言うべき中善酒造さんの蔵開きに出掛けてきた。木曽街道を走っていると、七笑となかのりさんの看板が目立つが、その後者のほうだ。今年もフレッシュな香りと味わいを頂戴し、一同、これからの一年に向かって元気よく乗り出せる。天の恵みから得られる尊いお酒を皆で笑顔で頂戴する。是非とも来年も集いたいものだと心から思う。

当然のことながら公共交通機関のみの活用である。運転手が居たらかわいそうだし、そもそも危ない。小ぢんまりとした研究室だから、朝一番のしなのが良く似合う。鶴舞駅を通過する時、いつも歓声が上がる。これが良いのだ。仲間での旅は直ぐに目的地に到着してしまう。今回はメンバーの内、奈良井宿に行ったことの無い者が半数を占めたので、早めに出掛けて散策としゃれこんだ。

木曽路切符の旅行チケットで無料で入館できた天保年間から残る塗櫛屋さんにてゆっくりと時間を取り見学する。実に充実した時間である。奈良井駅から各駅停車でバックして今回は26年の木曾福島旅行においてはじめての「牛乳パン」デビューである。食べ歩きながら「パンだな・・・」と語りながら和菓子屋さんへ。常連のコースとなりその後、麹屋さんにてそれぞれのお買い物。そしていよいよ目的地の中善酒造である。

天気良く、来客者も多かったが、メンバーのポジションを作り、じわじわと2時間近くのんべぇ談義である。今年は薫り高く、辛めの仕上がりで、小生は大変に良いと思ったが、お客さんの中からは「今年は辛いなぁ」との声もあり、小さな蔵故の毎年の微妙な味の変化を好まない方もいらっしゃるのだなと、そんなに同じ味が良いなら京都の千枚漬け屋にでも行けと思った次第。それはそれで凄いものがある。という出張の最中の一瞬の深呼吸を頂いてきた私であります。

本格的?

本格的共同研究の実施というお上の会議に出席するため、今日は再びお江戸に出ている。昨日は諏訪商工会を日帰りし、くたびれていたこともあり、早朝の更新は止めにした。帰路の新幹線で「今日の戯言」も一興であろう。また楽しからずやである。お上の会議をリークは出来ないが、そもそもなんでこんな委員会が立ち上がっているのか概観してみたい。

コモディティ化戦術が得意なというか、その程度の戦略しか思考し得ない大企業においては、バリューチェーンが余りにも広く深くなりすぎ、新規領域での事業展開など考えることは出来ず、それ故に社会的インパクトのある製品開発などは海外任せとなってきて久しい。自動車は1チャージで500㎞走行できないと駄目みたいなことを信望する役員や、頼みの株主など、挑戦への意欲はゼロである。中小企業はと言えば、自らが生み出す製品価値への理解を妨害され、二次元図面を三次元化するだけに終始し、自らの価値が理解できないよう川下企業に操作されてきたことにより、これまた新規製品開発など意識に及ばない。

子供達を見れば、砂場という真っ新なキャンバスに自在に立体物を作り、しかも友達同士で、いや、初対面同士であっても共にゲームを作りルールを構築し、楽しく遊んでいるではないか。そして次の日もまた、新たな構築に挑む。大人は何時からその能力を放棄してしまうのだろうか。同列教育の人間コモディティ化戦略は間違いなく戦後欧米の戦略であり、我が国から独立心が生まれないように仕向けられた成果が現代社会だろう。その社会に対して、大学はその発展に尽くし、企業は現状比3倍の資金を大学に投じろという。お上はその分、運営費交付金を減らすのだろう。

その為に生まれた会議体である。社会の人達に成果を約束することは大学のミッションにはなかったことだ。大学内に生産拠点など無い。今はルールに則って作ることは可能だが、校舎は巨大なラインを並べられるほど頑丈ではない。更に企業は営利団体であり、人材育成を主とする大学とはベクトルが全く異なる。国が亡びる前兆ではないかと思うのだが、我々は絶対にくじけない。アイデアは名工大にはまだまだ無限の泉の如く沸いている。一歩一歩着実に歩むのみである。気合で進みます。

真実?

弱と強者を論じたら、どうやら強者は悪であったらしい。あったらしいが裁判をおこすそうだ。そうなると当然だが声紋の化学的分析が行われるだろうが、それは極めて興味深い。マスコミの魔女狩り力と真実との闘いである。昨日はマスコミの力を鼓舞したのは事実だが、マスコミ力を信望しているのでは決して無い。

だからと言って、「力」が好きかと言われれば全くそうではない。真実を達観するのが宜しい。あまりほじくらず、人間的なところでとまっているのが宜しい。そうでないと酔っぱらうことすらできず、生きる喜びが失われてしまう。喜びはそれだけではないのだが、まぁ良いではないか。真実を受け止め作り出す精神的苦痛を分かち合う人々と、神の力で浄化する。これこそ人間のあるべき姿であろう。

こんな風に勝手な解釈をするのが人間というものであって、それが自分で自分のためという間は宜しい。他人の領域に乗り出した途端に宜しくないことが発生する。他人の為にと最善を尽くしたとしても、他人はそれを良いとは思わない。ましてや第三者は偽善者とたたきに来る。自らだけが正義である如くだ。

苦悩は分かち合うことは出来ない。だからこそ苦悩なのだと思う。かのパガニーニは弓を弦に置くことを恐れ、演奏の直前には弓を構えてコンチェルトを夢幻のかなたで演奏したそうだ。学問を技術にし、そして社会に還元しようとする時、恐怖のみがつきまとう。それで良いのだ。誰も信じてくれない。でもそれを突破することが出来ると、行動が真実となる。それだけが正義だ。マスコミが正義ではない。正義かもしれない。真実は一つ。それだけだ。

日没

弱者に強者を訴えろという。訴えられなければ犯罪者では無いのだから、知らぬ存ぜぬで通しますと、国のトップが叫ぶ国だ。選挙とは選んだ民が責任を共に取りますということだから、そのトップに投票した人は、画面の向こうで語っていらっしゃる方と一心同体、同じ考えでいらっしゃるのだろう。政党で考えれば数千万の皆さんがそうお考えなのだと思うと薄ら寒い。丁度、今日の天気に相応しい。

上司に訴えるなんてそう簡単に出来るものでは無い。相談ごとすらためらうのだ。それを公に訴えろという。マスコミが面白がって訴える人を一時のスターに祭り上げるのではなく、結束して庇ってあげられないだろうか。盾になり訴えを実現して欲しいとは個人的に思っている。盾なくして出来るものではなかろう。それを予見しての狡猾な計略はあまりにも醜い。

我が身を振り返って17年前。まだそれしか経っていないのかと少々驚くのだが、学内行脚されている学長が「何か言いたい事があったら言え」と仰るものだから、馬鹿正直にまくしたてたら青筋を立てられて憤慨された。その1時間後にお電話を頂き、俺を補佐して運営会議に出て発言せよと言われて17年だ。太い腹のお方だと学長室に呼んで頂き政治の事、学問の事、様々にご教授頂いた。

ただ、それとこれとはまるで違う。公開処刑を仕掛けられたようなものだ。そしてマスコミを逆に訴える勢いにも感じる。事の成り行きを見守るしかないが、正義が何処にあるのか。それでも変わらない日本であるならば、もう、明日は無いね。

10年待つこと

桃栗三年柿八年、檸檬の樹は10年掛かった。長い長い年月で、アゲハ蝶の幼虫に葉を食べつくされ、雪にあたって葉が萎れ、様々な学びと共に10年にして漸く花芽を付けた。まだ実のったわけではない。蕾をつけただけだ。それでもそれこそ毎日眺め手塩にかけて漸くの蕾である。

社会は真逆だ。少しでもコストを下げて儲けを大きくしようと、早く安く作って利益を上げようという考えで何が起こったと言えばリコールの嵐。しかしそれに懲りず、何かありそうだなとなると、意地汚く上から目線で無償で奪い取る。そんな企業に多々出会う。

しかしそうでは無い大企業のとある部署もある。10年のお付き合いで、真摯に待って助言をして頂いて、蕾になったら肥料を与え選定し、共に開花を目指そうと痛みを分け合う。そんな出会いも世の中にはある。捨てたものでは無い。

任せると言ったら任せる。私は10年は待つ。世間は狭い。根本的に逃げるところなど無い。無いけれども最初からそのつもりもない。企画を提案し、任せられたら貫くのが良い。しかし、自分だけしか見えないのはよろしくない。常に鳥の目を持たねばならぬ。常に挑戦しているのが宜しい。机上には仕事は無い。身は大海にあり。そうありたい。

一つ一つ

既に上四半期は過ぎちゃいましたねと、先日、国の方々とお話がでた。そう、あっという間である。更に4月も半分過ぎてしまった。何をやったのかと問われてもほぼ何もないぞと言わざるを得ないのが情けない。新しい講義が始まったり、なんやかやあるのだが、プレッシャーばかり大きく感じてしまって空回りしている雰囲気あるなぁ。なんとかしなきゃってことが山ほどありすぎて、されそろそろ何処から手を付けようかというところ。

先週は外回りが半分で、正しい週の過ごし方という感じでしたが、その延長で今日も午後から出掛けてきます。外回りこそ小生の本分である筈なのですが、妙に机に縛り付けられてしまっていて、これでは露出が少なすぎる。細胞分裂的に同時多発的に社会で見かけたよというくらいでちょうど良い小生でありますから、だんだんそれっぽく、夏に向かって細胞分裂しようとは思っている。

気が付くとなんだかアポブックが灰色の世界になっていて、自由の無い国みたいな世界で、やっぱり働き方改革なんてものはこの国には無いのでしょうね。そもそも論で、弥生文化なんて一緒に稲を育てようって、みんなで努力して汗水たらして生き抜こうって遺伝子が組み込まれた人民ですから、ついついがんばっちゃうんですよね。ぶったおれそうになってもなんとかしちゃう。

いろいろやりたいことが沢山あって、どれから手を付けようかなという状況が続く。まぁ、例によって一つ一つ、丁寧にやっつけるしか無い。そうやっていると新たな問題が列をなしてやってくる。やってくるがやっぱり一つ一つである。焦るべからず。家康もそう言っている。