適正値は?

定量的データを教えて頂きたいということの、最近のトップは、適正な二酸化炭素濃度であろう。氷河期の末期に人口が爆発して、本来、居住するべきではない海辺のゼロメートル地帯にまで家を作り人が住み始めた結果、そのエリアが水没するから温暖化を食い止めるということなんだけど、食料自給という点において、適正な二酸化炭素濃度ってどんなものなのでしょうね。

気象庁は二酸化炭素濃度が1987年から、ほぼ直線的に増えていますと報告書を出している。これは恐らく定量的なデータだと信じることにする。加えて、国立環境研究所が南極の氷床の状況から、過去、40万年程度前から、大略、10万年毎に温暖化状になっていることを明らかにしている。そして現在の気温は、直近の温暖化状態よりも気温は低い状態にある。

人為的だのなんだのとお話になるのだが、確かに10万年前の気候変動が「人」為的では無いだろうということには納得する。で、その時、大気中の二酸化炭素濃度はどうだったのでしょうかねということになると記載が無い。ただ、学者殿曰く、20世紀後半からの温暖化傾向の主要因は温室効果ガスの大気中の増加であると断言するのだそうだ。ホモサピエンスのサステナビリティが約束されるに相応しい二酸化炭素濃度はどんなものだろうかと併せて表明して頂けないものだろうか。

植物が成長する要素に「気温」は有用な因子として入ってくる。重要なのは植物にとって適正であって、人間にとってのものではない。海水温が上がって巨大な嵐が来る。都合が悪いと言っているのは人間である。北極の白熊がと叫ぶ人も居るが、人間が居ても居なくても絶滅した種、新しく生まれた種は無限にある。ヒステリックになった状態で一歩を踏み出すのか?なんか定量的データが与えられていないなと感じている私であります。

思い込み考

「思い込みを捨てましょう」なんて簡単に言う事は出来るのだけれども、思い込みを捨てろということ自体が、その人の思い込みではないのか?なぁんて言っていると、結論が一つも出なくなってしまう。きっとそうに違いない、何故ならば『こう』だから。その時『こう』と思ったのは何故でしょうね?第三者が100回やって同じ結果が出てくるくらいの証拠によって固められた『こう』なんですね?そうでなければ、あなたの言ったことは思い込みの結果である。

ステークホルダだと思い込んだ集団の思い込みに踊らされること程悲惨なものは無い。再生可能エネルギーこそ地球温暖化問題を解決できるのだから、産業は「こう」変わらなければならないとかね。議会で通ったからとか、人の責任に出来るうちに目を覚ますのが良い。本当にステークホルダですか?思い込みのステークホルダでは無いのですか?

この国のあり様を見ていると、ステークホルダと下僕が入れ替わっていたりする。被選挙民が選挙人を意のままに動かしてしまう。真逆であろう。こうなってくると思い込みのレベルを通り越す。しかも何時まで経ってもその悪しき思い込みが払しょくされない。意識への刷り込みが完成された形で存在しているのが日本であろう。大王の地位を皆で奪いあっていた時代が、案外、正しい姿だったのかもしれない。戦争はいけないけどね。

余りにも多様な社会だから、何が正しいなんて言えない気がする。でもこっちの方向に行った方がいいんじゃないかなくらいの共通認識は持てても良いのではと思っている。逃げるのではない。何が良いと思っているのか、その理由が大切だ。その理由が思い込みであってはならないということなのだ。どうも胡散臭いのだ、日本の現状は。思考の原点は大丈夫ですか?意識改革はその辺りから。そう実感している。

非可逆社会に向けて

シゲティは自らが演奏するべき作曲家を定め、自らの硬い意志を曲げること無く、伝えるべき真正を後世に残した点において偉大である。山で遭難したとしよう。方位磁石もGPSも持ち合わせず、地形図も無い(そんな状況はあり得ないというつっこみは無し)。突然、快晴になり、山の木々が無くなったとしよう。今の立ち位置を確認でき、進むべき方角が見え、落ち着きを取り戻し、冷静に次に取るべき行動、即ち、未来への指針が見えるだろう。シゲティのレコードはそんな気持ちにさせてくれる。普段は聴かないが、年に数回聴くことになる。

道標が欲しい訳ではない。しかし、無意識に身に染み付いた何かを払い落とすには十分な効果がある。1900年を過ぎた辺りで脚光を浴びだした方だから、もう100年以上も前の演奏家であって、電気録音が実用化された1924年以降は、巨匠の独りでいらっしゃったわけで、聴かせて頂けるのはその頃の盤だ。きらびやかでもロマンティックでも無い。しかし真実はそこにある。恐らく、ベートーヴェンはこう語りたかったのだろうと感じる。そんな演奏を今に残して頂いている。科学者にはなかなか難しい芸当である。

この技術発展の時代であっても、新しいと感じる技術は出てくるわけだが、それを構成している要素技術は既知のものであることがほとんどである。軍用に開発されたものが突如として民間に降りてくると、恐ろしく正確なGPSが迷子を減らしてくれるとかね。この誰かが開発した技術を果敢に取り込んで、今の最大の利益の根源を失ってでも新しいことに挑戦しようという勇気のハードルは、大企業であればあるほど高くなるのは理解できる。何千人も解雇しないといけないなんてことになるからね。何千人×家族の人数となったら凄まじい影響力だ。でも、世界はそっちに向かっている。その人でしか出来ないことを多くの場を通じて、世界の人々と共有するべきという地球規模の国家形成に向かっているわけだ。

ガラケーが一夜にして霧散した如くに、100年、普遍の自動車の儲けるピラミッドの頂点軍団を見ていると、どうなっていくのやらと思う。安全性を高め、環境対応もしてきた。しかし、その外側には、移動しなくても今まで以上に便利な環境が構築されてきている。お取り寄せ分化に併せて、送り出し分化も発展するだろう。まぁ、馴染みの赤ちょうちんを潜りたい欲求は極めて大きいわけだが、そんなものが究極の贅沢と思ってしまうようになってきた。アップルは20年間、売った自動車に責任を保つのかと、某社のリーダーは仰るわけだが、古くなったテクノロジーにしがみつく時代は去ったことに気づいたら如何か?それこそがアフターコロナの本質だ。逃げられない。

卒業式にて

共創とかねバックキャスティングとか、かれこれ15年くらい前だったかな、使い始めたの。どこに行っても説明してからになっていたのだけれど、今は当たり前に使われていて陳腐化してきたので新しい単語を考えなければと思う。いたちごっこの30年だったなと思うのだけれど、商標登録したわけではないから仕方がない。立ち上げた会社の社名くらいかな、登録に成功したのは。真似されるぐらいになって欲しいものはだれも真似しない。

共創っていろんな事項の関数なんだけど、一番大切なのは「挫折」です。成功ではないの。成功なんて結果であって関数では無い。共に挫折できずに何が出来るものか。綺麗ごとなんていらないのですよ。綺麗が好きなら独りよがりが宜しい。何でも美しくなる。イメージだけで良いからね。共創のフェーズに入ったとたん精神をすり減らす作業に入るから、綺麗ごとなんて吹っ飛ぶ。それが嫌なら「ぼっち」が宜しい。

共創の場も重要だ。今の時代、地球だけを考えていたのでは話にならない。共に果実を実らせる場を想像し、実践あるのみ。指針を深堀していく継続的思考も重要だ。そこには競争も出てくるだろう。協調ばかりでは新奇なものは生まれない。そこには苦しみも、悲しみも生まれ出る。だからこそ喜びが尊いのだ。

綺麗ごとばかりが言われる。オープンイノベーションとかね。そんなもん、特にこの中京地域にはありはしない。特定の企業だけが儲かれば良いと政治家もお役人も思っている。だから共創には挫折を恐れぬ『勇気』が必要になる。美しい世の創造の為に勇気を持たずして何故君は存在しているのか?今日は卒業式である。以上。

火星のヘリコプター

火星でヘリコプターを飛ばすという記事を読むと、あぁ、火星には何かしらのガスで満たされているのだなと、妙に納得する。重力が地球の10分の1しかないから、気体を引っ張る能力が小さいわけで気圧は地球の1%しかない。それでもヘリコプターが飛ぶのだから、ヘリコプターって凄いなと思う。当然、重力が小さいとか様々な要素が絡むのでしょうけれど、プロペラを回して自分を持ち上げるというのだから、なんだか愉快になる。

まだ、実際に飛んだというニュースがあったわけでは無いんだけど、NASAの事だから、地球上で減圧環境で飛ぶ機体を作って移送しているんだろうから、間違いなく飛ぶんでしょうね。そんな浮力が得られるのなら、宅配便のドローン配送なんて当たり前のことなのだなと、普通にドローンが飛び回る景色を想像する。これまた愉快である。

厳しい環境でも頑張って機械が動くっていうのを聞くと、仕事、頑張らなきゃってなりますわな。限られた環境でなんとか頑張らなきゃならず、様々な障害にぶつかるわけですけど、本当に目指すべき未来であれば挑戦し続けなければと力が入る。過去のしがらみでがんじがらめの思考を解きほぐさなければならず、思考改革なんて出来ないのでは?と思ってしまう。

デジタルツールが全てを解決してくれる事など『今現在は』無くて、人の思考は必要になるのだけれど、その思考がルーチンをこなすだけに留まっている組織は要らないって言われるんだろうなって感じている。一人の思考なんて大したこと無くて、やっぱり異分野の人達のお話を聴くところからなんだけど、このWeb会議が当たり前になった今こそ、上手な橋渡しが出来ればなと思っては見るものの、0.01気圧でヘリコプターを飛ばすよりは簡単そうなんだけどなかなかどうして。地道に進むということか。

解除になったんだから

緊急事態宣言が解除になったなと思った途端、ホテルで大人数の会議が始まった。どうなのだろうなと感じる次第。トップの意識を換えないとと、ずっとここで戯言を言っているわけだが、トップの方々が喜んで集まっている姿を拝見すると、日本にはDXはあり得ないなと実感できる。Web呑み会を気楽に開く若者にその席をお譲りしたらと思う。まぁ、小生も参加しているのだからそっちの部類なのかもしれないけどね。お役だから仕方ない。

この仕方がないというのが曲者だと思うのです。出ないと後ろ指射されるからとか、村八分にされるとかね。良いじゃないの、村八分にするような人が居るような団体から足抜けすれば宜しい。どんどん切ってきたつもりなのだが、職制で、新しく加入させられる団体が出てきてしまう。いずれ足抜けしようと決心しているわけだが、まだ、どんな利益があるのかが明確になっていないので、うっかりした行動は慎まねばなるまい。

それにしても「命の経済」というお話が世界を駆け巡っている最中、旧態依然の事業形態と目的を崩さない。フォアキャスティング視点を変えない。そんな面々を見ていると、やっぱり泣けてくる。こりゃぁいかんですよ。ダイバーシティとかね、当たり前の死語が踊っている紙面が、次年度の目標ときたもんだ。泣ける。

鶴舞公園では花見客が列をなす。変異種が闊歩する名古屋である。何処でどんな感染爆発が発生するのか。PCR検査を受けていらっしゃる方は、実際に症状が重く出ている方々だ。漸く、無作為選別で検査を始めるらしいが、今更ですわな。まぁ、いろんな噂があるけれど、結局のところ日本は明治維新が続いている状況であって、近代化なんて一度も成していないんでしょうね。そう思った。

長期計画考

挑戦というのは長い時間、同じ作業を繰り返すことでは無い。昨日の延長で少しだけステップアップをすることでもない。柳の枝に飛びつくことが出来たカエルは、次に何を成すのか?幹からよじ登って、枝垂の先に降りてきたのではない。位置は同じだが、成し遂げたことはまるで違う。飛び上がって捕食できるようになったら、他の種とは異なる領域に入る。

その異なる領域は何処だかわからないが、今までとは異なる智慧を有する者と話が出来るはずだ。とある領域で図抜けることが出来れば、図抜けた人達が初めて見えるようになる。それが極めて重要である。背比べをしている者には明日は無い。今日で終わりである。それだけ世界の勢いは激しいのだ。濁流と濁流がぶつかり化学反応が起こっている。世界のモノづくりはそんな状況だ。

長期計画を明日の目線で構築しようとするのは愚者の思考だ。出来ることを列記してなんとなるのか。しかしだ、人財育成とその教育戦術を定めるのは並大抵ではない。そもそも論だが、例えばそれが大学で成そうとすると、現在の高校生、中学生、小学生がそのターゲットとなるのだが、そこでの人材の育成状況はとんと見えない。マスコミで入手できる情報で精一杯である。さぁ、どうする。

巧言令色で固めても仕方がない。出来ることしか出来ないわけで、作業と仕事との区別がつかない連中相手に、どんな教育が受け入れられるというのか。先をイメージし、それを実現できる人材育成の設計図までは何とかなる。パーツは揃うのか?いや、組み立てる組織として十分か?じっと手を見る。そんな毎日だ。

定性的国家の行く処

ここ数年来感じてきていたことだ。定量的に語っても、説得出来ない。どうも言語体系が変わってきているのだ。恐らくね。そうなってくると現役を引退しろ言うことなのか、それとも踏みとどまって過去を伝えようと努力しないといけないのか。感染とか空気による汚染とか、まぁ、半導体を扱って電子を制御したことのある人なら、ウイルスが如何にでっかいか、そして、空気中の数が計測できていないいじょう、マスクと手洗いで逃げるしか無いことは定性的に理解できる。しかし欲しいのは定量データだ。

空気中の1立方センチメートルに何個のウイルスが漂っている時、それらを吸い込んだら、肺の表面にどれだけ活着して、それが表面積に対してどれだけの割合になったら「発症」に至るか。感染と発症は違うということすらマスコミは語らない。勿論、無症状感染者という言葉が使われているくらいだから、無意識には使っているのだろうが、国民は無知な状態に置かれているなと感じるのだ。

喫煙者の呼気には硫黄原子が沢山。少なくとも1立方センチメートルに10の15乗個以上存在する。多いか少ないか?通常の固体は1立方センチメートル当たりに10の22乗だから、それから比べるととても少ない。しかし、絶対値としては半導体表面を1秒で覆う程の数だ。原子サイズの話だから、直径が100nmもあるウイルスだったら、原子から比べると空間を占める体積は10の9乗倍以上でかいわけで、空間に頑張って詰まっても大した数にはならない。それでも発症するというのだから、肺胞表面にはほんの数個が活着しただけでも増殖し発症させる力があるのかもしれない。

しかし、定量的に全く無知な状況に置かれているのだ。科学技術力ってこんな程度だったっけと情けなくなる。非常事態宣言の使い方を、サイエンスに関わる学生・学者・企業人は『ウイルスを見える仕事に集中すること』なんて、費用一切お構い無しで通達を出せば良いのにと思う。医療はお医者さんだけ?冗談ではない。そこで使われる機械はエレクトロニクスは勿論のこと、全ての工学が詰まっているのだ。戦争で技術が進歩すると言われるが、それを医療でという言葉に置き換えればずっと平和だ。なぜそんな方向に国は進めないのか。情けない。

コロナ後?

コロナ後という単語に違和感がある。突然世の中が変わったかの如く、社会をたばかろうとしている。世界ではIoTの活用でデジタル政府と言って良い国もある。EUの立ち上げの時には、国民の質的向上に、当時、とある国の唯一の全国ネットワークであった郵便局のネットワークを活用して、郵便局学校が開設され、テレ教育で隣国の教育レベルまで底上げできた。

そんなことが20年も前から世界では行われていたのに、規制だのなんだのと、今を換えないことを美学とばかりに振りかざし、停滞国家を先導してきた輩が、突然、コロナ後はこうなるべきと、改革を押し付けるのだ。しかし押し付けられる内容が、これまた諸外国では過去の遺物だから泣けてくる。先へ進む勇気は無いのか?

挫折が足りないのか。挫折する勇気も無くなったのか。挑戦すれば批判される。当たり前である。拍手で迎えられる改革案など、改革である筈は無い。理解されないからこそやる価値があるレベルなのだ。他人に理解され褒められる内容に向かった実行には、何の価値も無い。

コロナ後だのなんだの、未来のことに見えるが、言われているのは今日から連続した明日であって、不連続の改革など見えないのだ。結局のところ理想が描けていないのだ。理想を掲げれば明日は不連続となる。理想と現実の微分値がゼロだから、積分しても何も変わらない未来を描くのだ。変わって良いのだ。変わるから昨日の価値があるのだ。次の朝起きたら、君は何が変わっているのか?刮目せよ!

半ばまで行けない

小生がガマの油売り大学に入学させていただいた時に「教うるは学の半ば」という講演を聞かせて頂いた。教育大学の大先輩の講演であった。言葉そのものはことわざ辞典に掲載されているようなもので「人に何かを教えるときは、半分は自分にとっての勉強にもなる」という、文字面通りのものだ。

その講演は違った。「どんなに学び抜いたとしても、伝えることが出来るのはその半分も無い。だから100教えたければ無限に学び続けねばならぬ」という後輩へのエールであった。如何に学び、理解したとしても、伝えている段階の究極の緊張感は、自らに新たな疑問を喚起する。それが無い者は教壇という人より20cm高い段の上に立つ資格は無い。あの場所は怖い。心底そう思う。

であれば、ものづくりはどうだろう。研究はどうだろう。イメージしたものを創ってみる。それが出来損ないであることを知るのだ。自らの手を動かして創るから知るのだ。自らに何かが足りないことを。そして、自らの理想はより高いはずであったことを。「取り敢えず」という言葉を使ってはならぬ。それを使う者はものづくりをしてはならぬ。

相手が100を言えないのであれば、聴き手には相手に伝達力を提供する必要がある。それには共通言語である比喩を使いこなす力が必要である。人との共生に必須となるのは聴き力、伝達力、比喩力であるのだが、永遠に磨き続けねばならぬ力である。まだまだ半ばにも至らない。精進あるのみである。