コロナ後?

コロナ後という単語に違和感がある。突然世の中が変わったかの如く、社会をたばかろうとしている。世界ではIoTの活用でデジタル政府と言って良い国もある。EUの立ち上げの時には、国民の質的向上に、当時、とある国の唯一の全国ネットワークであった郵便局のネットワークを活用して、郵便局学校が開設され、テレ教育で隣国の教育レベルまで底上げできた。

そんなことが20年も前から世界では行われていたのに、規制だのなんだのと、今を換えないことを美学とばかりに振りかざし、停滞国家を先導してきた輩が、突然、コロナ後はこうなるべきと、改革を押し付けるのだ。しかし押し付けられる内容が、これまた諸外国では過去の遺物だから泣けてくる。先へ進む勇気は無いのか?

挫折が足りないのか。挫折する勇気も無くなったのか。挑戦すれば批判される。当たり前である。拍手で迎えられる改革案など、改革である筈は無い。理解されないからこそやる価値があるレベルなのだ。他人に理解され褒められる内容に向かった実行には、何の価値も無い。

コロナ後だのなんだの、未来のことに見えるが、言われているのは今日から連続した明日であって、不連続の改革など見えないのだ。結局のところ理想が描けていないのだ。理想を掲げれば明日は不連続となる。理想と現実の微分値がゼロだから、積分しても何も変わらない未来を描くのだ。変わって良いのだ。変わるから昨日の価値があるのだ。次の朝起きたら、君は何が変わっているのか?刮目せよ!