師走予行

なんと来週は既に師走である。未来に向かって「既に」とは妙だが、戯言的日本語だから勝手に許して頂くことにする。速い、猛烈に速い月日である。今年は学長選があって、ずっと緊張していたこともあって、とんでもなく速かった。過ぎ去った日程表を見れば、自らが研究等々、リラックス時間に使った時間が大幅に減っているのだから、そりゃぁ速く感じるでしょうよ。

世の中のリーダーと呼ばれる方の日程など更に凄まじく、その方々ってどんな思いで瞬間を過ごしていらっしゃるのでしょうね。世界企業でいらっしゃるわけだから、IoT利活用で徹底的に無駄を省き密度を上げていらっしゃるのでしょうね。振り返って我が組織を省みると、未だに日程調整がアナログで行われ、思考の寸断を発生させている有様。どれだけの無駄なコストを掛けているのだと悲しくなる。

昭和に生まれて平成を過ごし、気が付いたら令和である。鬼籍に入ってしまった同級生もおり、自分もそんな年齢なのだなと、これまた速いなぁと思う。小生には縁が無い話だが、平成生まれの大学の先生が令和生まれの学生を迎える時、どんな学問体系となり、何をどのように伝え、実践させていくのか、その形態には興味がある。興味はあるが、黙ってみているのであろう。

IoT、AIが間違いなく社会の有り様を変える。いや、どんどん加速して変化させて頂きたいし、その加速に参画させて頂けるのであればどんどんチャレンジさせて頂きたい。余りにも遅い日本の歩みが辛く思えてきた。これではいけない。絶対にいけないのだ。時の速さを感じれば感じる程、世界の生活環境から取り残され感が大きくなる。そんな日本であってはならない。優しい文化と先進的営みの融合こそ日本にしか出来ない暮らしでは無いのか?確実な経済活動と平和こそ目指す道では無いのか?まぁ、大上段のお話である。戯言だから仕方がない。戯言らしさ。それも小生流である。師走も貫きたい。

現役シーラカンス世代に告ぐ

日本でも起業に挑む学生さんや大学の教員、脱サラ諸氏が増えてきた。この方達は、恐らくだが「何か」他に無いものを持っていて、そのとんがりを押さえつけられたことによる社会の理不尽への反動を具現化されたのだろうと、勝手に思っている。これまた勝手な考えなのだが日本って慎重だよなって。小さな前進の積み重ねを好まず、誰もが目立たぬようにとんがりを潰し切って見せかけの全体最適に追い込むことに数カ月、いや、数年を掛ける。そして不平不満のみが噴出する組織改革を実現する。

中国の方の爆買いが減りましたとものづくり企業が嘆くわけだが、そりゃぁそうですよ。IoT機能が無い日本の家電を、家電先進国の誰が買いますか?個人情報云々?あなたの個人の活動情報はそれ程に価値があるのですか?お互いに協力しあいましょうなどと表では言いながら、結局、自らの知恵の共有は好まない。脱IoTの姿勢が生み出す家電を、自らの生活をよりブラッシュアップしていきたいと願う世界の人々の誰が買うのか?

小生のようなお仕事をしている人間はかなり多いと思っている。所謂デスクワークと会議、時々講演(講義)と討議。これで365日が回る。まぁ、三が日はひっくり返っているだけなので、362日というところではあるが、何が言いたいかと言えば、ほぼほぼ変わっていない机周りなのだが、確実にWiFi環境になりクラウド環境となっている。だからこの戯言ですらどこでも表現できているわけだが、こんなものは要らないという強い声は無視させて頂いて、まぁ、ご容赦願いたい。

しかしだ、それにともなってコンセントが妙に増えている。充電様式が異なる機器が溢れて、新たな課題を生み出してくれている。全てを音声でAIスピーカを通して駆動させたいが、旧式機器が並んでいるオフィスではそれはままならない。愉快な生活が海の外では行われているにも関わらず、その無線機器は日本では使えませんと、最新機器を規制で使えなくさせる日本の有様。若者はどんどん海の外に出ていくべし。生きたまま化石化するぞ!年金など払ってくれなくて結構だ。小生も飛び出していく。そんな思いの毎日だ。

有用かつ斬新であれ

有用な斬新さという点において、芭蕉が完成させた俳句などは、間違いなくイノベーションであり、今に伝わる文学として発展している。学問の域に到達し、人の心に光明を射すイノベーション。そんな優れた活動に関わってみたいとは思うが、何にもやってこなかった人生だなと、これまた苦笑いである。

連歌、和歌という伝統から、引き算しきって生まれる思想表現は見事と言うしかなく、何でも足していって崩壊した日本型ものづくり界は、見直す必要があるだろうと思う。これはダメという理由が、過去に決めた規格をクリアしないからという足かせを安心材料にして、挑戦を認めてこなかった反動が出ているのが今の在り方であろう。

本当はこれがやりたいのにそれが出来ないとか、これに到達したいのにそこに行けない時、単なる努力不足で無いならば、そこには何か壁があるのだろう。あちらとこちらの境界が認識出来ているのならば、それをどうやって異なる色の壁に換えていくのかを組織で考えれば良い。一人のアイデアなど、所詮、小さいものでしかない。他に使えるアイデアがあるのであれば頂けば宜しい。ただ、自らの環境の色に近くしないと、静粛な場に宝塚の大階段での孔雀の衣装を着て出てくる愚を犯す。

こちら側の業務改善に繋がっても、それが顧客の笑顔に繋がらなければ何の意味もない。顧客の損失を生んでいた意識的努力を、IT技術によって完全に無意識価値に転換することにお金が掛かるならば掛ければ良いだけのこと。資金が無ければ稼げばよい。稼ぐ手段が無ければ創ればよい。その場しのぎにならないようにしなければならない。挑戦する場があるならばそれを活用すればよい。社会を歩かせて頂いて、足かせを喜んで履いていらっしゃる方の何と多い事か。自らの愚が他に圧倒的な影響を及ぼしていることを、へらへら笑える者も居る。残念である。

広瀬惟然さん

関のついでと言っては叱られるが、松尾芭蕉のお弟子さんで広瀬惟然さんという方がいらっしゃったそうで、その出身地が関なのだそう。芭蕉十哲と呼ばれる列には並ばないが、遺品を7品受け取っていらっしゃり、間違いなく、繋がりがあった方とのこと。失礼ながら全く存じ上げず、たまたま、関善光寺をお参りした後、駐車場で見た「文化財 弁慶庵」という看板に興味を持って拝見した次第。

おやっと思う程の風流な庭に驚かされ、リノベーションされた建屋にいらっしゃった方から丁寧に説明を頂戴いたしました。江戸のお金持ちの隠居所の雰囲気を良く伝えていると思います。詳細な資料が展示され、それよりも説明をして頂ける方の熱意に圧倒されたのですが、実はその方も、数年前にその存在を知ったとのこと。地元においても知られていないお弟子さんなのですね。

一方で、その方の本宅の跡地が広大な関商工会議所として活用され、その一角に、産湯の井戸が残され、きちんと説明版も設置されていらっしゃることから、関市としてはしっかりと認識していらっしゃる偉人なのだと実感できました。今まで通っていた関市は実は「刃物会館前」を中心としたエリアであって、決して関市の中心街では無かったのだと苦笑い。

今回の旅で出会った善光寺も惟然さんも、それこそ数十回もその横を通過しておりましたですよ。それらがある山のトンネルを潜っていただけという、情けない状況でありました。関の孫六とか言いながら、孫六地域には足を運んでも居なかったことに気が付き、いやはや赤面ですな。日本各地を巡り直したいと、今更ながらに思ったのでありました。

戒壇巡り再び

目を開いているのに何も見えない。手には壁の感触が伝わる。手を伸ばして天井を感じれば首のすくみが戻る。暗闇の中で歩むことで精神は集中し、無心にただ歩くだけの世界が広がる。恐らく無限に広がっている闇は目の前の暗闇と静寂とだけで精神世界に創り出すことが出来、その中で一心に歩く。捕食者の存在に怯える遺伝子が組み込まれていると言われている人類であるが、それを体験できるのが真の暗闇である。

日頃、精神的重圧に押しつぶされ、ぺちゃんこになりながらも気合で膨らんでは、またぺちゃんこになる繰り返しなのだが、それも自らの気の持ちようである。真っ暗闇に降り立って、そこで手探りで進んでいけば明かりを得られる。その明かりを得られない事実があるとしたら、無限の闇が続くとしたら、その辛さはどのように解放されるべきか。

ひょっとすると見えないことで得られるものが沢山あるのではと思ってしまうのだが、見えるからこそ思い煩うことを大切にしないといけないのだなと、神妙な思いを抱く。何も無いのだ。しかしそれは見えるものが何もないというだけであって、歩く床も光を遮る壁もあるのだ。手に触れる感触もあるのだ。目から入る情報が如何に自らを縛っているのかを実感できるのも暗闇が持つ特徴なのだろう。

延々と続くかと思うと薄明かりが見え、真っ暗闇から明るみに出た時の安堵こそ、真実の想いなのだろう。戒壇巡りと呼ばれる行であるが、つい先日の祖父江善光寺に続き、関善光寺に出掛けて参りました。紅葉が日に映えて、七五三の祝いの着物がかわいらしく、その中で暗闇に出会う意味は深ろうかと、出掛けるのも悪くない。近くにあって初体験の関善光寺でありました。

学園祭考

1981年のガマの油売り大学の学園祭で、暗闇となっている部屋に入ったら、目の前にエイリアンが現れた。映研の部屋であった。落研に行けば落語があり、一服しようと思ったら謎の食べ物が出てきた。近所のおかみさん達が、栄養失調且つ飢えた学生向けに炊き出しをして頂いていた。今も思い出される学園祭の風景である。

街中の大学にやってきて、えらく違うなと感じたのが学園祭である。お上品である。雑然感が全くなく、おもちゃ箱感が無い。今年はメインキャンパスからは飲食関係が淘汰されたようである。実行委員会出版のパンフレットを拝見したが、いよいよもってお上品感が増したなと感じる。クレープで食中毒が東山で発生して以来、数年かけて保健所殿の影響がここまで来たかとため息が出る。社会の流れなのだろう。

休日のみとなったから、益々参加しないようになってしまった。パラダイスカフェは遠くなりにけりである。パラダイスに込めた皆様の笑顔は何処かにあるのだろうか?きっとあるのだろうとは思うが、探さないと見つからない。それぞれが笑顔になればそれで良いのかもしれないが、地域の皆様との笑顔の交流が、今後も続いて頂ければそれで良い。

学園祭の準備ということで、講義などが停止となり、休日増でただでさえ減りがちな講義日程が寸断され圧迫される。学生にとっても不利益な気がするが、学園祭で皆が元気になって頂けるのであれば何の問題も無い。実行する元気があるキャンパスと言うことだ。エイリアンは今もキャンパスで姿を現すのだろうか。ワクワクドキドキがずっと続く鶴舞大学であって欲しい。それに関わりたいと、正直そう思う私であります。

頑張り

「頑張っています」と「儲けます」という言葉の意味は全く違う。字面だけではない。その結果が定量評価出来るか出来ないかだ。延々と机にかじりついて「長時間職場に滞在しています」というのか「契約が増えた」という違いとなって現れる。農家の方々の「頑張っています」というのは、単位時間にどれだけの土地の面倒を見ているかであって、収穫や品質となって必ず還ってくるから尊い。それが天災で失われる事を自分事と感じることが出来るのは、その為だ。

祖父から聴いた「頑張る」という言葉の意味は、我を張ることは自分だけの為にやることだ、我を張って生きてはいけないと教えられた。辞書を引くと(最近、こればっかりだ)同様のことが書かれているから、そのように用いられたこともあるのでしょう。「あいつは頑張っている」とは軽蔑の意味だから、人に対して言ってはならない、自らの努力で結果が出ない時、それは単なる頑張りだったのだと思えと教わった。

「気合入っているな」と、小生の口から出てくるのはその為であって、いずれ芽が出て花が咲くでしょう、それはお付き合いをさせて頂いている人が愛でるためのものでしょうという気持ちであって、冷やかしでも忖度でもなんでもない。気持ちを人と合わせようとして力むのが気合なのだと思う。社会の中で活かして頂いているならば当然の活動である。

工場にある一つの機械でも良いから、活動状況を知るためのセンサを付けて、稼働率を見てみると良い。頑張りが定量化されて出てくる。電源が入っている時間を見るのではない、製造に関わる行為が成されている時間を見ないといけない。刃物がワークに当たっている時間がそれに当たる。より上を目指す時、そこには頑張りではなく気合が必要になる。新しい事に挑戦するには気合が必要だ。自らに言い聞かせる。そんな毎日だ。

思い切り

思い切るか切らないか。「思い切る」を辞書で調べると、諦めきれない思いを忘れる、決断して行う、ためらいを捨てる覚悟などが出てくる。時間的不連続を生み出すほどの活動、思想の転換が成されることと感じる。思い切るとはそれ程の行為なのだろう。思い切ったことがどれだけあるのか。自らを省みて恥ずかしくなったりする。

男子はディレクトリ保管、女子は上書きという恋愛論を伺ったことがある。思い切れるのは女子の強みなのかもしれない。先日、お伺いさせて頂いたお企業は、正に、代替わりの社長殿が思い切られ、今日の活況を創られたことは事実である。男子は存外、踏ん切りも思い切りも出来ない生命体なのかもしれない。だから胃潰瘍だの十二指腸潰瘍だの、ストレス病に悩まされ、結局は早死路線まっしぐらだ。

民族大移動を遂げ、争いの後に生き残った西洋の国々の民と、あゆみの果てに辿り着いた島国で、内乱の後に同じ民族で生き延びた日本の民とは、思い切り方が違うのかもしれない。次世代自動車開発に7兆円を投じると報じられた独フォルクスワーゲンだが、我が国の同業者はどうなのでしょうね。思い切れず共倒れの方向に向かっているような気がする。

変革は恐ろしい。自らが成そうとすると更に恐ろしい。恐ろしく感じるから行動に移す価値があるのだろう。思い切らなければ前進する恐怖に出会うことは無い。しかし、後退していく辛さを身をもって知ることになる。未知の恐怖と既知の辛さ。結局のところ思い切りだ。進化し続ける世界に新しさを発信し続ける覚悟。それが必要だ。巻き込まれるより巻き込む。活路はそこにしか無い。そう思う。

破綻対策

本社が支社に求めるのは、地域における支社独自の課題解決能力の醸成とその表出である。本社と言っても、更に上の機関の下に成立していて、支社がジタバタしても、最上流は痛くも痒くもないというのが現状である。課題解決能力を発揮するべきという項目の一つが「経営財政健全化」である。国立大学時には人件費も研究費も国費が基本であった。

現状、多くの大学が共同研究活動を実施し、そのサポートとして大学は諸経費を赤字として垂れ流し続けている。それを企業が経費削減の一環として活用してきている。3年前に本社は社会に対して、その是正を訴え、支社にその実施を求めた。まぁ、企業なら当たり前の本社活動なのですが、いにしえのルールで動く支社は、なかなか急旋回を切れてこなかったが、少なからずそれを実現し、経営改善の方向に向かっている支社もある。

政府においては、お金が欲しくなれば国債を発行し、日銀に対して現金と交換。企業の株も日銀が購入し、その価格を保つ努力をし続ける。突然、その「紙」が「紙幣」との交換能力を失って消えたのがソ連であり、その瞬間が日本に訪れないとも限らない。共同研究によって赤字を垂れ流す支社と企業との関係は、政府や企業と日銀の関係に似ている。いつか、突然に破綻する。

求められる事業に対して正当な対価を頂く。それは資本主義国家として当然の活動であり、倫理観であるはずだ。それが成立していないことが本質であって、目先の、そして一時の「しのぎ」が続いては未来は無い。未来を食いつぶして「自分さえ良ければ」という考えは無くしていかねば経営は成り立たない。その為の努力はしなければならない。まつりごとである。それを為す側が血を流して、受ける側のご理解が得られる。血を流し切らねば進まない。断行する。

遠方より来る

古いお話である。「師の教えを学び、繰り返して自分の身とする。なんと喜ばしいことか。同じ志をもつ友が遠方よりきて共に学ぶ。なんと楽しいことか。このように生きることを余人が理解しなくても気にしない。それが君子ではないのか?」と、論語は言う。即ち、孔子は言う。この一説だけは気に入っている。同窓、同門であることの喜びは、どんなに離れていても、心は一瞬にして元の窓辺に戻る。

先日、関の地を訪問させて頂き、その喜びを心底体感し、感激いたしました。鉄器は武器にもなるが人の生活を支える大地の恵みである。どう使うかは使い手の判断である。巨大なエネルギーを搭載し、人の群れに突っ込む殺戮の車両を作るのも人間だし、丈夫で長持ち、しかしながら風雪で大地に戻るのも鉄の素晴らしさである。生分解性プラスチックなど、鉄に比べれば「まがい物」であると小生は思う。その鉄と家庭とを結ぶ知恵の橋渡し役が関にはあろう。

日本刀がそれこそ「普通の家屋」の中で作られていたことに衝撃を受けましたな。本当にこんなところでやっているのかしら?と思いながら進むと、徳川家御用達の看板があり、引き戸を開けるとふいごで赤熱する鉄を鍛える場がある。そのアンバランス感に魂消ましたな。過去、拝見した鍛錬の場とはまるで雰囲気が違って、伝承とはこれで良いのだと、なんだか安心を致しました。途切れることは無かろうと。

そこから車で5分のT氏には歓待を頂き、新しいお仕事のお話を受け、また、見なければわからないものづくりの丁寧さを実感させて頂き、ここにも知恵の伝承を拝見し、なんだかこちらも元気になって帰ってまいりました。牛乳一つとっても、関、良いところだなと思った次第。サポイン事業などで何年も通ったのですが、街を足で回らせて頂いたのは初めての経験で、神社の絵馬書きも、人と神様との密接な関りを知り、間違いなく心に刻めた想い出となりました。関市の工場見学イベントを実地運営されていらっしゃる、若手の経営者の皆様に感謝いたします。