古いお話である。「師の教えを学び、繰り返して自分の身とする。なんと喜ばしいことか。同じ志をもつ友が遠方よりきて共に学ぶ。なんと楽しいことか。このように生きることを余人が理解しなくても気にしない。それが君子ではないのか?」と、論語は言う。即ち、孔子は言う。この一説だけは気に入っている。同窓、同門であることの喜びは、どんなに離れていても、心は一瞬にして元の窓辺に戻る。
先日、関の地を訪問させて頂き、その喜びを心底体感し、感激いたしました。鉄器は武器にもなるが人の生活を支える大地の恵みである。どう使うかは使い手の判断である。巨大なエネルギーを搭載し、人の群れに突っ込む殺戮の車両を作るのも人間だし、丈夫で長持ち、しかしながら風雪で大地に戻るのも鉄の素晴らしさである。生分解性プラスチックなど、鉄に比べれば「まがい物」であると小生は思う。その鉄と家庭とを結ぶ知恵の橋渡し役が関にはあろう。
日本刀がそれこそ「普通の家屋」の中で作られていたことに衝撃を受けましたな。本当にこんなところでやっているのかしら?と思いながら進むと、徳川家御用達の看板があり、引き戸を開けるとふいごで赤熱する鉄を鍛える場がある。そのアンバランス感に魂消ましたな。過去、拝見した鍛錬の場とはまるで雰囲気が違って、伝承とはこれで良いのだと、なんだか安心を致しました。途切れることは無かろうと。
そこから車で5分のT氏には歓待を頂き、新しいお仕事のお話を受け、また、見なければわからないものづくりの丁寧さを実感させて頂き、ここにも知恵の伝承を拝見し、なんだかこちらも元気になって帰ってまいりました。牛乳一つとっても、関、良いところだなと思った次第。サポイン事業などで何年も通ったのですが、街を足で回らせて頂いたのは初めての経験で、神社の絵馬書きも、人と神様との密接な関りを知り、間違いなく心に刻めた想い出となりました。関市の工場見学イベントを実地運営されていらっしゃる、若手の経営者の皆様に感謝いたします。