売れるもの

今、一体、何を作れば売れるのでしょうと聞かれる。そんなものがあったらとっくに実現しているだろうにと思う。2035年から新規乗用車販売は電気にするのだとカリフォルニア州知事が宣言をされたわけだが、自動車製造企業はどのように動くのか。ランボルギーニみたいなニッチな企業はガソリンが売られる限りは知らんぷりを決め込むのでしょうが、大量消費材としての自動車製造企業は業態変化を迫られるでしょうね。

安全基準だの規制だのが厳しくて、突然、ボディを炭素繊維強化プラスチックに変化させるなんてことは出来ない日本だから、超軽量化といっても加工しにくい超超ハイテンにして、ぺらぺらの金属ボディにするのでしょうけれど、どんなに頑張っても、鉄の質量が小さくなるわけでは無い。炭素繊維強化プラスチックの水素燃料タンクが許されてボディが許されないってどういう事なんでしょう。勝手な想像なんだけど、塗装がしにくくて高価になるからかなぁなんて邪推をして楽しんでいるくらいだ。

昨日の続きで、追突したら危険だからということなんだけど、いい加減、追突しないAI自動車が普通に走り回るようにならないものか?プライバシーだの財産が国に管理されるだのいつまでガキみたいなことを言っているのか。CO2削減だって日本の企業が頑張っているという話は全く聞かない。これはどういう事か。結局、経済と環境を両立させることを、強い力が抑え込んでいるということなんでしょう。寂しいことだ。

若者が車を持たない。維持費が大変で持てないのが事実かもしれないが、それが世界的傾向にあるとすると、環境には自然と優しくなるのだろう。車そのものを携帯電話にしてしまえば、案外、その中に籠って生活する若者が増えて、そんな車は売れるかもしれない。今までと同じ価値を売ろうとしたら、それは「無い」。人をより良く生かすものが売れ続ける。時代と共に変わっていくそれをキャッチアップしないといけない。さて、それは何でしょうね。

たられば

人は勝手な生き物で、特に自己防衛の為には脳内に仮想物語を作り上げて、真実と思い込んで他者排斥に出る。墜落したら火の海になるから飛行機は頭の上を飛ぶなという。もっともらしいのだけれども「たら」を使ってしまうとなんでも悪くなる。電気は大量に必要だけれど、地球温暖化は嫌だし、だから原子力を推進するけれど、都会は人が沢山居て、事故があっ「たら」大変だから、地方に作れというのと同様だろう。

もっともだし、もっともらしいから全面的に反対では無いのだ。狭い国土において貴重な農地がいきなり工場や倉庫が立ち並ぶ工業団地に変身する様を見ると、こんなことをやってい「たら」食料自給率が益々下がるとかね。確かに自分で言っています。ひょっとするとその工場は最新の植物工場で、その土地から生み出される有機的に優れた水を使いたいからそこに建ったのかもしれないのにね。

夢の中で夢を見ている自分が居て、何度起きても真に起きていない。そんな状態が何日も続いていると、ひょっとして今こうして戯言を書いている自分も夢なのではないかと思ってしまう。しかし、もしそうであっ「たら」寝ている間に会議をして結論に到達し、何事かが進み始め、新しい出来事にであっているのだが、本当に起きたら何にも出来ていないという事になると、それは空しいことであると悩んでしまう。それはかなり嫌だ。

人がやることは危ないから、もしも事故が起こっ「たら」大変なのでやめろという。ご尤もな理屈なのだが、牛のげっぷが地球温暖化を加速させるから牛を食べるなというのに似ていると感じている。飛行機の部品が落ち「たら」危ないから飛ばすなという。部品が落ちない飛行機を作らねばならない。工学は未だに信用されるところにまで至っていないというだけだ。人々の「たら」から生まれるのは工学人の反省である。そして頑張りである。それだけだ。

グリーンピース考

昭和30年代において、いちごのショートケーキをイメージして登場した、肉団子の上のグリーンピース。シュウマイに昇華して、平成に入るとほぼその座を失った。崎陽軒さんによれば、グリーンピースを肉に混入すると混ざりやすいから入れたということだそうで、伝統メーカーの入れ方とのバッティングがいろいろあったのでしょうが、グリーンピースが天辺に乗せて、シュウマイとはグリーンピースのピンポイントがある食べ物だという座を得たようである。

どうでも良いかもしれないけれど、昔当たり前にあったけど、今、マーケットでなかなか見かけないなぁと思ったグリーンピースである。水炊きみたいな缶詰があったりするのだが、気味が悪いので買わない。その昔、鞘のまま売られていたのだ。母親と共に鞘から取り出して食したのだ。ひょっとするとその親子の薄かった縁を断ち切るためにスナップエンドウとかが出てきたのか?皆で何かをするという活動を、お一人さま向けに改良していった結果、グリーンピースは消滅したのか?

いやいや、消滅したのではない。その当時から、給食では不人気の第一人者であった気もするのだ。小生においても好物の部類ではなかったが、別に嫌では無かった。グリーンピースご飯などはご馳走の部類であった。それが見事に消滅しているのだ。面倒なことは無くなっていく。それはそうなのだが、それで良いのか?季節は違うが、筍だって、皮のまんま売られていて、それを剥いて灰汁出しをして、それから食するという手間があったわけだが、それすら失われつつある。

新鮮さを保つための出荷体制であったと思うのだが、購買層がそれを望まないと言うか、美味しさを知らないと言うか、そういう育ち方をしていると、文化そのものが失われて、作り手の農家さんも「やってらんねぇや」ってなるのではないか?ぶどうだって種があった。それがジベ処理で消え去った。人の都合で変わっていく。10年後のマーケットはどうなっているのだろう。リモートワークで出来た通勤時間の余剰をキッチンで使っては如何か?そんな気がしたシュウマイとグリーンピースの関係である。

新陳代謝

突然発生した台風12号が当初の予測とはまるで違う方向に進んでくれたおかげで、真っすぐ名古屋に向かってくるかと思われたのだが、ちっとも雨が降らない状況になっている。雨は良いけれども台風は大風の被害が凄まじく、台風にはやってきて欲しく無いというのが本当のところだ。秋雨前線を刺激するくらいで終わって頂きたい。

被害が出ない程度の雨は有難いのだ。街も綺麗になる。ついでにコロナウイルスも流し去ってくれれば良いのだが、こちらは人の体の中に住み着き増殖を重ねる代物だから厄介である。何処かに籠れば籠った人々に感染被害が広がっていく。連休で数値が減って一安心とマスコミにFrom Tokyoをアピールさせたわけだが、まぁ、当然の如く数値は元に戻る。それでもいよいよ鎖国も解く。命より経済という理屈はまぁそうなのかもしれないが、別の方法もあるのではと思う。

経済活動という点においては、単に今ある経済母体を活かすだけでは無く、我が国としての取捨選択も必要だと考える。積分積分で積み重ねていけば、腐敗したものが見えなくなる。新陳代謝の無い国になってしまっていると感じている。全くもってよろしくない。上塗りが過ぎれば、乾いていない土台の上の上塗りとなって、総崩れしていく。もう崩れているか?

社会活動であるから、真理から生まれるものだけで済むはずの無いことは解る。でも、少しは風通しが良くて、いろんなことが「なるほどね」って共有されるようになっては如何なものだろうか。知的集約で、微分が入っている内はまだ良かったのだろうが、知的集積になって、時代から脱落したものまで守っていく余裕のある国では無い。若者はもう居ないのだ。為政者は常に決断の上にある。そう思う。

リアルに転換を

1991年という、バブルが弾けていよいよ日本の国にお金が無くなり始めるから、お荷物の国立大学を、設置基準から見直そうぜって、国立大学にとっての大転換年があったわけです。給料なんてどん底で、その年に教員に手を挙げる奴の顔が見たいと言われたほど。悪かったなと言いたいが、まぁ、過去のお話だからね。今だからわかるのだけど、若手のご当人には解る筈もない。

2004年になっていよいよ法人化がスタートしたわけです。その前にはどっかに吸収されるとか、いろんなお話が出てきていて、結局、単独で行くって何度も挑戦の道を選んできたわけです。ただ、ここには甘えがあって、文部科学省という財源団体がいらっしゃるから大丈夫みたいな甘えがあったのではないかしら?大切なのは大学が突如無くなっても、そこに居る学生さん達にはちゃんと卒業認定が与えられる仕組みがあること。大学そのものは経営破綻したから、何処かに吸収されるか解体されるかなのでしょうね。

企業などは明快で、潰れてしまったら、その時の経営者の方針が間違っていたから即刻退職金無しで解雇、沈没させたのはリーダーの責任は大きいけれど、そこで稼ぎが悪かった人達にも平等に責任があって、まぁ、若干の退職金込みで解雇。その覚悟が必要なんだと思います。だからこそ、大きな転換点がやってきた今は大変革のチャンスなんですよ。そこそこも上手くいっていない社会だからこそ、イノベーションに寄与できる大学は変わるべき。

大学院が一本化したとか、凄い改革なのだけれど、それによって横断的新分野が走り出したかと言えば決してそんなことはない。箱が変わっても中身が一緒ではね、それは改革とは言えない。一斉に同じ状況に陥っているわけです。傷をなめている場合ではない。その筈です。

近場のマーケット探訪

何処にも行けるところが無いものだから、東郷町に出来た巨大マーケット開店日に出掛けてきた。国の縛りが無くなったわけだから、遠慮せずに何処にでも行けば良いのだが、遠距離移動は暫くは止めておこうということで半径10km以内の移動に限っている。まだ感染がゼロに為ったわけではなく、ワクチンが出来たわけでもない。感染した際の種々のダメージを考えると、まぁ、そのくらいにしておこうというところだ。

既に数週間前から地元の方々に向けた内覧会的オープンはしていたので、それ程混雑は無かろうと午後から行ってみたのだが、想定の通り、渋滞など無く、すんなりと立体駐車場に入ることが出来た。なんだか見慣れた店舗が並ぶ様子に、最近の流行りはこんなところなのだなと理解するには良いところかもしれない。町の出張所的なところもあったりして、近隣住民に優しい建屋造りは好感が持てる。なんだかんだ言っても人は多く、小一時間でぐるっと回った程度であった。

車の動線が良く出来ていて、駐車場から脱出する際に、人の流れによって留め置かれることが少なく、近所に先行するマーケットの悪いところをちゃんと見ているなと、ユーザーの想いを意識した作りになっていることを感じた。勿論、その分、建設費用は上がるのだろうが、リピーターを呼び込むには必要な構造だなと思った次第。一度しか行かないマーケットは寂しい限りだからね。まぁ、コロナ禍が余程収まらないと行かない気がするが・・

徳重のマーケットに行ってみたら、これがまぁ、ガラガラで影響が出ているのかなと感じる。こちらとしては空いていて気分は良いが、集客という点においては暫くは頑張りどころかなと。コロナ禍で客足が鈍り、近隣の巨大マーケットでこれまた客足が遠のいてしまって、応援はするのだが、どれだけの影響があるのやら。数キロメートルのところに「街」みたいなマーケットが出来てしまうと様々厳しいだろうなと思う半面、どんなマーケティングが成されるのか興味もある。なんだかんだ言っても最近接のマーケットを応援する。なかなか賑やかになってきたなと感じた、本の前から殆ど動かなかった連休でありました。

とりあえず

「はっきり言って口下手だし、歌もうまくないけど、唄わせて頂きますと、まぁ、松本出身の彼はそう言った。誰が誰に忖度ではなく、貴方が国家をリードするためと、まぁ、国はそうなった。なった以上、従うしか無い。これが大切だ。どんなに腹が立っても決まったら従う。

でも、いや、お願いに上がった人達は全く違う。ダメはダメだと、社会の人々の心が入ると思うと、全部反対。ふぅん、でもそんなものなのだけれども、反対した人は全ての人の心が分かっているのでしょうね!凄いなぁ。最近、思うことなんだけど、蘇我馬子の時に、既に死んでいた聖徳太子とかね、何が言いたいかと言えば、過去を基準に威張るだけでしょって言いたいのだ。消えた過去を基準にされると、基準にした人も困るだろうな。

未来は解らない。過去は見えている。見えている過去に比較して、未来を見たふりをする。さて、どうしましょうかね。命を掛けて、頑張ったとしても、あぁ、そうだねと、無視されるのがゴールである。それがゴールで良いのか?

頑張った先に何があるかなどは考える必要はないです。只々頑張る、それだけなんですよ。こんな風になったらいいなぁと思うけど、まぁ、ならないね。それは孤独では無い、否定して頂ける社会に生きているではないか。今日もやっぱり頑張る、それだけの事だ。

漆工芸

石器時代からもので、残って掘り出されているものと言えば「漆」。縄文時代前だから一万年よりも前だけれど、そんなころから、今、日本と呼ばれている土地に住んでいた大先輩達は、漆を見出し、それを固め、生活で用いた。凄いことだ。漆工芸を、例え真似事でもしたことがあったら、それがどれだけ凄いことか解るはずだ。発掘されるものにおいて、竹に石のやじりをつけて、葛で巻いて漆で固めてある。その部分だけが一万年を超えて残っているものだから、その時代の大先輩が漆を接着剤として活用していたことが解るのだ。

漆って面白くて、その土地の環境において最も乾燥出来る、即ち硬化するのだ。漆チオールが完全に抜けた状態になった時、それが漆が乾いた時だ。この漆の乾燥というのが面白くて、十数度から四十度くらいまでが乾き、次は八十度を超えないと乾かない。愉快である。また、湿度が七十%程度ないと乾かない。濡れていないと乾かないという天の邪鬼さである。こんなものは他に知らない。

乾いた漆は酸・アルカリにも耐え、ガラス工芸のエッチングにも用いられる程だ。面白いことに、不純物があると乾きにくい。だから、割れた茶碗の掛けた部分を漆と砥の粉を混ぜたもので整形しようとすると、一ヶ月くらいほったらかさないと、次の工程に入れない。極めて上等の、純度が高いものであれば一日もあれば乾く。尤も、塗った厚さが精々、0.1mm位のところだが。この乾きにくさ故に、筆のムラを自然と隠してくれるのだ。

いきなり漆工芸がなんじゃいなと言うことなのだが、仕上がるまでに相当の忍耐が居るのだ。これは正に教育に似ている。国家百年の計であり、大臣が「明日からこうやれ!」って叫んで講義をすると、そこからコロナウイルス感染が発生しないとも限らない。事実、大学生の感染の3%が講義室感染だ。教育の場は漆工芸よりも時間が掛かる。効果が見えるのは次世代、自次世代だ。焦ってはならぬ。それが教育である。

オンライン人

常に周りに人が居ないと寂しくて仕方がないという、若者からのアンケートが上がっているが、一方で、SNSで繋がっていればそれで良いという声も大きい。教育・研究の効果が下がり過ぎるから、オフラインでの講義を実施しろと本社は叫ぶわけだが、世界的企業に置かれては、完全にオンラインで業務に取り組むことが出来る学生を大学は排出せよと仰る。まぁ、そりゃぁ、そうだろう。

視野は狭くなるのかもしれない。生きていくうえでの思いやりの幅を広げるためには、様々な現場における不可思議なやり取りを体得しておくことは無駄では無かろうと感じている。何等かを思いつくのは、そんな経験が役に立っているからだろうと、年を重ねてきたからこそ納得する。

それではオンラインだけで生活している人は、思いやりは無いのか?そんなことは無い。炎上しないような発言は出来るし、いや、炎上させる仕掛けも生み出せる。凄い能力である。一個人が関わることが出来る人間の数を遥かに超えた影響力だ。新しい思いやりの形であろう。それを思うと人と出会ったことが無い人が起業して、多くのサービスを提供していく時代に入ったと思うのだ。

今までだって「誰が買うんだ」というものは沢山あった。全ての人に価値があるなんてものは無くて良いのだ。前提を根底から変えないといけないのだ。それなのに、日本人だからこうあるべきだなんて考えなくて良いのだ。自分の満足は何故生じるのかを定量的に意識出来て、それをオンラインで共有して頂く発信が出来れば良いのだ。オフラインで逢えないと人の為に自らがあるという意識が生まれないというのは化石的発想であろう。時代は劇的に変化している。そんなところだ。

箱モノ

異なる意見の人は飛んで頂きますと言った人が、近い将来首相になるらしい。う~ん、まぁ、全国的に支持が集まったのだから、日本はそのような政治的運営が認められる国なのだなと納得するしかないのですね。これからもどんどん謎の箱モノが建ちまくるのでしょう。まぁ、今回も結果が分かっていて、その通りになったというだけなのでどうってことは無いのですが。

箱モノってなにも、巨大な校舎みたいなものばっかりでは無くて、身の回りにも落ちていませんか?クローゼットなんかを引っ掻き回すと、あれ?これは何だろうと箱を開けるとタオルが出てくるとか。そうやって部屋にある箱モノの整理をしたら、これが結構、隙間を作ってくれるわけですね。時々、狂ったようにやってはいるのですが、見落としがあったりするわけですな。

箱を取っておくと、その中に何かを入れたくなってしまって、それの蓋を閉めるともう大変。数年間は沈黙の世界を作ってしまう。これがいけないのです。何かちょっとこちらに避けておこうとすると、永遠の待避所になって、数年後には全部廃棄となることが分かっていながら空間を占拠する。箱だけでなくともルールも似たようなところがあります。まぁ、時代に即して変化させる勇気があれば問題ないのですが、それがなかなかままならない。

見えないところに見たくないものを収めてしまう。余程、気を付けていないとついうっかりになる。うっかりが数年の無駄を生む。だから丁寧に考えることが必要なのだが、なっかなかそれが出来ない。人間の限界なのかもしれないけれど、後になって捨てるものが国だったりすることの無いように、じっくり考えたいですな。