たられば

人は勝手な生き物で、特に自己防衛の為には脳内に仮想物語を作り上げて、真実と思い込んで他者排斥に出る。墜落したら火の海になるから飛行機は頭の上を飛ぶなという。もっともらしいのだけれども「たら」を使ってしまうとなんでも悪くなる。電気は大量に必要だけれど、地球温暖化は嫌だし、だから原子力を推進するけれど、都会は人が沢山居て、事故があっ「たら」大変だから、地方に作れというのと同様だろう。

もっともだし、もっともらしいから全面的に反対では無いのだ。狭い国土において貴重な農地がいきなり工場や倉庫が立ち並ぶ工業団地に変身する様を見ると、こんなことをやってい「たら」食料自給率が益々下がるとかね。確かに自分で言っています。ひょっとするとその工場は最新の植物工場で、その土地から生み出される有機的に優れた水を使いたいからそこに建ったのかもしれないのにね。

夢の中で夢を見ている自分が居て、何度起きても真に起きていない。そんな状態が何日も続いていると、ひょっとして今こうして戯言を書いている自分も夢なのではないかと思ってしまう。しかし、もしそうであっ「たら」寝ている間に会議をして結論に到達し、何事かが進み始め、新しい出来事にであっているのだが、本当に起きたら何にも出来ていないという事になると、それは空しいことであると悩んでしまう。それはかなり嫌だ。

人がやることは危ないから、もしも事故が起こっ「たら」大変なのでやめろという。ご尤もな理屈なのだが、牛のげっぷが地球温暖化を加速させるから牛を食べるなというのに似ていると感じている。飛行機の部品が落ち「たら」危ないから飛ばすなという。部品が落ちない飛行機を作らねばならない。工学は未だに信用されるところにまで至っていないというだけだ。人々の「たら」から生まれるのは工学人の反省である。そして頑張りである。それだけだ。