出張に想う

旅芸人程では無いにせよ、動き回っておりますな。まぁ、お仕事ですから当然の事なのですが、移り行く季節を車窓から感じる、そんな一時を味わうなんて旅をちょっとはしてみたいと思うようにはなってきましたな。人生も残り少なくなってきて、どれだけの事が出来るのかさっぱりわかりませんが、オーバーレブしているのは感じます。そんな毎日ですよ。

最近の大学は8月、9月が講義はお休みで、まだ半分が過ぎたところではありますが、小中高校生は既に夏休み明け。まだまだじめじめ暑い中、もっとゆっくりさせてあげれば良いのにと思ったりします。最近では夏休みは嫌いだという小学生が増えているそうで、家に居るとつまらないということなんだそうですが、小生のガキンチョの頃とは随分と変わった世界になってきたのだなと、ちょっと残念だったりします。野山に行って遊びまくれと言いたい。

昨日のHP電卓ではないですが、モノの良さというか、品格というか、そんなモノの質感を感じ取ることが出来るためには、自然の美しさに感動できるセンス、人の丁寧な仕事に敬意を表することが出来る気持ちの醸成が必須であり、それはゲームいじりでは身に付かないものだと思っています。古い人間ですからね。

AIがどんどん進化して、社会生活の中におけるジャッジを任せることが出来るようになってきたら、いや、既にそうなっているのかもしれないけれど、古い人間ですけどねなんて考え方は許されないというか、社会悪の元凶になっちゃうんでしょうね。そうなった時に何をさせて頂けるのだろうかと悩むことは悩むのですが、その時でもはっぱり丁寧にじっくりとモノを創って人と繋がりたいと、心の何処かで思っているんですよ。様々な出会いに納得はあったのか?そう悩み続ける4日出張があった今週の私であります。

HP電卓

逆ポーランド法電卓として親しまれているHP電卓。と、言ってみても恐らくだぁれも知らないかも・・小生が田町の高校生だった頃、生協で10万円もしたウルトラ高価な電卓で憧れの的でしたよ。ガシガシしたキータッチというか、ぼきっ、ばきって感じで、プログラミングも出来るというか、それが売りの機械だったと思います。大学に入って欲しかったけれど、余りにも高価すぎて、計算尺とカシオ計算機の組み合わせで生きておりましたな。クロックアップしたりなんかして、まぁ、そんな時代でした。

最近は携帯のアプリでHP48のエミュレーションツールを使わせて頂くことが多いのですが、引き出しにはHP50電卓が控えていてくれています。エクセルシートで数値を入力して関数処理というのも便利ではあるのですが、何となくというか、もう数十年付き合ってきているのでHP電卓の結果を信じて、それと合致したらエクセル演算も信じるようにしています。

原子核同士の衝突距離を求めるとか、まぁ、普通の人は決してやらない計算を普通にする人なので(最近はやらないけど・・)HP電卓はとてもというか、絶対的標準なんですよ、小生にとっては。そんな信じられる友達というか、相棒というか、これ無しでは生きられないみたいな電卓で、そんな商品開発が出来たら素晴らしいなと思う原器でもあります。

ガマの油売り大学の研究室に一台置かれていて、流石大学の研究室だなと、とても嬉しかったことを思い出します。1974年にプログラミング電卓を世界で最初に手掛けたHP社でありますが、未だに電卓を作り続けているという、世界の電卓戦争の覇者と言っても良いかも。今、どれだけ世の中に販売されているのかわからないですが、電卓というアナログチックで手の中に納まる優れた機械を創り出す企業にはこれからも頑張ってほしいなと思う次第です。質感を電卓に求めるのはどうかと思いますが、品格を感じる機械はやる気を出させてくれると、そんなものづくりを小生もしたいなと意識させてくれる、そんな逸品ですな。

食料自給率

農林水産省が食料自給率を公開している。お上のホームページなんだから本当なのだろうと信じるしかない。所謂客観データであると信じるべきであろう。戯言とは大違いだ。それによると、昨年度のそれは、天候不順で小麦と大豆の国内生産量が減少し、カロリーベースで37%となっている。1人1日当たり国産供給熱量(912kcal)/1人1日当たり供給熱量(2,443kcal)=37%ということだ。

一人が一日辺りで2443kcal分働いていることになるそうだという定量的な数値で割り出されているところも面白いなと感じる次第。椅子に座って会議に出て、それだけの生産をさせて頂いているかは疑問だが、国民としてはそれだけ活動しないといけませんよと言われているようでやや辛い。まぁ、それはほったらかしておくとして、明確な数値が出されている中において、米不足で急遽輸入して補った年並みの食料自給率なのである。

日本の国は戦闘機などは喜んで購入しているわけだが、国民を本当に救ってくれるのは食料である。サンマも不漁が続いているようだが、食料自給率は低いけど、諸外国から買えれば良いと思っているのでしょうね。農業産品輸出が盛んな国々が、温暖化の影響を受けて不作が続くようになっても、快く他国へ輸出してくれると安心しきっているところが恐ろしい。

身の回りでリタイアされたかた、あるいは、若くして農業に従事される方が増えてきている。株式会社的農業従事と、未耕農地を借りて趣味の延長で作物を生産されていらっしゃる方々であるが、郊外を自動車で走っていると、農地がどんどん宅地化していく様に背筋が寒くなる。食料自給率向上という政策を掲げる政治団体も居ないこの国に、本当に未来はあるのだろうか。

ハーメルンの笛吹き男に思う

グリム童話でおなじみのハーメルンの笛吹き男のお話は、世相を反映していて実に興味深いと感じている。あくまでも小生はそう感じているということで客観的に何かを語ろうという事では無い。童話のお話は「お金を上げるからネズミを退治してくれ」という町民からの依頼でそれを請け負った笛吹き男が、笛を吹いてネズミを溺死させたのに、町民は笛を吹いただけではないかという言い掛かりを付けて、対価を支払わなかった。それで笛吹き男は130人の子供を連れ去ったというお話だ。

1284年6月26日に生じた、人口2000人の城壁都市から130人の子供が一夜にして消滅するのだ。明らかになっているのはこの事だけであって、子供達の消息は不明ということになっている。具体的な資料としては事実のあった日から100年後に口伝を書面化したものだけである。ねずみのお話は全くなく、城壁外からやってきた男子が笛を吹きならして子供を連れ去ったという記載が残っている。

丁度、ヨーロッパでは飢饉や疫病による大量死の時期と重なるので、様々な憶測が飛んでいるわけだが、子供達がその後どうなったとか、何よりも何故そんなことが起こったのか全く不明のままであるが、事実は子供が130人いなくなったという事と、今でもハーメルンの街には音楽等禁止の通りがあるくらいだから、笛吹き男は居たのかもしれない。

何が言いたいかというと、情報が正確に伝わっていかないと、社会に不信感を持たれるなということである。組織として何処に向かっているとか、事実として何が発生したとか言う事を議事録をしっかり残し、つまびらかにしていく今の機構の推進会議のやり方を堕落させては決してならないということだ。どんどん改革を進めなければならない。「報連相」がおろそかにならないようにと思った、ハーメルンの笛吹き男であった。

生涯スポーツ

100歳現役人生と叫ばれているわけだが、その根底には精神と肉体が健康で健全な状態にあることであろう。ドライブレコーダの普及であおり運転が注目されているが、あおり人生を食らっているようでなんだか厳しい。一つのミッションをこなすと、確実に厳しいミッションが襲ってくる。ミッションのドミノ倒し、あおられ続けてどこまで耐えることが出来るのか?

食は勿論だが、体を動かすことの大切さを体育講義で毎年認識する。生涯学習とか、生涯スポーツとか言われるわけだが、昼間に行われる講義で練習場に出向くと、昼日中にご高齢の方々が力みのないスイングで真直ぐにボールを飛ばすその技量に驚くと共に、その健康振りに感心する。運動時だけではなく、食事の際の笑顔に感動するのだ。

工学者である以上、常に発展的思考をし、新たな発想に至ることが求められるわけだが、その為にはスポーツはとても優れていると感じる。企画、立案、実践、評価の繰り返しは、正にスポーツ競技の中では定常的に行われることであって、体験学習としてこの上ないものである。

友人達と助け合いながら競技を続けていくうちに、自らの頑張りがチームそのものの強みになっていることに気付き、それを喜びと感じ始めることに触れられることは、コーチとしてこの上ない喜びの瞬間である。マナーやエチケットという生活環境の中で必須の事柄も、自然と理解し納得していく様は、教育者として存外の喜びであった。メンバー諸君に感謝である。

異界は何処に?

子供の頃に周囲の者から所謂異界の話を聞かされ脅された者は、生涯、その恐怖を抱き続けるのだという。侍は5歳まで、決して異界の話を聞かさなかったそうだ。侍ほどの者であっても、いや、だからこそ、異界は恐れるべき世界であったのであろう。刀で切れないその相手は、あってはならないものであろう。

人知の及ばないことは、人の手によって発生することは無い。もしも何かわからないことが生じることがあるとすれば、それは単に理解出来ていない出来事なだけであって、異界の仕業であることは無い。だから努力によって解決される。これは人の世の在り方である。

競争を強制され、戦いを強いられ、人の気持ちが獣化していくと、それは異界の生き物になっていくということなのかもしれない。組織が大きくなればなるほど、組織的戦いを強いられる。疲れ果て、人の心が薄れていくと、もうそこには乾いた異界の者のやりとりだけが残る。

どんな状況に追い込まれても、そうはならない人も居る。この人がどのようにして構築されてきたのかそれは謎であるが、それも人が相手だから成せる業である。魔物は怖い。しかし、異界は無い。あるのは人の世の魔物である。浮世の鬼である。退治するべきは人ではない、人の心の鬼である。組織が鬼を作り人がそれを退治する。なんとも恐ろしい世の中だなと、出来損ないであっても人でありたいものだと心底思う、私であります。

人間ドック

病院というところは、人の魂と肉体が分離する確率が、どっかそこらの喫茶店に比べたら格段に高いところだ。生きている人達の集まりでは何とも感じないが、亡くなってしまった、例えば親であったとしても、何かしら異なる世界の人なのだなと感じてしまう。縄文時代の世界観は忘れてしまったので魂の輪廻を信じることは無いのだが、感じることはある。

誰でもあるとは思うのですが、デジャブ―というか、これって何処かで体験したのではと感じることってないですか?病院においてそれがしばしば起こる。起こると言ってもそうそう病院などには出掛けないから、滅多に感じることは出来ない。病院に向かっているときから、何故かそこを歩いている、無意識に病院に近づいている。更衣室で一人で着替えていると、必ず誰かがそこに居る気配を受ける。

廊下を歩いている時など、必ず誰かが隣に居る空気を感じる。波動となって現れる。病院などには行くものでは無い、そこから出た時の安堵感たるや半端ない。病院は小生には似合わない。似合わないが、この年齢になると、人間ドックなる強制収容所にも似たところに年に一度は通わねばならぬ。通うと謎の目線に出会う。

結局は自分の気持ちの持ちようであるから、何があるわけでは無い。何かあるとしたら、それは命がもたらすモノだろう。命が亡くなった肉体に、何か、異様さを感じてしまうのは、既に気持ちが通じなくなっているその状態故であろう。人同士であれば恐らく気持ちは通じるのだろう。そんなことを想いながら、今年も健康診断の追試で病院に出掛ける羽目になった。段々、あちらの世界に呼ばれている。そんな気がした。

夢一夜

丁度、この頃である。何故か、同じ、そう、全く同じ夢を見る。どれくらい同じかと言えば、はっきり「誰がどこから何を言ったか、そして受け答える側が、きっちり判断出来、会話が出来る程に、同じ夢だ。同じというか、それこそ、本当に同じ夢なのである。

それは、これから進む側に地獄があって、そこに入るかどうか、判断のゲートの出来事である。小生の亡くなった、そして、それは生まれる前であったから、会ったことは無く、本来であれば誰かは判らない筈であるが、それは長兄であることは間違いない。

地獄の門で裁きを待っていると、その方が「こちらに並べ」と言う。あっ、今年もその列だと思った時には、その方の指示に従って、その年々の列に並ぶ。すると鬼が小生をつまみ、天に放り投げ目が覚める。

もしもそうでは無い列に並んだとするとどうなるのやら。それは全く分からないが、ある日時まで、きちっと毎年、同じ日に見てきた夢?である。ところが最近、見なくなった。突然、癌だの、失明だのと医者が喚く。成る程、天命には逆らえないということだな。逆らわないが、もう一度、あの夢を見させて下さるのであれば申し上げたい。有難うございますと。

病院にて

終戦後、復員されていらっしゃた方々が、山里にも漸う戻って来られたころ、その人は川べりの病院に詰めていた。横須賀など、著名な港の近郷の方々ですら、陸に上がった瞬間に命を落とす時代である。港から200㎞以上離れた土地では、生き延びる術もない。

賢明な看病のお陰か、とある方は、包帯も一つ、二つと取れ、家族の方もその度に笑顔になり、その病棟から脱する日は、いつかないつかなと日増しに笑顔が増していく。それは幸せな時であった。

山奥の病院は、小生の知る限りでは川べりに建つ。それも冬は病院よりも大きな氷柱が出来るような、そんなところに建つ。小生もその病院に小学生の頃に祖母が骨折で入院したので通ったのだが、複雑に入り組んだ、そして、何故か空恐ろしい空気に満ちた病院であった。そこで聞いたお話だ。復員された方は、いよいよ、退院の日を明日に迎え、家族、親族どころか、村総出で祝福の日となった。

その夜、宿直の看護師殿が見た姿である。復員された方が、見回りの時、寝台にいらっしゃらない。看護師殿はおやっと思い、水飲み場、厠等を見回られたそうだ。どうも胸騒ぎがして安置室に行ってみると、何やら音がする。行燈を持ち扉を開けると、あの世に旅立たれた方の腑を食し「お前は見たな」と・・次の朝、復員された方は腐敗していらっしゃったという。祖母が若かりし頃の想い出にしては、語り掛ける目じりが怖かった、そんな夏のお話である。

輝く程に真っ白な、そう、『白』とは穢れ無き輝きを持った、尊い次元である。何物にも代えがたい、そう、絶対的な素晴らしさだ。その人は『真っ白』な猫を身近に置き、常に語り掛けていた。

とある時に、それを好ましく思わない、いや、とある理由の為にはそれが最善の行動であったのかもしれないが、好ましく思わなかった人は、それを遠く、二度と見つからないところに追いやった。追いやられた人はそれを追い求め彷徨ったが、決して見つからなかった。それは昭和32年の事である。

ある夜、縁側で啼く、その猫を見た。その人はゾクッとなり、扉を閉ざしたまま、ごめんなさいと手を合わせた。とある家の長男を身ごもった時、その義母は、子供を引っ掻くからと真っ白なその猫を遥か家の外に出した。泣き叫び探したが戻ってこなかった。が、その子が天に召された夜、縁側にその猫は返ってきた。その人は、扉を開けられなかったという。

時が20年過ぎ、家の西に建つ工場を眺めていた小生の目の前に、真白き猫が、金網を縫って、膝にやってきた。尋常ではない姿であった。その人はそれを受け入れ、爾来、数十年、そこに居た。ある日、筑波から戻ると、玄関に真白き猫は脛に寄り添い、そしてその後、天に召された。忘れるはずもないが、語るつもりもない。事実だけがそこにある。そんなもんだ。