新年に向けて

残念な事に時間の進み具合を感じられるほど敏感ではない。今年の更新は今日で最後である。今年も戯言にお付き合いを頂き、感謝申し上げる。その昔の名古屋携帯PC研究会幹事長の戯言程の能天気では無いが、時々はそれらしい自分に出会えて喜んでいる。機構を共に立ち上げて2年目。誰が欠けてもなしえなかった機構である。感謝申し上げる。

当たり前の事だが万全などというものはない。2018年12月27日現在においてすら悪意は存在する。まぁ、いつの世にもそれはありますからね。笑いがこみあげてくる。それが尽き果てるのは、人間の世が終わった後かもしれない。尊い努力はその人によりけりだ。共通しているのは時間の長さだ。先に生まれればそれだけの事が出来るのであろう。

まぁ、そんなことはどうでもよくて、何しろ戯言だからね、一歩一歩前進しながら、しかし、後退もしていく自らと毎日どう折り合いをつけるのか悩んでいることだ。昨日、本年最後の本社詣でをさせて頂いてきたわけだが、我が国の置かれた状況のぎりぎり具合に息をのむ。誰かの足を引っ張って自らのポジションを得ようという石器時代のプロセスは要らない。

絶対は無い。あってはならない。これが面白いのだ。今年もそうであった。与えられた場で他人の足を引っ張る文化と、タンポポのそよ風に乗る綿毛の如くだが人跡未踏の土地で根を張る挑戦を試みる人の輝きとの違いをまざまざと教えて下さった、産学官金連携機構の諸氏に心より感謝申し上げる。新年はもっともっと厳しい情勢が待ち受けている。それではごきげんよう。

餅搗き

来年の干支は猪だ。トンコレラで世間を賑わせてしまっているが、野生動物が野生の病に掛かって死んでしまうことは、極めて自然のことであって、それを家畜に伝染するからと、得失でしか語れない人間の浅ましさよ。目に見えない細菌に一喜一憂するなどおこがましい。人間は神では無いのだ。自然を恐れ敬い、命を授かったことに感謝こそすれ、自然を抑え込もうなどとはおこがましい。

だからこそ、年の初めの歳神様にお越し頂くことを祈り、餅を搗くのだ。五穀豊穣に感謝し、また授かったお米を皆の力で一つに搗きあげることこそ平和の象徴であり、神様が創られた大地に感謝する。それが餅搗きであり、無病を感謝する象徴である。その餅搗きを皆で実施させて頂けたことに心より感謝させて頂く処である。

それにしても楽しかったですな。皆の一体感の素晴らしさ。楽しむ気持ちが、前向きの原動力である。感激いたしました。一臼2kgだったそうで、一升餅よりも大きなお餅が搗き上がっていく様は、皆の期待でいっぱいのようで、見ていてこんなに楽しいことがあるかなと、大いに愉快でありました。

こうなると定例でいかないと、縁起が悪いとなってしまいそうで、来年も、どうぞ皆様、よろしくお願い致します。

平成の天皇誕生日

天皇誕生日を国民として受け入れ、加えて御譲位前年の陛下の歩まれた歴史に感じる国民一人である。政府は戦争まっしぐら。これはアンチ憲法の姿勢である。己惚れ帝国などと間違ったベクトルを国が悲しい歴史として持って、そして二度と歩むまいと誓った憲法を破壊することを推進する我が国の在り方やいかん。

諸近隣諸国の内政干渉が臨界点を超えている今、天下国家を支えるのは教育である。揺らいではならない。しかし、国家の借金を増やすことのみを選択ずる国民によって、教育の短視眼化は加速するのみである。教育者は要らない、大学は不要。これは我ら当事者は首を垂れて反省せねばならぬ。国民は大学人を誰も認めていない。税金を教育に投じては国立大学教員が無駄遣いするのみだと仰る。

某、企業が仰る。我が国の国立大学法人のシラバスをご覧になって、採用出来ないと。アジア諸国は遥か彼方に、届かない教育レベルに行ってしまった。それが我が国の状況である。空母を持って喜ぶレベルの国である。国立大学法人を無くすのではなく、教育の質を上げる為の大学という位置付けにするべきなのだ。

平成天皇陛下のお言葉をテレビで頂戴させて頂く程に、国民の一体感こそ我が国発展の唯一の道と納得する。天下とは教育である。教育は国のまほろば。教うるは学の半ば。教育に携わる者は命を掛けねばならぬ。威張りたいだけの馬鹿者はいらぬ。本人には見えないだろう。それが国民を滅ぼす。同類相哀れむ。気をつけねば。

捕鯨のこと

国際捕鯨委員会から脱退してどうするんだろうと、この国はどこに向かうのか?我儘勝手な孤児の末路は見えているような気がするのだ。

政治家は票のために何でもする人達なのだけれど、捕鯨は小魚の群れを保護するためとか、大義が必要なのだが、それが全く見えてこない。次の選挙で勝ちたいからと言う、身勝手さしか感じない。

小学生の頃は鯨の竜田揚げだとか、肝油だとか、栄養獲得の切り札みたいな鯨だったが、今は、その役割は無くなっていると思うむしろ贅沢品だろう。

感傷的に捕鯨反対などと言う気はさらさらない。人間は生きているだけで罪なのだから。他の生命を奪わないと生きていけないのだ。人類の歴史は殺戮の積み重ねなのだが、無駄な殺傷はしてはならない。当たり前の事だ。

民主主義?

格差2倍は許容範囲と判事は言う。サッカーで22人対11人は許されるのだ。これが日本なのだ。平等と、何かにつけて叫ぶのだが、所詮はこんな民族だったのだなと情けなくなる。

美国などは、常に選挙区は変わり、1.01とか、1.0倍であってもしも二桁以下で選挙の公平さは問題視される。それが日本では二倍は許容範囲なのだそうだ。この野蛮な民主主義には反吐がでる。

200対100の選挙があったとすると、100側が勝ちと言っても良いと言う、これは凄まじい事だが、東大出のエリート判事殿達は、これが日本のルールなのだと公言する。

でかい声が全てを支配するように、裁判までが見た目に不公平が成り立つ国で、正義は何も無かろう。22人がフィールドに出ていても日本ではルール以内だ。オリンピックでやる気だろうか。恥の文化の無い国なのだなと吐き気がする。

タバコ

来年7月から、国は学校などは禁煙とするらしい。らしいが、大学などはどうなるのだろう。喫煙所の存在は認められるらしいので今となんら変わらないのだろうなとは思うのだが、やっとそんな日がきたのだなって、そんな実感です。

嗜好品なので、存在している限り否定はしませんが、医学的に問題視されているものが、学校という場で容認されている点においてどうなのだろうという意識はあった。受動喫煙者としてはやっとこさっとこだなぁというところだ。

趣味に貴賤があるはずはなく、嗜好においても同様なのだが、ミクロ粒子が漂っている空気は苦手なのだ。ミクロな粒子が気圏を覆い、肺を包み込む様子を想像してしまうと、これはもう逃げだすしかないのだ。逃げ出せれば良いが、物質は無くならない。地球上において逃げ出すところはない。

ミクロ粒子が存在していない空間は存在しない。存在しないのだが、積極的に増やすのはどうかと思う。歩行喫煙などは火災の元凶でもある。嗜好品なのだが、嫌だと感じる人もいる。どうなのでしょうね。

平成は終わるが

学生さん達は誰も知らない高度経済成長。バブルだなんて言ったって、中国経済ですかと突っ込まれる。お仕事には検証が必要であって、それをせずに自らが正しかったから事がなされたと、自らの正当化は止めて頂きたい。チームの怒涛の寄り身が必要であって、私だけが何かをできるなどという表現は全くいらない。

今、これが出来る。それは意味深い。それよりも今、まだやってこない明日においてこれを成し遂げたいという勇気が必要である。人を出し抜き、足を引っ張り、己惚れる社会は受け入れられない。だから笑顔が必要なのだ。何故笑顔なのだと聞く人がいるからこんな戯言をほざく必要が出てくる。面白いものだ。

多様性?当たり前の話だ。男女共同参画?当然以外のなにものでもないのだが、御旗を立てて進むことが正しいらしい。無意識に行われることが当たり前のことなのに、敢えてそれを謡わないといけない世の中らしい。小生は実体験したことのない昭和までの御代の思想の生き残りか。

太平洋岸なのに冬に天気が悪い。悪いが今のところべらぼうに寒いと感じる日は少ないと思う。本格的温暖化であって、お出掛け三昧の小生にすればとてもありがたい。寒さを受け入れる力がどんどん落ちている気がする。こんな時こそ足元をすくわれないように気をつけねばならぬ。頑張ろう。

笑顔で

いよいよ残りは2週間余り。毎年年末のハードさが増してきている。そんな時にこそ笑顔である。笑う門には福来るである。本当かどうかはわからない。そもそも福は来るのを待っているものではない。自ら獲得しに行くものである。時間が無いとは、やりたいことが出来ないじょうたいのことなのだが、やらねばならないことをやりたいことと思ってしまえば良い。あなたにしか出来ないスパイスを添えていけば、貴方無しではなし得ないお仕事になっていく。するとそれはやりたいことになっていくでしょ?

やりたくないもののナンバーワンが講演である。大嫌いである。大嫌いだが機会を沢山頂ける。これは喜ぶべき事なのであろう。自分色のスパイスを利かせ過ぎて呆れられることばかりである。分ってはいるのだがついやり過ぎのプレゼンになってしまう。今週は5件のプレゼンがある。こうなってくると勢いで進んでいくしかない。気が付けば週末の冬至になっていることだろう。

寒さは深まっていくのだが太陽は日本に迫ってくる。幸せの根源は太陽であろう。誰もが太陽の恩恵を平等に受ける。受けることを拒むのは勝手である。そんな勿体ないことはせずに、太陽と戯れる時間を持ちたいものだ。ところが大抵のプレゼンは暗い部屋で行われるものだから、結局のところ太陽とは縁のない生活になる。不健康極まりない。

大掃除をスタートしているが、一か所一か所が奇麗になっていくのはとても楽しい。守って頂いて有難うございますという気持ちを込めてはいるのだが、お掃除とはなかなか難しいものだ。汚れだけを奇麗に取り去る事は化学的に不可能な場合もある。風合いと言ってしまうのが良い。人間もそんなものさと苦笑いする私であります。

教壇と言う名の断崖

教壇に立って想う。恐怖である。人より20cmも高いところに立たされて、口から出たことが正しいことが前提で、300もの目玉に見つめられ、こんな人生を歩むはずではなかったと心底後悔をしても始まらない。人生の後悔と、人生は航海だぁ・・なぁんてちょっと似ているかもしれないなと思ったりもする。漂流しつくして座礁するのがおちだが、粉砕沈没よりはましか。

小学校入学時の先生を忘れない。全くもって心に刻んでいる。石に刻むより、エジプトのモニュメントよりも明確に、心に刻み込んでいる。依怙贔屓で不公平、気に入らなければ徹底排除。名工大のビデオでいけば間違いなくハラスメントと言うやつだ。小学校1年生にハラスメントも何も無いと思うかもしれないが、小生が思う「先生像」はあの人なのだ。

好まなくてもなってしまった教員である。教壇に立たせて頂く以上、その準備は凄まじい。誰も知らない知られてはいけない予習時の小生の姿・・ローソクを鉢巻きに挟み込み五寸釘を教科書に打ち込む・・嘘八百だが、こんな事態になってしまった業を呪うのだ。自らの責任を問い詰める世代と、全てが貴方の責任だと訴える世代がクロスしているのだ。これこそ社会的ハラスメントではないか!

一年の終わりが近づくと、ふたご座流星群を山奥のテントから眺めるなんて情緒は許されず。まぁ、許す許されるなんてことは暢気な世界で、地上で嫌がらせをしている方のなんと可愛く幼いことよ。どんなに隠しても明確に見える。それと知らずにいじめをし続ける人が態度大きくなり続けるのだから恐ろしい。自らの無能を認知出来ない方に言いたい。刮目せよ。努力とは自らの小ささを知ることである。まぁ、無理かな?鉄槌は下されるだろう。

無灯火に思う

街灯の無い夜道を無灯火の自転車が驀進してくる。ちょっと避けると小生の後ろから灯火している自転車が飛び出し気味に出てきて、「ぎゃぁっ」と叫ぶ無灯火の方。幸い、クラッシュ音は無く、双方がご無事のご様子。無灯火自転車は凶器であるのだが、夜ごと出没する街の粗ぶれる者達。何故、他人を想わないのだと残念である。

ここのところ凄まじく締め切りものが増えてきている。そこに来て突然のあれくれ者が現れ、それは電話と言う凶器を使い時間泥棒となって現れる。また、謎のミッションを押し付けられた、まぁ、名工大のFD的にはハラスメントと言うのだろうが、学生君達にも時間を奪われる。小生のミッションとは遠いところで襲われると、ちょっとなぁと感じるのだ。

無灯火で進んでいるわけではないのだが、突然の飛び出しに巻き込まれている場合では無いのだ。諭吉殿ならどんな状況でもOKなわけだが、魔法使いではないからなんでもかんでもやっつけてくれというご依頼にはお応えしかねるのだ。生意気を言うようだがそんな状況である。

師走感満載である。師では無いが兎に角突っ走るだけである。こんな時にミスが発生しがちである。それはとても恐ろしい。一つ一つ、兎に角一つ一つ丁寧に、コツコツ進むのが肝要である。焦っても決して得たい成果はやってこない。走れば走る程、集中して風の音を聞くのが良い。それが生きるコツである。無灯火の凶器に出会ってそう思った。