令和元年戯言納め

明日の27日は、小生は「年休」を獲得している。従って、令和元年の出勤は今日までである。今年一年、お付き合いを頂いた方々全てに、心から御礼を申し上げる。連日、てんてこ舞っているうちに、年末がやってきてしまった。年休でも平気でお仕事を入れられる悪しき風習があるが、明日は何があっても職場に現れないので、明日に必要なものは今日の内に片づけてくださいね。

来年のことを言うと鬼が笑うわけだが、鬼に笑って頂けるのであれば、来年のことを大いに語るのが良いような気がする。とは言うものの、ご立派な信念などがあるわけでは無く、無病息災で居られればそれで良いかなと思う。大きな災害など無く、無事に一瞬一瞬を過ごせるような、そんな年であってくれれば良い。

大学にとっては学長が代わる大きな節目を迎える。文科省と大学の関係も益々厳しくなる。突然、運営費交付金はゼロねと言われた時、どのように対処するのか。リーダーは常に考え抜かねばならぬ。世界を見つめ自らを律する厳しさがリーダーには問われる。情に満ち溢れても、流されてはいけない。それが本当の情である。

日本にも5G通信網が活性化するのだろうか。世界で最も遅れた電子機器に囲まれた日本人が、世界から圧倒的に粗末な電脳空間に囚われていることに、オリンピック見物にやってくる諸外国の方々の目にどう映るのか。悪かろう安かろうがまかり通るこの国において、最先端のサービスや技術を享受出来るようになるのだろうか?そんな方向に向かい始める元年で、新年があって欲しい。そう願いながら今年の戯言の筆を置く。皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。1月6日から開店します。それまでごきげんよう!!

節目を正視すること

クリスマスはキリストのミサということで、とある宗派の皆様がキリストの降誕を祝する日であって、キリスト氏の誕生日と言うことではない。宗教ネタを突っ込むと恐ろしいことが起こるのでこの辺りにしておくのが良い。どんな理由があるにせよ、皆で集まって繋がりを強くする日に出来ればそれで良い。

地下鉄御器所駅周辺には多くのキリスト教教会が存在している。桜山駅で下車して、散歩がてら鶴舞大学に向かっていくと、こんなところにもあるという具合に、多くの教会に出会う。大学の直ぐ近くにもロシア正教会の教会がありますからね。

12月25日ということは、既に令和元年は残すところ1週間ということだ。時の速さに驚かされ、そして時を無駄に使ってしまったのではないかと後悔する。そんな日が、毎年の小生にとってのクリスマスである。

結局のところ、自分自身で事を進め、そして納得するしかないと思っている。全ての人にとって満足できる結果などある筈はない。しかし、それを目指さなければならない。節目の日として伝わってきたものは、敬意をもって接しなければならない。そう思う。

自然災害と正しく向き合う

台風29号が発生し、太平洋上を西に進んでいる。流石に、日本列島を目掛けて進んでくることは無さそうだが、それにしてもである。思い出してみると、今年は元日から台風1号のニュースがあった。観測史上最速だったのだが、通年で台風が発生する海洋状況になっているということだろう。

COP25の成果を見てみると、地球環境の急速な変化は、錯覚であるという印象を受ける。いや、そのように各国のリーダー達は考えているのではないか。確かに、学者諸氏でも人為的環境変動は不可能であって、環境問題など何処にも存在しないとしている者もいらっしゃる。海面の上昇で島が沈みかけているのを見ても、それは島の表面が風で飛ばされたからだという。

情報が様々に入り乱れると、何が正しくて、何が虚言かわからなくなる。エビデンスは何かと言われても、その根拠を支えるものは本当に正しいのかと問われて窮するようでは、誰も信じてくれない。科学的根拠の創造はそれ程に難しい。信頼するべき閾値を何処に設定するのか。

ただ、台風は発生していて、衛星からはその状況が見て取れる。それをマスコミの虚言だということも出来るのかもしれない。100年に1度の台風が明日来るかもしれない。だから土木工事の予算を大量につけて、いざと言う時のための自衛隊派遣のために大型予算を取り付ける。消費税の増税と共に、大企業の法人税をセットで下げる。結局、個人のタンス預金で国債の赤字を埋めるようになる。自然災害をどのように政府が扱うか。真剣に見つめなければならない。

先輩後輩

先輩が後輩を辞任に追い込む。先輩風は台風より甚大な被害を及ぼす。綺麗さっぱりということは無い。お互いが良い関わり合いである内は良い。しがらみからくるいやらしいお付き合いというものは無くしたい。そんな場面が沢山あると感じる。二代目政治家なんてその代表格ですからね。お世話になったから次に投票するなんていうのも、悪しき慣習だ。

職人さんが次世代を目指す若年者に、厳しく、暖かく指導して、引退と共にその座を譲る。譲られた側は、伝統を守りながら更に自らの味を加えていく。これはとても美しく、あるべき先輩後輩の連携と考える。そこには無意識の尊敬がある。先輩から見ても、苦しく厳しい道に挑戦しようとする者に向かう暖かい尊敬があり、跡取りからすれば畏敬の念がある。

頑張る後輩を追い込んで天下の内緒話を聞き出すとは。ただ、マスコミに釣られてこれだけつまみ食いをすると、先輩が悪いのではないのかということになるが、天下り先で後輩から情報が欲しいという将来の色気から、進んでやったのでは無いのかと勘繰ってしまう。

天網恢恢疎にして漏らさず。政治家がどんな判断を下すのか分からないが、大臣がそこに居るのだから、屋台骨の事務系の不正は自らの足元の火であって、それをどのように処置をするのか。焼け残りがくすぶるようではいけない。それにしても人と人との繋がりは時として厄介である。諸悪の根源は私物化にあると考える。ポストは自分のモノという低俗な思考が組織を崩壊させる。許さない。

輪廻は何のため?

もう令和元年は2週間も残っていない。あっという間にお正月が来て、そして新年会があったと思うと、次年度になる。恐ろしい勢いなのだが、この季節になると「その昔」は店頭にぶら下がっていた新巻鮭を思い出す。子孫を残すためだけに生まれた川を遡上し、そして命の伝承の後、体を横たえ死んでいくのだ。ヒグマなんかがやってきて、遡上の途中でお腹だけ食べられて死んでいくものも沢山居る。なんだか、他人事では無いのだ。

生き物だから何が極端に変わるわけでは無かろう。人間にとって隣近所との付き合いだけを考えていれば良かった時代から、地球規模での関係性を考えないと生きていけない時代に変化したことは、川に多くのダムを人間に勝手に作られて、命の伝承が困難になってしまった鮭となんとなく被る。人間は勝手に自分達で行ったことが、自分達に跳ね返ってきているだけだから自業自得だが、鮭などは他の生命体によって進路を阻害されているし、食されてもしまうという、悲惨な状況に置かれているのだ。

無事、命の伝承を成し遂げた後、腐敗してその場に生息するプランクトンを増やす。それが生まれてくる子供達の栄養になるのだ。死んでまでも子孫に繋いでいく。何と見事なバトンであろうか。人間社会の営みは、昨日を真っ向否定する程に進化が早い。じっと見つめていると、進化しているのは応用事例であって、根幹にある物理現象などがひっくり返っていることは容易には見つからない。突然、原子核はありませんでしたとか、電子は無かったのですとか言われたことは無い。要は研究者はそのレベルできちんとお仕事をしないと無用になりますよということだ。

塩辛い新巻鮭は、保存食としてスタートしたものだが、今では養殖技術を輸出したチリから一年中鮭がやってきて、保存する必要が日本においては無くなってしまい、伝統芸とも言える新巻鮭の生産量は減少する一途である。なんだか、日本酒にしろ新巻鮭にしろ、日本固有の技術がどんどんと失われていくような気がしている。自らの価値を見失うと、AI、ロボットに取って代わられる。それを加速するのも大学の仕事でもある。その加速感に飲み込まれないように走り続けねばならない。ほっとする瞬間も欲しいが、そうも言ってはいられない。恐ろしい世の中である。その真っただ中に居る。そう思う。

時代と共に

街中を見てみると、コンビニエンスストアが無くなったなと思うと、その跡地に出てくるのが薬局かマッサージ屋かクリーニング屋だ。近所にクリーニング屋さんが出来るのは便利なことであって、小生的には歓迎している。礼服など、今日着て、そのまま持ち込んで、何日までにお願いしますと、清潔になって戻ってきてくれるのは有難い。汗がしみ込んだ状態で吊るしておくのは、どうも気分が悪くなる。何の広告が打たれたわけでは無く、歩いていたら目の前に出来たので、内容が分かっているから活用できる店舗ということで、存在することがマーケティングになっている。

勿論、半径何キロメートルに何件の同業他社があって、利用者がどの程度居るかという見積りはしていた結果で店舗展開してくるのだろうから、まんまとその罠にはまるだけなのだが、以前より近いところに出店してくれればそれを活用することはやぶさかではないのだ。そして昨今のクリーニング屋さんは、衣類のクリーニング屋というだけではなく、洗濯機屋という側面が強いと感じる。日中、誰も居なくなるコインランドリーとは異なり、そこに人が居るという安心感は大きい。更にピザ屋さんが併設されていたりして、ご近所に登場した店舗は、小生が訪れる時には常に満員御礼状態である。

マッサージ屋さんは利用したことは無いのだが、小生の周りでも回数券を所持されていらっしゃる方を数多くお見受けすることから、一定年齢層においてはそれなりのユーザーがいらっしゃるのではないかと感じる。こんなものが流行るのかしらと危惧していたら、店舗が増える一方なので、年齢層のバランスをきちんと反映しているなと感心するのだ。機会を捉え利益を生んでいく。何時まで続くのか分からないが、それだけ整体師の方がいらっしゃるということなのかなと、ちょこっと不安になることはある。サービスを提供する側の量と質が重要であろう。

薬局に至っては、コンビニエンスストアに薬を置いてみましたという世界観であって、地方においては30年以上も前から、薬局展開は続いている。これなどもユーザーが増え続けているという表れであろう。規制緩和も大きかったとは思うが、なんでもかんでも販売している薬局に太刀打ちするのは容易ではない。これらの3店舗を見てみると、日本の電機メーカーが崩壊して、海外製品が席巻している日本市場と似ていると感じる。適当に揃っていますという店舗は、この時代において不要なのだ。オリジナリティを明確に打ち出せるかが鍵なのだ。明日の大学もコンビニエンスストアではいけないということだ。肝に銘じなければならない。

マーケティング

2019年初頭の調べで、日本人の「日本酒離れ」が深刻であると報告された。ワインなどはこの数年で3倍も増えたということなのだが、元が少なければ僅かの上昇で3倍となるわけだから、この辺りは数字マジックに騙されないようにしないといけない。日本酒に限らず、お酒は糖がアルコールに「菌類」によって作り出されて、それを人間が飲むものを指示しているわけで、喜んで飲んでいる人がそれだけ減ってきたということなのだろう。

単純に考えると、人口がピークから激減し、成人になる人の減少が加速しているのだから、そりゃぁ、酒の消費は減るでしょうよと思う。ただ、日本酒においては、1998年に113万キロリットルだったものが、2017年には53万キロリットルにまで落ち込んだそうだ。小生的には美味しい日本酒を頂けるお店を開拓し続けることが出来ているので、他人事になっているわけだが、市場とするとどうやらそうらしいのだ。

ケーキ屋さんも同様に減っているという事で、これなどはコンビニエンスストアのスゥイーツにその地位を奪われたことが最大の原因と分析されている。即ち、生産されているスゥイーツ量は殆ど変化が無いということなので、そうなると誰が「パイ」を奪ったのかという差し引き計算だけになるから話は早い。一方の日本酒においては、酒類の中でのパイの奪い合いだけでは無く、日本人の摂酒量が減ったからではないかしらと思うのだ。

健康ブームの中、尿酸値がどうのこうの、カロリーがどうのこうのというお話が出てくるとき、一番の悪者はお酒である。特に日本酒はハイカロリーという点において悪者扱いが続いている。人間ドックに行けば、壁に必ず張ってある「お酒は1合」までと。そんな指導が世の中にあるのだから、日本酒の売り上げは減るでしょう。一方で、ちゃんとマーケティングしているのかしらと感じることもある。旨い酒の味を宣伝することはマーケティングではない。誰に何処でどんな媒体を通じて紹介するかがマーケティングの基本だが、そんな宣伝を見たことが無い。大学も日本酒のようなマーケティングではいけない。それだけが言いたくて、ちょっと書いてみた。

計算機と人

高校生の時、数十万円というリンゴ計算機に触った。同じような価格のHP電卓が神様の機械みたいに見え、計算機と言えば、紙テープやカードを読み込んで何かの結果を出してくれる魔法の「建物」だった時代である。小型になって誰もが持ち歩けるサイズになったことは進化なのだろう。それでも「不調」は繰り返されるのだ。

テキストベースのWWW回線がガマの油売り地区に早期に張られ、数少ない資格を持った者が、海外の加速器研究施設と交信し、データ解析が双方で行えるようになった時、「全てものものがこうなるんだろうな」と朧気ながら思ったことを覚えている。FAXだのテレックスだの猛烈に高額な金額での海外とのやり取りが、瞬間に低料金で行えるようになったのを目の前で見た。

NECの売り手寡占状態がIBMの「DOSV」戦術によって破壊され、一般民間人が購入出来る製品に価格が下がった時、既に、その性能という点において、我が国はガラパゴス化していた。最大の問題点は、PCを扱うリテラシーが極一部の人達にしか無かったことだ。PCを使ったらこんなにいろいろなことが実現できるという思考回路を生み出す土壌が潰されていたことだ。NECの独占思想が日本人のPCリテラシーの貧困を生んだ。

まぁ、被害者意識はひがみ根性なだけなので置いておくが、ネットワークという必須の環境が極めて遅いことに苛立ちを感じるのだ。メンテナンスで止まるとか、遅くなるとか、それに対してまで発狂する人が居るが、小生はそれはやむを得ないと思っている。しかし、定常的に遅くなっていると話は別だ。そうなると予備機を立ち上げ、メインのリフレッシュ作業に入ることになる。なんだかDOSVの時代から変わらない儀式。Fdiskコマンドを使うわけでは無いが、まぁ、機械だから仕方がないと、嫌がらない自分に苦笑いしているところである。

耐性菌類

農薬を使っていると、その農薬に耐性を持つ虫や病原菌が生まれてきますと聞かされてきた。具体的な体験談を持たないので、TVなどでお話が出ても「あぁ、そうなのだな」くらいにしか響かない。情けないお話なのだが、事実らしいのだ。農薬は強固になり、耐性を打ち破る新たな薬物が出来、そしてそれに対して人間にとって害を及ぼすとしている細菌等は再び、耐性を持つ。勝ち負けの連鎖ですな。

国立感染症研究所によれば、既存の抗菌薬が効かない耐性大腸菌が増えつつあるのだという。それに感染すると、死亡率は30~70%なのだという。難病指定の病気と同様に、助かる確率の方が低くなる状況と考えると、敵もさるもの引っ掻くものだなぁと、妙に感心するのである。普段は腸の中だけにいらっしゃるらしく、その状態では悪さをしないのだそうだ。体力が落ちて血液に入り込むと、途端に自らの能力を発揮するそうな。

例えが微妙な気もするのだが、聴く耳を持たない諸氏が社会に増えているということに似ているなと感じているところである。何を言っても聴かない。完全無欠の馬耳東風の者が拡大していると実感している。そうかな?というレベルではない。今、語ったこと、ビジュアルに見せたことを、繰り返してごらんと言ってもやらない。出来ないのか?というレベルではない。敢えて拒絶するのだろう。

旧人類耐性人種とでも言うべきか。これと同じことが恐らく、歴史の中では繰り返されてきたのだと思う。そう感じたら後進に道を譲るべきなのだ。そこで耐えるのではない。人種の転換が発生したのだ。歯の食いしばりと血のにじみはもう流行らないのだ。誰かの為に身を粉にする。そう教わってきたのだが、それを求めていない社会において存在意義は無くなったなと、耐性菌拡大の記事を読んでそう思った。

3人寄れば・・

最近、ひょんなことから学術雑誌に投稿を依頼され、ごく限られた時間を積分して形にさせて頂いた。レフリー氏とのやり取りに四苦八苦するのはある意味快感で、自分を客観視させて頂く機会を頂戴したことに感謝するのだが、一方で、公務との両立の困難さを感じたのも事実である。公務か研究かと言われれば、立場において重きを置くべきは公務であって、研究ではない。しかしながら名誉職であった副学長職の時代では無く、両立は小生のような無能者には不可能で、二足のわらじは脱がねばならぬと叩きのめされた気分である。

3人寄れば学会と言っていたのは、学生時代の恩師であるが、要するに、世界初の学説を唱えたとしても、世界で広がる学術的繋がりを考えれば、同時にあと二人は同じ学説に到達するから、その学説がもしも人を引き付けるものであるならば、学会が出来るであろう。だから3人寄れば学会なのだと。誰が一等賞になるかという事ではなく、新奇なアイデアを説得力をもって学術誌に提示し、賛同者を得る行為は学者であれば当然の行為である。それが学術誌の競争力であり、その指標がインパクトファクターである。

進化が極めて速い分野によっては、国際会議論文のインパクトファクターが重要になる場合もある。若い科学者が日夜思考を重ね、それを議論する場はエキサイティングである。そんな時代もあったねと、自らを振り返る寂しさもあるわけだが、大学そのものが無くなってしまう恐怖に打ち勝つためには、懐かしんではいられない。

予告無しでやってくる「明日来い」の本社命令であるから、先取りして思考を進めておかねばならぬ。更には実行事実が無ければならぬ。同時並行で進めなければならない業務が多過ぎて、目こぼしも発生してしまう。それをIT技術でカバーしたいのだが、協力者の賛同が得られないと進まない。強権でどうなるものでもない。全ての構成員が正しく、また、意見が分かれる。学会は3人で出来るが、業務は全構成員の了解という思考で生き抜けるのか?理想はそうだがそれで良いのか?日々悩む私であります。