場を感じること

物理学で重要な概念に「場」がある。人類が常に平等に感じている場として重力場がある。その場においた質量mに作用する重力Fをmで割った値に等しい能力を有するところと定義される。要は何があろうがなかろうが存在する物理量である。同様に電子などの電荷に作用する力が働くならば、そこには電場が存在するという。電子顕微鏡というと面倒だが、ちょっと前まで存在していたブラウン管は、後ろ側から電子を電場で加速などして画像を表示していた。

土俵というものも場であろう。神様の前で日本一の力比べをする。負ければ命を失う。そんな場に立つ頂点の方であれば、一般民間人には及ばない品格が求められて然るべきだ。例え何があっても越えてはいけない一線を越えると、ごめんなさいでは済まなくなる。そんな場に立とうと思うこと自体が偉大だと思う。思うが、越えてはいけない一線を越えたのだから、その場から降りねばならぬ。その存在が無くなっても場は残る。いや、残して頂きたい。日本にとって土俵とは品格とは何かを国民に示してくれる場だからだ。

物理の世界ばっかりで恐縮ではあるのだが、電場のことを電界と呼ぶ人もいる。場も界も別の場所とは何かが違うのだと定義づける領域なんだけど、物理屋は電場で電気屋は電界と習わしになっている気がする。どっちも英語だとfieldなんだけど。土俵が相撲界のfieldなら政界ってどうなんでしょうね。その国の代表であるのだから国会なんてちっぽけなものではなくて、やはり日本全土、いや、今の時代、地球とその周辺くらいのものだと思う。政界は相当の横暴をやってのけても辞めたりしないから、国民が発する力が弱いのか、政界の人々の質量が巨大なのかどっちかだろう。

教育界などと呼ばれる世界もある。モンスターペアレントに蹂躙され、けっちょんけちょんの世界だが、社会を支える重要な役割を担う場であるはずだ。人として仁義礼智信の全てを格調高く身に付けた方がその場を形作る教壇と呼ばれるところに立つわけだが、小生などはまるでその資格が無い。無いと解っているので少なくとも修行に臨む心構えは持とうと思っている。その場を感じられなくなったら引退しなければならない。社会の出来事を見ていてそう感じる。

知の深化

気が付けば街路は黄色く染まり、見上げれば春を待つ新芽の時期になっていますね。寒かったり暑かったりで間もなく12月を迎える今日、皆さま、いかがお過ごしでしょうか。別に誰に話しかけているわけではないのだが、いかがお過ごしと言われても自分なりに過ごしていますとしか、小生自身も言えません。この、自分にしかできないということを思いっきり深化させるべきではないかというお話。

知の深化と探索。両方が必要で、社会に笑顔をと言ったって、自分自身で手も足も出ない領域で頑張ろうというのはほぼ不能だろう。中にはウルトラ器用な方がいらっしゃって、自分のメジャー以外でも片っ端からベテラン並みかそれ以上にこなしちゃう姿をお見掛けすることはありますが、まぁ、一般的にはそれは不可。だからこそ、まず、自らは何者かという深化が必要。

深化と言えば研究者の得意技と思われますが、大学というところは研究だけをすることを求められているわけでは無いので、自らのアイデアの深化という点において、雑音が極めて多い厳しい環境と感じます。バブルの前に知の探索との分業を企業と完全に成していた時代においては象牙の塔に籠ることができた時代。知の深化にはもってこいの環境であったことでしょう。「雪が降っているから、こんな寒い日には講義なんかやってられるか!」と教授が教室から出てっちゃったなんてことが普通にあった。

外界から遮断して知を深化させる時間のなんと短いことかと嘆くよりも、そうであればそれはひとまず置いておいて、探索に広げてみよう。これを可視化するツールがバリューブリッジであって、名工大はそれを生み出した環境という点においては、深化も探索も可能な環境なのかもしれない。これからの10年、20年、ミサイルが普通に飛んでくる時代であるから、何が起こるか分からないが、きっと人は知を深化させるために生命として存在しているのではと思う。その人達のお手伝いをさせて頂ければと、心底思う落ち葉の季節であります。

和を以て

子曰く君子は和して同ぜず小人は同じて和せず。和とは同じ方向を向く事では無い。協力し合って一つの方向に進むことである。その時、自らの力を自らなりに発揮していることが組織として最も重要なことである。和を以て貴しとなすと聖人は申されたが、単に仲良くなれと仰られたわけでは無い。皆で同じことを考えよう、実行しようなどと伝えている者がテレビの向こうにいらっしゃって驚いた。

聖人と言えば聖徳太子だが、教科書から消されるという。小生くらいの年齢であれば、一万円札と言えば聖徳太子であって、聖徳太子は居なかったといわれると、厩戸皇子まで架空の人物みたいになってしまっていて、週刊誌などでは、作られたイメージなどと書かれているから、日本人のいい加減さには呆れかえる。まぁ、皇族の家系図ほどいい加減なものは無いと言えばそうだが、武士よりはましだ。記録がある以上、いらっしゃったことで良いではないか。

法隆寺は言わずと知れた世界最古の木造建造物だが、釈迦三尊像など、劫火から免れ、厩戸皇子死後直ぐに創られた像が現世に繋がっていることは奇跡であって幸いなことである。光背に刻まれた碑文ですら、学者が偽物と面白がって叫ぶが、鋳造当時のものと現代科学的に解き明かしたとしてもそれを認めず偽物と叫ぶ姿こそ、偽者であろう。

大声に従うことを否とは言わない。しかし、自らの判断基準無く付き従うことは辞めたら如何か。和を以て貴しとなすを間違って捉える風潮は、AIの登場で益々恐ろしい方向に進んでいくのではと、今一度、温故知新。自らの文化を読み返し、真正日本人として歩んでみたい。昨日、勤続20周年式典に参加させて頂き、しみじみ感じた私であります。

続大掃除

宿舎の大掃除を展開している。年末一気には厳しいので、じわりじわり、進行している。掃除用ケミカルの進展目覚ましく、これは無理だろうなという人造大理石の油汚れまできれいさっぱり。手作りパスタも美味しくなりそうな、そんな気分にさせてくれる。まだまだ気になる箇所が多々あるが、スチーム洗浄機と併用して、かなりの部分が綺麗さっぱり。聖人にはなれないから心の中まですっきりとはいかないが、表から見えるところはなんとかしてみたいものだと、この年齢になって漸く思うようになってきた。

一般民間人はほぼ手を付けなかったり、あるいは一括したシステムなので手を付けられなかったりだが、その昔はPCは、定期的にFDISKでハードディスクを真っ新にして、システムインストールからやり直し、無駄なファイルを極限まで削って掃除していたものだ。何時の頃からか、CPUが大馬力になり、HDD容量も爆発的に増え、クラウドストレージなんかも出てきたし、そもそも、オープンファイルは保存という概念が無いから、PCの大掃除をしなくなっている。これは如何なものか?

出来るだけPCは持ち歩かないようにしている。万が一、そこに存在しているファイルを紛失したらどうしようかと不安になるからだ。国のお役所はかなり前から紙かクラウドなので、PCに入れようにも入れられない状況にあるが、それでも気が付くと、公の場で話をさせて頂いたファイルだけではなく、秘匿性のあるファイルがあったりして冷や汗をかく。このような状況を脱却するためには、やはり初期状態に戻すのが宜しい。宜しいのだが、近年では月齢パッチが多くあり、それを思うとよしておこうかなと逃げてしまう。これはいけない。

それこそ戯言の下書きファイルなどは綺麗さっぱり消えてくれた方が良いのだが、これはこれで何万行にもなるファイルとなってくると、消してしまうのが惜しくなる。こんな人間は消して断捨離が出来ない。実際のところ、なんとか頑張るのだが、本やレコードになるとパタッと手が止まる。死ぬまで掛かっても全部を聞くことは無いほどのレコードや読み切れない本に囲まれて馬鹿面をしているのが現状だ。大掃除は見えるところの水回り位が宜しい。後は気が向いた時に実行する。こう思っていると案外やるものだ。断捨離もじわじわやると頑張れるのかもしれない。まずは心の整理からだなと、年度末が迫ると思う私であります。

一杯の珈琲は?

一杯の珈琲から恋の花咲くこともあるとは随分と過ぎ去った日の唄だし、そもそもフルコーラスで聴いた記憶が無い。そもそも聴いたからと言って、恋の花咲く確率なんぞゼロに近かろう。とは言うものの、一杯の珈琲は心の時間をゆっくりにする働きはきっとあるのだと信じている。切羽詰まりまくった状態ではろくなことはない。やることなすことことごとく意に反し、その輪廻から抜け出せなくなる。抜け出したかったら珈琲をお飲みなさい。恋程甘くは無いけれど、不安の気持ちは少しは薄らぐこと間違いない。

温暖化による珈琲林の枯死などが昨年から多く報じられ、輸入生豆の価格が右肩上がりで上昇を続ける今、一杯の珈琲の有難味がとても大きく感じられる。旨味を超える有難味と、勝手に思っているのだが、マーケットに行くと、恐らく売れずに廃棄されてしまうのではなかろうかと危惧してしまうほどに、埃をかぶったインスタント珈琲やレギュラー珈琲が並ぶ。罰当たりな光景であり気分が悪くなる。捨てられる為に生まれてきたわけでは無かろうにと、同様に棚を埋め尽くす食品群に嫌気がさす。

喫茶店においても「何これ?」という謎の飲料に珈琲と勝手に名付け、暴利をむさぼる輩のなんと多い事か。加えて、珈琲を飲みに行った先でピーナツなどが出てくる状況は如何なものか。これはこれで良いのかもしれないが、釈然としない。長いお祈りの最中に眠気を飛ばすために、豆をかじったところからスタートした珈琲だが、眠気を飛ばすだけではなく、心地良さも獲得したいと思ったのは、自分自身、何故なのか判らない。判らないが、まぁ、そんなことが喫茶店のマスターになろうと思ったきっかけだ。

勝手に貯蓄される憂鬱という貯金を清算するには、一日、ぽかぁんと過ごすのが良い。山に逃げられないのであれば都会のジャングルでぽかぁんを作らないといけない。何も特別なことなどいらない。そこで珈琲を楽しむだけで良い。そんな一日を皆様に持って頂きたいと願う私であります。

浮世の鬼?

とっつきにくそうとか、恐そうとか、緊張感張り詰めた人生とか、様々仰って頂けますが、全部当たっていると言えばそうだし、真逆と言ってもそうだし。まぁ、時に応じた生命活動を行っているってことかな。誰でも自分が一番怖いんだけど、それを外から見ているというか、どんなに逆立ちしても踏ん張っても足元にも及ばない世界を見て体験してきたから、悲しむというか卑下するというかそんな気持ちの無駄さは骨身にしみている。怒っている雰囲気でも、それを演じているだけだから、そんな自分が恐ろしいと感じることは事実だ。

この季節、街路樹が一斉に色づいて、どさっと地面に彩を添える。なんと見事な出来事か。地球との対話で太陽と大地から頂いた栄養を、また、来年に送り届ける。無駄のない活動を人間はアスファルトでそれを阻む。自分に都合が良いから地面を人工的に被覆する。所詮、人間のやることだから表面は波打ち、雨の時には巨大な水溜まりを作り出し、悲惨な靴の中を演出する。同じ演出でもえらい違いだ。ビルを建てれば強風の街を演出し、働けばPM2.5を生み出し、命まで危うくする。人間とはなんと不思議な生命体であろうか。

かと言って、宗教家では決してない。それが証拠に、その昔(今もか?)クリスマス撲滅委員会なるものを立ち上げて、色気のない男子が集まって呑んだくれるという会合を開いていたりして。全国各地に御同輩が存在していることはパソコン通信で知ったのだが、今も昔も色気のない男子(もてないとも言う)は落ち込む先は同じ無色地獄だなぁと苦笑い。命の根源とか宇宙の広がりとか、そんなことには興味はあるんだけど、進化の過程の生命が今を語ってもね、しょうがないからね。

いきなり大勢の方々に鬼だの魔だのと言われたものだから、そんなこたぁないんだよと取り敢えず言い訳してみました。そりゃぁねぇ、年がら年中へらへらぽかぁんとしていたくてもなかなかねぇ、そんなわけにもいかないんですよ。お上から戻ってきたら憂鬱な顔しているときもあるらしいし、決断だってその先、確実に平穏無事ってことは無いからね。人それぞれ千差万別。1万の意見に行くときもあれば、一人の賛成も無い道だって選ばないといけない時もある。踏ん張ってますよそりゃぁ。まぁ、そんなことなので、お気楽にやってきてください。そんな私であります。

小春日和

旧暦10月4日。約、一ヶ月半のずれで、明治政府が閏月の分を払いたくなくて新暦にしたとかしないとか、高校生の時に日本史の授業でかじったが、正確なところは忘れてしまった。宿舎を出る5時半過ぎには既に東の空は黄色く染まり始めているが、見上げれば星空である。快晴の冷え込みは時間と共に軟化して、小春日和になりそうな、そんな朝である。

小春とは季節感あふれる日本らしさであり、こんな文化を大切にしたいものだと常日頃思っている。最近頂くカレンダーの殆どは旧暦との対比が掲載されていない。宿舎には天文カレンダーなるものが掛かっていて、これには月齢や旧暦の暦が掲載されていて、親と対話をしているようで、妙に懐かしい。旧暦がなんだというわけでは無いのだが、太陽暦は暑さ寒さを意識的に感じることがあって小生は好きである。暦が世界で統一されていることには納得するが、地域性を勘案した季節感は大切にされるべきだ。

小生、小学校・中学校は勿論のこと3学期制であったが、高等学校は分けあって2学期制であった。それが大学に入ったら、教育大学故に3学期制となり、就職したら2学期制に戻ってしまった。3学期制は細切れになって授業の進捗など、また、事務仕事などが極めて煩雑だが、学ぶ側に立っていた頃を思い出すと、季節ごとの休みにサイクリングや登山でどっかに行ったとすると、それはそれで季節を感じていた。その頃の写真などを恐る恐る見てみると、それなりに季節感があって楽しい。

一方で既に11月は20日を過ぎ、今年も残すところたったの40日である。つい先日、学長の年頭所感を拝見したと思ったら、いきなりお正月の秒読みだ。早めに大掃除も開始しているし、1月2日の駅伝見ながらの独り呑み会で頂くお酒の選定も始めねばならぬ。ならぬのだが、まだまだ大仕事が沢山残っているし、実は、国の学術審査等は今が正にお正月であって、これからいきなり加速し始める。小春日和は心の中の暖かさであって、身は寒風真っただ中の私であります。

わき道

T字路のわき道にそれてみる。山の中ではあまりやらない行為だが、都会では気になる路地にどんどん進んでみる。緩やかに曲がるその細い路地は、雰囲気よく、これは日常歩いてみたいと思える雰囲気の街並みと空気感を持っていた。早速、明治時代の地図と比較してみると、その時代から存在した、集落同士を繋ぐ道であり、成る程と思った。明治初期の通路は、大略、江戸時代から存在していて、田んぼでは無く、畑の中の道だから、小生にとっては伝説の御器所大根でも作っていたのかもしれない。そんなことを思うと愉快になる。

わき道にそれることを恐れているのでは、これは、常日頃の心構えがなっていないと感じる。常軌を逸脱してこそ人生だと小生は思う。勿論、勢いがあって、今、この道をまっしぐらに進むべき時は、わき道などに気が付かないから、それはそうでなければならない。正に今という時に、わき道などはほったらかして、ずんどこ先へ行くが良い。わき道の探査は遅れてきた者に取っておいてあげて欲しい。

思えばわき道ばっかりの人生であって、紆余曲折が多すぎて、どちらに向いて歩いているのかさっぱり分からない。あれやこれやと考えてもなるようにしかならなかったんだろうなと、あちらの世界が近づいてくるとそう思ったりする。しかし、いんちきは出来なかった不器用さで、救われてきたなとは思う。人が掛けた橋を一番に渡るようなことはしてこなかった。今に見ていろ俺だってなんて格好の良いことは思わない。凄いなぁと思うだけ。自分は他のわき道に入り込んで、迷っている間に何処かに出た。そんな人生だ。

明治24年の測量図に出会ったのは、名古屋に引っ越して間もないころに、名古屋市市政資料館にて行われた、名古屋の古地図展でであった。陸軍が精緻な地図を起こし、それが今も閲覧できるのは素晴らしい。鶴舞地区は古道がかなりその痕跡をたどることが出来て、むしろ、その古道を探して歩く楽しさを与えてくれる。わき道、大いに結構。迷子になったら探して差し上げるので、どんどん、わき道に進んで欲しい。わき道は現実である。そして自らが歩くことでそれが脳裏に刻まれて力になる。そしていつか、道の無いところに気が付いたら進んでいるだろう。これからもそうするつもりだ。

青画面

55歳を越える方ならご存じのPC青画面。Windows3.1の頃、いや、DOSの頃からPCが自主的に「仕事を辞めます」と潔く、それまでのこちらの努力をフイにしてくれる青画面だ。内部メモリの使い方がしょぼいソフトウエアを動かしていたり、なんだかキー入力がある定型的な状態になるとどかんとやってくる。こちらとしては何度も出会ってはいるものの、それがやってくると「今日は仕事辞めた」となって、酒屋さんが元気になる青画面だ。

近年、とんとお見掛けしなかったが、Windows10になって、宿舎でも職場でも出会うようになってしまった。ひょっとするとこの駄文を前にしていらっしゃる奇特な方の中にもWindows10で最近のアップデートで、懐かしの青画面に遭遇した方がいらっしゃるのではないか?ネットでサーチしてみるとWindows10は近年稀に見る不安定なOSであると顰蹙を買っている。う~ん、やっぱりかと思う。

その昔は、OSの進化にハードウエアが着いて行っていないで出てくるのが青画面みたいな言われ方をしていた。近年はハードウエアの進化はとてつもなく、ソフトウエア側に不満が多いのだが、そうこうしていたら青画面だ。メールとプレゼン資料作りが日課になっているのだが、「ごめんなさい、あれやこれや私が悪う御座いますまんねん」みたいに思いつく限りの謝罪をつらつらと頑張っているところで青画面が出てくると、怒る顧客(冗談だからね)の怨念が乗り移ったかの如く「青い」画面がやってくる。

以前は青画面が出てくるとマザーボードとHDD、CPUをバージョンアップして気分一新、お正月気分で仕事を再開したものだ。近年はほぼほぼノートPCでの作業になってしまっているのでいきなり買い替えというわけにはいかない。いかなくなるとおっかなびっくり、消えるかもしない恐怖と戦いながらの作業になる。バックアップモードで作業しているのだが、当然のことながら応答が鈍くなって思考が断絶する。口述筆記で記事を書かせて頂いたことがあるのだが、その安心感は絶大であった。結局のところ、AIだなんだ言っても信頼という点においては「本当に信頼できる者同士」を越える関係性は無いのではと、妙に安心している週末の私であります。

寒気

朝、突然の寒さである。昨日までは寒いと言えば寒いが、朝、さみぃなぁと感じたのはこの季節で初めてのような気がする。天気予報では12月中旬並の寒気が入り込んだということで、体感はあながち間違ってはいなかったなと、間隔ボケにはなっていないなと、ちょこっと安心である。しかし、急激な冷え込みは体力を奪うので、皆さま、御自愛くださいね。

1ヶ月程早くなったシベリア寒気の南下だが、これは正に温暖化の賜物で、いよいよ地球のバッファが尽きたなと感じる。海水が炭酸ガスを吸収し、海の底まで行き渡るまで数百年単位と言われる。ワットの蒸気機関以来、人類は機械の力を大地から燃料という形で頂き、炭酸ガスの形で返却してきた。受け取る側はせっせと海や大気にため込んできたが、いよいよ限界ということだろう。台風を発生させる海流が南に下ったなぁと思った途端の寒気の南下である。

そもそもシベリア寒気は北極寒気に押し出されて南下するわけだが、北極圏の寒気団は北極の広い範囲の分厚い氷が前提で渦を巻く。上空の強烈な寒気が降りても、氷がそれを温める能力が小さいし、加えて地球の自転の影響で渦を巻き、その渦が寒気を閉じ込めてくれていた。寒気を貯金していてくれていたのだが、その力が弱まって、寒気が極地から中途半端に噴き出してきて、シベリア寒気を日本に押しやってくる。早い寒気の南下は極地の暖化だし、寒気の貯金が早く無くなるから桜の開花も早くなる。

何かが変わるということは、何かのトリガが働いたということだ。言ってみれば、「おやっ」っという目立った兆候が無い真っ暗な世界であれば、そこには滅亡は無い。しかし、何かを変化させていかないと、先に変化したものに飲み込まれ滅亡がある。人も家も暗いうちは滅亡は無い。しかし、情報化で地上の隅々まで明るくなった今、暗いうちは良かったなと懐かしみ隠れる我が家は無い。今日も一歩出てみる。そんな気持ちになる今朝の寒さである。