子離れしない親

親離れしない子供は嫌いだが、子離れできない親はもっと嫌いだ。馴れ合って他の足を引っ張り、恫喝し、私見を押し付ける。封建社会の殿様のやり口である。こちらは封建社会人ではないから、まぁ、そこまで仰るならこちらの首を切り落として下さいと差し出すまでの事。私利私欲で動いてないからね。どうぞご勝手にと申し上げたい。

親離れしない子は、マーケットなどで見かけるし、小学校などでは、親と一緒でないと通学できないとか、そんな話はしょっちゅう聞く。幼少の頃に親の愛情が中途半端だとそのようになると専門家に聞いたことがある。まぁ、そうなのだろう。ところが、子離れできない親はどうしたものか。子の私物化と言う、この世で最も醜い姿ではないか。それでも人間か?驚かされる。

大人同士と思って議論を進め、一つの結論に到達したと思ったら、口角泡を飛ばし、恫喝しながら親が攻めてくる。ちょっと冷静におなりなさいな。こちらには聴き力があるのだから、理路整然と話をして頂ければ良い。良いのだが、そもそも、何であなたが出て来ちゃうのと、子の討論に親が喧嘩腰で攻めてくるみたいなもんだね。解決の糸口にもならない。

今年もいろいろあったのだけれど、余りにも強烈な出来事であったから、ちょっと戯言でも言おうかなと、そう思った次第である。どうも日本の国がおかしな方向に向かっている。対話が出来ない方が多くなってきたと感じる。上から怒鳴れば良くて、そんなのは気に入らないと駄々をこねれば良い。そんな風潮は嫌だな。万機公論に決すべしである。許しがたい。

DXの本質

デジタルトランスフォーメーション(DX)ってどんな世界なのかなと考えると、それは人間が作業をしない世界であろう。思考に特化して、その人にしか出来ない事を、その人の価値観で、他者に提供している状態と考える。決まりきったゴールに向かって何かを成している人はご退場と言う世界だ。IT技術が作業を駆逐してくれる。こんなに素晴らしい事はない。運転手殿が不足するから、凄まじい数の荷物の配送が滞ると先走った心配をするよりも、自動化してそうならないような世界構築の為には何が必要なのかを考えれば良い。

一度も着られずに捨てられるアパレル洋品が、製造された商材の90%にも及ぶ現状を考えると、作らなければ資源もエネルギーも輸送コストも要らないということになり、とんでもなく省エネになる。正月用品だってどれだけ廃棄されるのか?その分、作らなければ失われない命がどれだけ増えるのか。きっちりと消費する分だけ製造していく。しかもそれは自動であればよろしい。それをとことん追求するのが工学だ。

今ある状態が良いわけではない。自動化社会を実現するためには、人の生活様式が自動化にある程度寄り添わないと非効率と言うことが出てくる。ヨーロッパに旅をすれば、人の生活エリアとそうで無いエリアが明確に別れていて、自動化にはもってこいだと感じる。一方、我が国においては、いかなる山奥においても、突如、住まいが現れる。どうやって生活されているのだろうと悩むところだが、これなどは税金の高騰に拍車をかける一つの要因である。山川の保全に携わる人が必要だと必ず美辞麗句が並ぶが、里山を一人、二人で整備できるはずも無く、それは偽善の発言である。産業として関わらねばならぬ。

人的資本を高め、お互いが理解し合い、尊敬し合うところから国家を再構築せねばならぬ。そう思っているのだが、汚職政治家は威風堂々と居座り、清潔の頂点と思っていた皇室ですら悪しき噂にまみれた状態で嘆かわしい。国民の象徴とは、国民がこのように清々しく生きるべきだという見本で会って欲しかったのだが、どうやらそれも続きそうにない。如何なる年齢にあっても学び続け、何をさせて頂けるのかを真剣に考え続けねばならぬ。そんな時代である。

挑み続けること

京都女子駅伝を見た。力量は等しくとも、挑む気持ちが違ったなと。どちらがどうという事ではない。明日、競い合ってみたら逆の結果になるだろう。この瞬間に対する自らへの問いかけ。それこそが挑戦と言うことと思うのだ。何も足さない、そして引かない。純粋な自らの今を出す。それは負けた自分を想像した結果生まれる恐怖や、人々からのそしりという、日本人であると切り離せない因習との戦いでもある。それに挑み、勝ちに行った姿勢に感動した。今年、オリンピックからずっとスポーツが続いているが、一番の感銘を受けた。純粋な挑戦。美しい。

落ちこぼれても良いではないかと口では言っても、周囲の目線が気になったり、まだ見ぬ将来にみじめさを感じて、今にしがみついてしまう人の何と多いことか。自分が思った評価をされなかった。結局のところ、どれだけ自らの信念というか、自らの価値観を貫けたかということなのだと思う。吉田松陰師が命を懸けて未来を創る人を育て、そして、その信念を暴力が踏みにじり、そこで育った者が、後の暗殺など様々な暴力に加担したわけだが、それは師の願ったことか?

2022年において考えれば、残り一週間となってしまった。来る日曜日には次の年の始まりだ。ただ、日本古来の神の暦からすれば、節分まで今年であって、約一か月ある。反省する機会を二度頂けて、日本人はなんだか都合が良いなと思ったりもする。自らにとって本当に全力で毎日を過ごした年であったのかと、反省し、残りの日々、ひたすら挑戦し続けねばならぬ。

組織変革を拒む若年層に足を捕られて、そういうことかと思ったりする。護ることは自らにとって容易である。挑戦は恐怖である。その恐怖に打ち勝つには、自らの理想が自ら生み出されたものでなければならぬ。人から学んだきれいごとでは、暴力的な今を護る言葉に打ち勝てない。異なる明日の中に居る自らを考えると、それは恐れおののくのは仕方が無いかもしれぬ。その時、常に思わねばならぬ。自らの明日は、自らの心がゼロから数字を産むのだという信念から創り上げねばならぬ。創造とはそういうものだ。後数日、考えてみては如何か。他人のせいにしている自分が居ないか。それは後悔と冥土への一里塚だ。

アナログプロセスマイニング

膨大なデータから隠された真実を解き明かす。データマイニングと呼ばれる手法で、もう、枯れ切っているのかどうかわからないけれど、小生もテキストマイニングで、自らの講演を文字起こしして、テキストマイニングによって、主張していたかった事をきちんと話せたのかを検証するのに活用させて頂いている。これが実に面白い。ただ、これはあくまでも自己満足であって、聴講者がそれを理解し、活用できるようになったかどうかは別次元。

最近、アナログプロセスマイニング手法を伝えるべく社会人向けの講座を行っているのだが、受講側が「ツールの活用」を目的化してしまって、本質である自社のプロセスの可視化がお留守になってしまうことに辟易している。「儲からない商材」を黒船を使って売れるきっかけを作りたいということなんでしょうけれど、それは会社の経営層の手腕が成すべきでしょ。そんな金を貰っていないし、その商材がどんな価値を生み出しているのかもわからんのに、無茶を言うなと言いたい。

プロセスマイニングって必要で、様々な仕事をしている時、立ち止まって「何故これをやっているのか?」「どのように実行しようとしているのか」の2種類だけでも考察してみると面白い。余裕があれば「誰の為に」とか、5W1Hを価値ベースで明らかにしようということなんだけどね。すると、自らがどのように実行しようとしているのかには、自らのスキルを構成する要素があって、それにどれくらいの時間と資金を投入したのか、即ち、スキル構成コストが見える。すると何故これをやっているのかの先にはそれ以上の粗利が無いと赤字プロセスを走らせていることになる。

自社で達成できない要素は購入するとなるわけだが、プロセスを経てい行って最終的な粗利に対して、外から導入したものが余りにも高価な対象であるときは要注意だ。いきなり無くなるかもしれない。そうなるとその事業そのものが無くなる。プロセスステップ間のコストの微分値を考えれば、どんな隙間ビジネス・隙間構造も価格化出来る。そんな目線で今実行している行為が組織にとってどれ程にプラスになっているのか、マイナスになっているのかを評価せねばならぬ。微分値は小さいけれど、それを積分するととんでもなくなる。そんな意識で今日も過ごしたい。

金利

「日銀は金利を上げろ!」という声が上がっていたと思ったら「金利が上がったら景気向上意欲に水を掛ける」と直ぐに切り返す。こんな国では、じっくりイノベーションに取り組むとか無理だなと感じてしまう。大企業から中央研究所が無くなったバブル期で全てがふっとんでしまったのだろうなと振り返る。法整備も後手後手で、何かを挑戦しようとすると直ぐに待ったがかかる。「そんな法律があるのですか!」と驚くことが沢山。自動車一本足打法だって、結局、国は、自動車に関係する税金が欲しいだけだからね。

実際にテック系企業を起業してみると、機器や消耗品を購入することが極めて負担になることが解る。自動車の部品を作れるような工作機械を購入しようと考えると、それはそれは大きなお金が掛かるし、床面積も取る。消費電力も大きい。それを維持管理することも大変だ。それにはお金が必要になる。作ったもので粗利を獲得できれば良いのだが、中小企業の粗利を大企業が吸い上げるからにっちもさっちもいかない。

新幹線が突然停まって、動き出すまでに4時間以上掛った顛末を新聞紙上で拝見したが、部材の「折れ」が原因であったという。ローテクのハイテクで、基幹部品が価値を支えているわけだ。その価値には時間通りに運行されるということが、顧客側にはあるわけで、だから高速鉄道料金を支払うわけだ。それを支える基幹部品が機械疲労で破断するという、なんともお粗末な顛末だなと情けなくなった。こんなことを書くと時速300km近い鉄道が分のオーダーで立て続けに振動を加え、それが延々と続くから仕方がないと作り手は言うでしょう。でもその中でも壊れないものが出来ない国と言う事だ。

無理な軽量化やものづくり時の省エネ化、短納期の圧力が大き過ぎるのではなかなろうか。きちんとしたものを作る。それが安全を産むのは当然だが、安心の付加価値も必要なのだ。金利の上昇で景気向上意欲が下がる程度の国のものなど買いたくないというのが本音だ。国民が減って行って無くなる国になって欲しくない。世界から求められる国であって欲しい。その根幹に、教育とものづくりがあって欲しい。旅行のインバウンドだけの国を目指していそうで恐ろしい。

定量的思考たれ

予算をどのように活用していくか。使ったことによって組織が強くなって、所謂「粗利」を稼げたらベストなのだが、組織のミッションを完璧にこなせたら、それはそれで良しとするべきだろう。しかしながら、きちんと現状を定量的に分析して、その定量値からどんな項目をどんな風に変化させると、こうなることが期待できるからと、どれだけ予算をつぎ込むかも検討できる。取捨選択の根拠も定量的でなければならぬ。Whyに対して定量的に応えねばならぬ。勿論、理不尽な者に返答する必要は無い。

この定量的な議論と言うことに日本人は慣れていない。感性で熱く語って頂けるのは良いのだが「で、なんで?」と聞き返さざるを得ない場面がかなり多い。「こうした方が良いと思うのですが?」とかね。だったらやれば良いだけでしょ。お金は出さないけどねと、そんな無駄なことに時間を掛けたくも無い。社会で流行っているリスキリングという単語だって、日本がこれだけ置いてきぼりをくっているからみんなちゃんと学び直しや新たなスキル獲得に挑戦しなさいくらいに首相が言わないと、結局、誰も本気にならない。

リスキリング講座を主宰してみて感じるのだけれど、あれも教えろ、これも教えろと、自ら考えようとしない。そんな輩にはリスキルなんて無理で、リカレントも無理だろうと実感している。自分の言葉で語れない人には学びも無理だなと感じ始めている。その要因は何処にあるのか?勝手な想像だけれども、幼少の頃から何でも与えられて、問題が与えられればそれを解くスキルはあるけれど、自ら問題を設定して楽しむことが出来ない。パターンを覚えてクリアし続ける人生。何が楽しいのか?

こうしたい、ああしたいということは有るのだけれど、先立つものが必要で、都合よくお足は降ってこないから、自ら稼ぐことになる。稼ぐにしても、自らの能力を高め続けて、それが出来なくなったらそこに存在してはいけないのだろう。やらなければならないことが沢山あり過ぎて、それは本当に目が回るのだが、一つ一つ丁寧に分析して、何故なのだろうを問い続けねばならぬ。それが人間なのだろうと思うのだが、充たされた種族と生きている空間が違うなと感じている。これが時代と言う事なのか?定かでない。

幸せ観

日本人の幸せ感を調査したそうで、まぁ、なるほどなと思った次第。「他の人の役に立てているから幸せ」という趣旨の回答が最も多かったとの事。人対人の関係が丸く収まっていると、幸せを感じるらしい。孤立無援になっていると、それは不幸という判断になって、最悪の場合に至ることも考えられるとのこと。40歳以上の回答らしいから、全世代に回答を求めると異なるのかもしれませんが、解るような解らないような。

山に籠って深山幽谷、朝露に濡れたギンリョウソウや、渓谷のざわめき、鳥のさえずり、夕刻に輝きだす星の瞬きに幸せを感じ、孤独であることの有難さを感じるのは、どうも主流では無いらしい。昨日に、今年初めて通勤途上において、自動車販売会社の屋外駐車場に停められた乗用車の窓ガラスが真っ白に凍り付き、吹く風が頬を射抜く感覚に、冬という季節は必ずやってくるものだなと、灼熱の夏からの差異を実感し、梅のつぼみが白く顔を出していることの、なんと健気な事と感じ入っているようでは、一般的な反応では無いようだ。

ビジネスにおいては、買って頂かないといけないわけだから、購入者が、如何に現状との差異を大きくして頂けるのかという点に傾注するわけで、言ってみれば他人の幸せこそ、自らの幸せと結び付けられるのは至極当然なのだが、自らが関わった誰かが幸せになっていないといけないということを根本的に求められてしまうと、自ららしさというか、何故、自分は生きているのかという根本的なところを否定されているのかと思ってしまう。

そりゃぁ、組織の発展を願って起案しますよ、それは当然の事。お役目として必然であり、それが結果的に今までより良くなったと言って頂けたら嬉しいに決まっている。しかし、組織的対応というものは、変わらないほうが良かったと思う人も必ず居て、全ての人に喜んで頂かないと起案出来ないという判断力では組織は立ち行かなくなる。嫌われ疎まれることは覚悟の上の決断であって、それは組織人なら当たり前。他の人の役に立てていなければ不幸と思い詰めてしまうと、生きようが無いと思ってしまう。自らの信念において、自らは幸せと思って何が悪いと開き直りたくなった私であります。

保育園のニュースに想う

保育園での惨事のニュースがやたらと目につきますな。どのニュースが発端と言うことでもないのだけれど、気が付いたら毎日見る様になってしまっている。皇太子殿が希少生物をBBQで食べちゃったとかはかん口令がちゃんと敷かれて、研究者が闇に葬られてしまったなんてことは世に出ないのだ。まぁ、戯言はお構いなしなのでどうでも良いのですが、少子化対策と保育所の暴力沙汰のリンクが語られていないのは宜しくないと思う。少子化になったら受験生が居なくなるから大学は潰せって言うのに、なんだか不公平だ。

貴重な若年者なのだから、手厚く少人数教育で育てたいと思うのだが、それがそうでもない。統合・融合しろという圧力が激しいが、尤も、これはそれぞれの組織が世界に発信する論文力が、数字上で世界からみたら凋落してきているからと言われると、仰る通りとなってしまうところは弱い。それでは保育園の指導力という点においては、一部の極めて残虐な行為が、あたかも全ての保育園で行われると思わせるような報道が異常である。何故、そのような事件に発展するのかの議論が無い。

女性の生涯出生数ということで、お話に上がってくるのが北欧の国々で、所謂お年寄りの子育て参画がしっかりしていて、目の届くところに肉親が関わってくれているから、親は安心して仕事に出掛けられること。そして、これも出てくるが、男性の子育て参画。共に極めて重要であると感じる。昔はそうだったと感じますよ。いろんな理由はあるでしょうけれど、今はそれがとても少ない。後者はそこそこ増えてきたとは言われているが、まぁ、ゼロに近い。前者に至っては、観光地やレストランに行ったら、基本、ご老人だらけというのが日本の現状だ。

三つ子の魂と言われるが、それまでに徹底的に愛情を注がないと、保育園に入った頃には、正直「野獣」そのものである。言うことを聞くという習慣が無いのだもの。「切れたく」なって、激情を発してしまうことに、小生は強く咎めることは出来ない。親を一度でもやってみろと言いたい。そして、今、小学校の先生方も心を病んできているという。大学でも同様なのだから、これは人間の生命体としての危機ではないかと思うのだ。三つ子の魂百まで。本質である。

決意って?

軍事力って、結局のところ暴力だから、それを手段として外交を展開するのは大反対だ。国際情勢を見ていると、単純な暴力による外交も多々あるのだが、食糧や燃料、鉱物等々の資源による兵糧攻めは効果的だなと、それが一番効いてしまう国に居ると良く分かる。資源が無ければ外貨を稼ぐモノが創れないわけで、インバウンド云々で、観光業界を日干しから救うのも大切だが、資源を加工してものを売って生計を立てていた日本にとっては、厳しい時代が続いていくのだと思う。

DXと言われただけでパニックになる国だから、未来のありたい姿からのバックキャスティングでと言っても、なんのこっちゃと言い返される。本当はあるべき姿からと言っていたら怒られる始末。ありたい姿なんぞ単なる希望で、ゴールにたどり着く組織など無い。今持っている機能を全て価値の目線から可視化して、思い切って「よし、こうあるべきだ!」という未来を設定して、背水の陣で臨むことをやらないと、抜け道を探し出していく。デジタルインボイスだってそうだもんね。いきなり「間に合わなければ許す」なんて、最初からやらなくて良いと言っているみたいなものだ。

国を守ることに国民は参加するべきだと、至極当たり前だなと思ったのだが、いきなり周囲の圧力に首相は屈してしまい、我々はなどと総花を咲かせてしまうわけだが、選ばれしリーダーなんだから腹をくくって貫けば良いのにと思う。国がしっかりとあるからこそ、そこで教育もお仕事も成し得るのだから。人中心と言うならば、繰り返しになるけれど医療とか食糧とか、本当に基本中の基本は自国で賄えねばならぬ。そして、勿論、外交も成されなければならない。

どれだけ先の未来を見るか。政治家の努めであり、企業で言えば役職者の努めるべきところだ。それを明確に定量的に伝え、それがどれだけの幸せをもたらすのかを共有し、そこにどのように取り組むのかの方法論を提示する。一人の考えでは視野が狭くなるから、そこには意見を頂いて修正はするが、終了はさせない。その覚悟が必要なのだが、どうも暴走するか直ぐに逃げるかのどちらかになってしまっている。そうならないようにしようと思ってはいるが、辛い事ではある。

メディカルメッセにて

名古屋商工会議所主催のメディカルメッセに市場調査に出掛けた。大略往復2時間のイベントであったが、実りある時間であった。いったいどんな実りなのか。戯言だからろくなことは言わないが感想まで。勿論、鶴舞大学として医工学連携を推しているということがベースにあって、当該分野における共同研究なりファンド獲得なりのきっかけになればということが目的である。実際にお会いして仲良くなってというプロセスは、手っ取り早いという点においては良いのかもしれない。ウエブだけでは解らない情報も得られたしね。

勿論、オンラインでも得られないわけではないが、こちらのペースで相手を喜ばせるというリズム感は対面がやりやすい。そこをもっと磨かなければという知見にもなった。で、自動車関連が中核だけれども、このまま一本足打法ではというお会社が複数社いらっしゃった。そしてテック系ベンチャーとしてものづくりに挑戦していらっしゃるお企業様もいらっしゃり、その流れなのだろうなと実感した。いつまでも内燃機関のギアシャフトを作っている場合では無いのだ。

医療機器は大別して2種類。分析機器や消耗材で、購入したらそのまま活用できるもの。もう一点は医師や患者へのカスタマイズ・蝉カスタマイズ商材である。これが4つのタイヤを付ければ売れる自動車とは大きく異なる。市場規模も全く違う。医療機器では無く、創薬企業と自動車企業を比較してみると、創薬で大きな売り上げとすると2兆円/年程度。T社さんは30兆円超え。利益は前社が3千億未満、後者は約4兆円。そして重要なのが研究開発投資で、前者は4千億円程度、後者は1.1兆円である。国からの助成が無いと開発を続けられない創薬と、こんなに儲かっているのに大企業消費税免除を受ける企業。

医療機器開発も同様であろう。人は必ず病気になるから、必要なのだけれど市場が大きいかと言えばそうではない。自動車製造から新規事業として参画したとしても、自動車時代の気持ちであると、規模が小さく、認知されるまで10年以上を要する。医工学連携の難しさがそんなところにそんなところにあろう。目指すのはその機器を使われた患者の笑顔の獲得である。企業の利益ではないのだ。それを割り切らないと医工学で継続してビジネスは困難であろう。しかし前向きなお企業が多かったことは光明であった。これからもお付き合いをお願いさせて頂きたい。そんなメッセであった。