太陽の季節

凄まじく暑い一日を体験すると、これが温暖化の結果かと単純に感じてしまう。温暖化、温暖化と連呼されると一気に海面が上昇して、都市部に甚大な被害が出るのかと思ってしまうが、東京が高潮で水没したという話は聞いたことが無い。タワマンの地下の送電施設が水没して、階段の上り下りが大変になったという話は聞くが、まぁ、運動不足のお金持ちの方々には、適度な運動機会が与えらた位の前向きさが必要だということだ。貧乏人の冷や水だけどね。

工業製品と農産品を交換して生きている日本にとって、コロナ禍とロシア・ウクライナ情勢はとてつもなく大きな影響を受けたのだが、それに対応した動きが何処にあるのかさっぱり解らない。じゃんじゃか国債を発行して、自国の貨幣価値を下げまくっているわけだが、それで海面上昇と差し引きゼロとか言い出すのでは無いかと、国の浮沈がリアルな浮沈に重なって未来を暗く感じてしまう。

インドでは3月頃から50℃近い気温を記録しているとの事だが、太陽エネルギーという外部から付与されるエネルギーが、海洋と大気の循環によって、何処に集中して、何処が足りなくなるかのバランスで、暑さばかりが強調されてもいけない。雹が降り注いで一気に寒冷化しているエリアだってあるのだ。地球が蓄える太陽エネルギーの「確かな定量的数値」というのが何処かにあるのだろうが、新聞やマスコミ報道で拝見したことが無い。人が生息しているエリアがどうかということで、それは種々のウイルスが何処に生き残っているのか解らないということにも繋がる。

見えているようで何も見えていないのでは無いか。DXが叫ばれているわけだが、世界中の詳細なデータは何処かにあるのでしょうけれど、それが正しく可視化されているかどうかは解らない。今日、何を成すべきで、明日は何時から会議があってということは解っても、どこでどんな問題が発生しているのか、全てを把握できているわけでは無い。不確実な中で、自らが最善と考える行動を具体的に起こす。それの積み重ねでしか明日を迎えられないわけだ。具体的に活動する。粛々と行う。それだけだ。

情報確度

TVやネットの報道が一致していたとしても、それが正しい判断材料になるとは限らない。有識者ヒアリングみたいなところに呼び出されて、お偉い方の旗の振り方を目の当たりにしてしまうと、報道は見せかけで、一面だけをクローズアップしているのだなと実感出来る。見ると聞くとは大違いという奴だ。所詮、報道は加工品であって真実では無い。いや、伝え聞いたものに真実は無かろう。発生しているものを「見た」り「体験」したりして、その第一人称だけが自分にとって真実である。客観的になど見ることは出来ないから、報道は全て嘘を含むということになる。含まれた嘘が限りなく少ない報道がスポーツ報道ということになろうか。これとて、怪しいかもしれないが、金メダルを誰が獲得したかなんかは正しいしね。

最初から虚栄と大法螺の選挙時における演説なんかは、これはこれで面白く聞いていられる。どうせ、言ったことはやらないことは分かっているので、少なくともこんなことを問題視している人がいて、それなりにお金を動かしているのだなということは分かってくる。逆に、公約なんてムキになって叫んでみても、大国が小国にミサイルを打ち込んだ時点で全てがひっくり返りますからね。局所核なんてものが、本当に使われでもしたら、コロナ禍どころの騒ぎでは無い。でも、そんな今だからこそ、2~30年先を見据えてやるべきことをやる思い切りが必要だ。いろんな意見がご尤も。しかし、人の社会の真実というものがあろう。他人の命を直接・間接、奪ってはいけないということを前提に置かねばならない。

なんらか検討するのであれば、仮説検証では無いけれど、その仮説を何故置いたかというところに、前提条件が必要となってくる。その前提条件を考える上で守られるべきは、関係者に届いてる情報の質が等しくて、しかもそれが真実に近いこと。それが狂っていると、何をやっても胴元が勝つことになって、挑戦者は常に敗北を食わされることになる。公募の胴元が要領を後悔して、それを解釈して申請書を作り込むわけだが、多くが、出来レースで、血を滲ませた努力は報われない。それでも自らの行動は真実であるから、それを前面に押し出すのがだ、受け取る側は異なるゲージで評価してくるから、そのボタンの掛け違いは正されることは無い。

昨日、書斎で物書きをしていて、「暑いな」と感じて温度計を見てみると、室内で28.5℃を示している(14時頃)。この温度計は高校生の時に、気象庁の購買で購入したものなのだが、これなどは信じて良いものとしてずっと身近に置いている。疑っても仕方が無いし、別途購入した湿度計にくっ付いている温度計と同じ温度を指し示すから、まぁ、大丈夫だろうと思っている。情報源はシンプルで、疑いようが無いものが良い。報道などは、所詮、時の為政者のプロパガンダによってどうにでもなるということが証明されている今、自分のやろうとしていることは正しい事なのだと、自信を持つことすら難しい。だから単純なところから進んでいく。それしかなかろう。

ものづくりデジタル産業

中小企業様がロボットを導入される目標はそれぞれのお会社によって異なるでしょう。利益の上げ方に拘るのか、製造製品の生産性、精度に関与させるのか、まぁ、それはいろいろおありでしょう。アナログからデジタルへの最も大きな変化を感じるのがロボット活用というところだろう。ギアという、バックラッシュが発生することから、超精密というところには入りにくかったのが、人工筋肉を活用したアナログなアクチュエータに依って、その壁は無くなった。後は人間の使い方次第というところ。

DXは既に市民権を得ていると思うのですが、GXとかね、グリーントランスフォーメーションとか、一瞬、聞き間違いか?と思うような、まぁ、これも聞きなれてはきたものの、「X」を付加すれば良いというものでは無かろうて。温室効果ガスを発生させないグリーンエネルギー転換ということなのだが、こうなってくると「なんちゃって感」を小生は強く感じるのだ。石炭を間伐材に置き換えて、暖房をクリーンにしました。山から人間が担いで降ろしてきたのですか?重機やチェーンソーなどは使わなかったのですよね?

太陽電池など、それを製造するのにどれだけCO2を排出しまくるか。鉱石を掘りに行って、生成して、輸送して、溶かして、削って、スライスして、磨いて、プロセスを経て屋根の上。それを無視してクリーンとかね、笑わせてくれるな。木造水車で、その動力をそのまま機械的動力に返還して、紡績をしていた時代。イギリスがまだまだ綺麗だった時代。結局、そんな時代に戻ろうとしているのか?そこで停まっていれば、隣の国にミサイルを撃ち込んで、自国のものにしてしまえなどの狼藉は怒らなかったのかもしれないけれど。

今、アナログの森からデジタルの森に移り住んで、そこでの暮らし方に暗中模索している人類という状況なのだと思う。その暗中模索の一助がものづくりデジタル産業におけるロボット活用という事だと思う。共生型ロボットによる独り家内制手工業で、人の笑顔を作り込むベンチャーを生みだしたりしてね。大袈裟では無く、丁寧で地味なものづくり。鶴舞大学のロボット塾はそんな挑戦者に門を叩いて頂きたい。是非ともご活用の程、お願い致します。

10週遅れ

徹底的な自動化とか、理想論だと無視されるのだけれど、無視しているのは日本人だけで、どれだけ真面目に巨大な向上において、まばらにしか人が介在していない状況を思い描けるかだ。開発の現場こそ、どうやったらAI任せに出来るかということを考えるフェーズにあって、それを教育出来る仕組みが高等教育機関にあるかが、競争優位性ということになる。経験からなのだけど、人の幸をもたらそうと、「ある幸」を定めて、そこに向かっていこうとすると、大略、世界で同一目標を異なる手法で三者が同時にスタートし始める。

満漢全席デバイスを目指したものがことごとく沈没したように、一早く、幸を提供できた者が勝ち残る。アジャイル時代であるから、それはより顕著である。また、上手な広告という事も勿論重要である。プロパガンダでは無く、真実をどれだけ早く拡散させ興味を引くか。兎にも角にも幸を提供するところまで駆け上がらないといけない。柱をどんと社会に出して、肉付けはアジャイルで太らせていく。その辺りがとても下手だった日本企業だけれど、Z世代諸君が社会をかき回してくれているのが頼もしい。

これを形にするのは、昔からの関係でここに義理立てしてなどという事は無く、旧態依然の事業に拘っている方には、ご退場願わねばならない。しかしながら、本当に図抜けた機能をお持ちの方には、新たな場が提供されることになるから心配はいらない。有名企業の工作機械を持っていますというだけのことでは、それはZ世代が望む幸のバリューチェーンからは外れていくだろう。必要なのは価値の実現に寄り添えることであって、バリューチェーンに選ばれる為には、従来のアピールでは全く役に立たない。

要するに、旧態依然のMBAやMOTの考え方では成り立ちませんよということだ。完全自動化が創り出す幸最大化を本気で目指すベンチャー、スタートアップがタッグを組んで、必要な要素技術を提案する。そこに選ばれる為の、自らが他の為に成し得ることを定量的に示せること。過去のお付き合いは明日の他人認定である。厳しい言い方だが、今、日本はそちらに向けて歩き始めなければならない。それでも世界からは10周くらい遅れているけどね。

路傍の石

恐ろしいのはそれが当たり前だと思ってしまうこと。他国の人の命をミサイルで消し去って、領土を蹂躙することを正義だとリーダーが言って、それを信じる国民など、まさにその事例だ。これは異例と言えばその通りなのだが、大なり小なり、それが充満していると感じる。これが当たり前のやり方だと思ってしまうと、それ以上、進化は無いし、また、その恐ろしさは、それを受け入れない人への排斥になってしまう。研究であれば、新しいアイデアを受け入れないと言うことになる。

ものづくりを延々と続けているわけだが、単純に、カッターの刃先のような、いわゆる「尖った」先端を、金属の棒に作り込もうとしよう。カッターは俗称「ハイス」と呼ばれる硬くしなやかな素材でできているのだが、これなどは砥石で作り込むことができている。包丁をイメージして頂ければ良くて、素材が柔らかいから、柔らかい砥石で仕上げることができる。金属にダイヤモンドが練り込んであったらどうだろう。砥石で擦っている間に、ダイヤモンドだげかごろっと落ちてしまう。ダイヤモンドと柔らかい金属の両方を均等に削るにはどうしたものか?

組織って恐ろしくて、ダイヤモンドを落とさずに、磨かないといけない。磨こうとしているのに、反発されて砥石が壊れてしまうこともある。こんなことが出来たら理想的だななどと、生意気にものづくりを進めてきて、最近、漸く、何となくだが、ものができるようになってきた。まだまだなのだが、狙った形が得られるようになってきた。「押してもダメなら引いてみな」と、その昔、白黒のブラウン管の向こうから聞こえてきたことを思い出す。柔軟な時代だったのだなと。

当たり前なのだが、これが絶対に正しいなんて形はないのだと思う。小学校の先生は、上流の石はゴツゴツしていて、下流になればなるほど、丸く角がなくなっていくと、人生を語った。たまたま、とある富山の海岸で、そんな丸い石の集まりのような海岸を見た。恐ろしい程に丸く揃ったその石の平原は、妙につまらなく、そして恐ろしく感じた。自分だけが異物であると感じた。それで良いではないか。組織にどっぷりの丸い石より、割れたばかりのフレッシュなゴツゴツの石でありたい。これからもそうあり続ける。それだけのことだ。

リアルプロセスインフォマティクスは何時?

マテリアルインフォマティクスの次は、プロセスインフォマティクス。それが動き出すと、その中から再びマテリアルインフォマティクスへのフィードバックが掛かる。モノづくりはその検査工程も含めて無人化されるべきだと思っている。そんなものが出来たら雇用が無くなるではないか!と罵声を頂くのだが、後、数年はそうはならないから、そんなに慌てる必要は無い。しかし、はっきりしていることは、無人化になるということだ。そこまでエンジニアはサイエンティストと共に歩み、ワクチンを作る機械まで、作り込んでいくような流れになる。

断言しているのだが、まぁ、そうなるでしょくらいのところですよ。未来を見たわけでは無いからね。でも、ゼロ細菌室というところが出来るとすると、その中に人が入るなんてことはナンセンスで、完全無人でなければならない。確率的に滅菌されているだろうなんて評価では駄目だから、なんらか、ウイルスの可視化技術なんてものも発展させなければならない。こう考えていくと、開発しなければならない案件だらけだから、仕事が無くなるなんて事は無い。ただ、多くの作業は無くならねばならぬ。

作業は更なるオートメーションとなるのでしょうけれど、それこそイーロンマスク氏が目指してこけた様に、今のところは人がやった方が良いよねというところは、それはそれで取り敢えずはいくのでしょうけれど、細菌があっても良い処は許されるのでしょうね。それでも重たい金属の塊の中で人が働いているというのはどうなのかなとは思う。徹底的な無人化に向けて、更に発展していくべき技術は何か?実に興味深いのだ。

プロセスをAIが作り込んでいく。その為には社会のニーズをAIが正しく解釈して、人間が思いもつかなかった関係性を導き出して、ニーズ価値最大化までもっていって、そのニーズに応える場・こと・ものを描き出し、そこに必要なモノづくりのプロセスを弾き出す。そこで使わる理想の素材まで考えて、マテリアルインフォマティクスを当てはめていく。ロボットが専用機を創り上げ、専用機が量産に必要な部品を作り込んでいく。出来た傍から組みあがり、売れていく先に自動で配送されていく。そんな時代を早く見てみたいものだ。旧態依然の陳腐な今などいらない。そう思う。

断捨離継続中

断捨離を進めると実に心地良い。十五、六年前の物が出てきて、なんでこんなものを保管しようと思ったのだろうと思うのだが、その時の決断力の無さが、タイムマシンのごとくに、その当時を蘇らせてくれるところが面白い。勿論、今となってはおさらばしていくわけだが、半年掛けて、当初目標に到達した現状を踏まえて、次の目標を考えている。どこまで削り込んでいこうか。

職業が良くなくて、職場には居室というのもがあって、そこに山のように書物が並んでいる。これをどうするのかということを考えると、その退避場所を作って置かないといけない。どうせ活用しなくなった書物など破棄すれば良いのにということなのだが、未だに情けないことに、ハードな書物の断捨離の決心が付きにくい。学術誌などは、古いものは断裁してPDF化をかなり進めたから良いのだが、とてもお世話になったハードカバーに対して手を振る勇気が湧いてこない。

片っ端から捨ててしまうというのが最も効果的なのだろうが、今の所、そこまで切羽詰まっていないということもあって、ダラダラと進めている。ものを増やさないというフェーズに入っているのだが、それには間違いなく電子化の恩恵というのがある。それと円安で、とてもでは無いが、趣味のレコードを海外から輸入する気になれないというのが幸いして、レコードの増加を食い止めている。電子化の恩恵は、CDを買うならネットワーク経由で良いやという時代のお陰である。無限に増えるのではと恐怖していたCDの増殖がピタッと停止している。

良書を揃え、悪書を駆逐する方針で書棚を埋めてきてしまったから、こちらを廃棄して・・とは容易ではないのだ。そこから得られた知恵の恩恵へのリスペクトというか、廃棄するという決断には当分到達できそうに無い。その一方で、断捨離は継続していくことになる。残った命を考えると、いつ無くなってもおかしくない状況にあるわけだから、さっさと進めないといけない。一つの引き出し、棚を空けるたびに「なんでこんなものを入手したのか?」と不思議に思うが、その時には必要と思ったのだろう。捨てきれないものがある。最後に残るのは何なのだろう。楽しみだ。

底抜けに想う

そういうこともあるのだろうというのが、明治用水頭首工での底抜け現象。連日、ニュースになっているのですけれど、人間が自然にちょっかいを出すとこんな目に遭うのだなという典型例の気がする。ダムが無いから洪水が発生したとか、絶対に必要だからと使いもしない水を溜める河口堰とかね。あれもそのうち、凄い事になりはしないかと。自然に逆らって水たまりを作ったわけで、地殻変動等、活発な我が国において、妙な水圧源を作れば、余程強固な岩盤の上ででもなければ底が抜けるのですね。

途端に身の回りが恐ろしくなる。所詮、人間が作ったものだ。壊れるのは当然である。形あるものは必ず壊れる。そんなもんだと思っている。だから修復しながら長く使う。便利な使い捨ては、要するに、長く使うと壊れるから、最小限の材料で、一度使ったら廃棄して、また、少量の原料のものを新しく使うという考え方だ。SDGs信望者には怒られるが、経済活動と天秤に掛けていくと、不便と便利の境界線でしのぎを削ることになる。治水というのもそんなものだろう。

エジプトのデルタの氾濫と農業のお話を小学生の頃に習った時に、その頃は具体的に洪水が発生するエリアに在していたから、あの勢いで水が来たら農業どころでは無かろうにと思ったものだが、実際の水位の上昇具合が解ってくると、成る程、そういうことかと、そしてそれが正しい治水なのだなと実感するのだ。それが電力の為とか工業の為とか、何かの便利の為という、人間が最低限に生きていく為に必要とされる以上の事を自然に求めると、しっぺ返しを食うのだ。

農業作業に打撃を与え始めているということで、東海農政局のホームページを拝見した。漏水を確認して、砕石を投入して閉塞を試みたが状況は改善していない。翌日には漏水箇所が拡大し、明治用水への送水量が大幅に減少。現在、ポンプを大量投入し、水確保に鋭意取り組んでいると。日本中に多くの「用水」と呼ばれるものがあって、規模も様々。それを必要として、関わられた先人の熱意と努力に頭が下がる。現代の工業技術をもって定量的に調査・補修が出来て来なかったことは、人知に余ることをしているのだと肝に銘じなければならない。工業製品に囲まれた生活、大丈夫か?不安になる。

効率?

単位時間当たりどれだけのお仕事が出来たかというのは、どれだけ新しい知見を、その人でなければ生み出せないことを生産したかということであって、どれだけエクセルシートに数字を打ち込んだかということではない。仕事の効率がと叫ぶ方が多くいらっしゃいますが、要するにそれ、作業効率でしょ。そんなもん、自動化したら「あなたはいらない」という時代が他国では当たり前になっているのに、「新規作業を覚えるのが面倒だから、古い仕事をさせ続けて欲しい」って、そんな時代では無い。

でも新しいお仕事をスタートさせるって簡単では無い。見かける方式として特別チームを作ってそこに原案を作らせて、上の人がそれを評価して進めるってやり方なんだけど、この上の人の意見が曲者で、上の人が理解できる事しかやらさないというのがこの国の有り様ですからね。若者の意見は踏みつぶして、理解できないものは排除していく旧態依然国家。まぁ、最近では自分に無いものは、完成品を会社ごと買ってしまうのが近道という風潮もあるしね。これは世界的なことだけど。

徹底的に良いものを作るって、使われる人・環境をイメージして作り込んでいくのだけれど、カスタマイズし過ぎると1個しか売れないなんてことになるかもしれない。それでは商売にはならないからね。注文家具なんかはそうなのだけど、それなりの金額を払えるのであればそれが理想であるのは間違いない。長持ちする家を建てるには、四季を経験させないといけないということで、1年以上掛けたりするものね。当然の事ながらそれなりの金額にはなってしまう。そのそれなりの金額を支払うことが重要であると思っている。直ぐに壊れて買い替えるという思考を変えねばならないと思っている。

何でもかんでも効率向上と、お上は迫ってくる。論文生産の効率を上げろとかね。一方で、研究成果を社会実装させろとかね。お企業様も、ゼロ円で大学から知恵を持って行こうとするとかね、酷い事になっている。じっくり構えて世界に遅れを取れとは言わないけれど、教育の質、レベル感、人的育成をそれこそ生まれる前から考える部局があって、50年計画で国の根幹を考えていかないといけない。そう思うのだ。それは急務で待ったなしの筈なのだが、ガソリンに補助金を出そうとか、目先の事だけ考えているこの国。このままでは滅びるね。

そこだけではない

昨日まで出来なかったことが出来るようになる。喜ぶべき事なのだけれど、決してそれはゴールでは無い。自分自身の事なので、それはそれで限られた範囲で満足すれば良いのだろうけれど、地球に残った最後の一人というわけではないから、自分事で喜んではいられない。自己満足って気軽なのだけど、お仕事ではそうはいかない。中には自己満足が仕事になってしまう方もいらっしゃるが、かなり特例と言っても良かろう。

出来なかったことが出来るようにということだが、何も全く新しいことが出来るようになるだけでは無く、自分がある場所で出来ていたことを他所に持って行ったら「驚愕!」となる場合が沢山あるのだ。それを我が国は組織の縦割りの壁で相当に損をしていると思う。他人の目を気にし過ぎていたり、自分で壁を作って居場所を狭くするのは、日本人の特性なのかもしれないけれど、誠に持って勿体ない。

最近、小生が開発に関わった、医療関係の半導体素子が、電子機器の検査に活用されたよという記事を拝見して、成る程!と思った次第。より厳しい基準で作っていたものが、他の場に行ったら、要求レベルが変わってより安価で市場に笑顔をもたらしている。ものがあるなら活きる場を変えて考えてみると、今よりも有効に活躍できるというものが沢山あると思う。

男の無限料理では無いが、レトルトパッケージを買ってきて温めて食べておしまいという状態だと、それ以外の食べ物にはならないけれど、食材という状態でばらばらに考えてみたら、いろんなものに化けていく。調味料の選択ミスと思っても、いや、これを加えてどうのこうので、何とかなったりするものだ。四角四面で考え込んで、「これはこの専用のもの!」などと狭い視野では無く、広い世界があることを忘れてはならない。そう思う。