底抜けに想う

そういうこともあるのだろうというのが、明治用水頭首工での底抜け現象。連日、ニュースになっているのですけれど、人間が自然にちょっかいを出すとこんな目に遭うのだなという典型例の気がする。ダムが無いから洪水が発生したとか、絶対に必要だからと使いもしない水を溜める河口堰とかね。あれもそのうち、凄い事になりはしないかと。自然に逆らって水たまりを作ったわけで、地殻変動等、活発な我が国において、妙な水圧源を作れば、余程強固な岩盤の上ででもなければ底が抜けるのですね。

途端に身の回りが恐ろしくなる。所詮、人間が作ったものだ。壊れるのは当然である。形あるものは必ず壊れる。そんなもんだと思っている。だから修復しながら長く使う。便利な使い捨ては、要するに、長く使うと壊れるから、最小限の材料で、一度使ったら廃棄して、また、少量の原料のものを新しく使うという考え方だ。SDGs信望者には怒られるが、経済活動と天秤に掛けていくと、不便と便利の境界線でしのぎを削ることになる。治水というのもそんなものだろう。

エジプトのデルタの氾濫と農業のお話を小学生の頃に習った時に、その頃は具体的に洪水が発生するエリアに在していたから、あの勢いで水が来たら農業どころでは無かろうにと思ったものだが、実際の水位の上昇具合が解ってくると、成る程、そういうことかと、そしてそれが正しい治水なのだなと実感するのだ。それが電力の為とか工業の為とか、何かの便利の為という、人間が最低限に生きていく為に必要とされる以上の事を自然に求めると、しっぺ返しを食うのだ。

農業作業に打撃を与え始めているということで、東海農政局のホームページを拝見した。漏水を確認して、砕石を投入して閉塞を試みたが状況は改善していない。翌日には漏水箇所が拡大し、明治用水への送水量が大幅に減少。現在、ポンプを大量投入し、水確保に鋭意取り組んでいると。日本中に多くの「用水」と呼ばれるものがあって、規模も様々。それを必要として、関わられた先人の熱意と努力に頭が下がる。現代の工業技術をもって定量的に調査・補修が出来て来なかったことは、人知に余ることをしているのだと肝に銘じなければならない。工業製品に囲まれた生活、大丈夫か?不安になる。