価値を読み取ること

エレクトロニクスの進化の「罪」は個人に対して省エネルギーを実現していると思わせたことなのだろう。捨てない便利。エレクトロニクスの断捨離は実に難しい。今更、ワークシートソフトウエアを使わずに、データ処理するか?それが無かった時代には、awk(死語?)などのテキストツールを使って、機械が吐き出したデータをgnuplotに橋渡しをして、グラフ化していた。勿論、その前は、ロットリングというアナログツールでのグラフ作成である。エレクトロニクスなどありはしない。

余りにも古きを訪ねすぎるわけだが、ロットリングとステンシルというアナログツールでグラフ化していくには、機械が吐き出したデータの誤差とか、真値とか、統計的な処理をアナログで行う知識が無いといけないわけだ。このアナログな知識を近年は全く受け付けることなく、工学の世界は動いていると感じている。そりゃぁ知識としては講義をきちんとしているわけだが、いざ、研究室に入ると自動処理の機械、そして企業はボタンを押せば製品を吐き出してくるご丁寧さだ。工学人の幼稚化が加速していると感じる。

諸先輩達には遠く及ばないのだが、小生の年代くらいが、アナログからデジタルに向かう、アナログ側の境界点の民ということだと思う。トランジスタを手で作っちゃえる時代であって、それが学会で通用しちゃう、アナログの権化の人間の努力の結果が世の中に認められた時代。懐かしむつもりはないが、技術に人間味がありましたな。電子の世界にも職人技が生きていたということだ。

それが、止まっちゃうけど「京」に代表される巨大計算機の時代になってくると、発電所一つを接続して明日の天気を言い当てることが価値となる。大げさということは決してない。いや、電気は人が活用して価値なのだから、気象の変化を精緻に予報できることで動くお金は、携帯電話を作って販売して設けるよりも桁違いの利益を生むのだ。地球というアナログな生命体の明日を、デジタルツールで読み取るのだ。もしも雨なら明日の遠足は中止だなどとヤキモキした時代は確実に過去だ。その安心は電気エネルギーと引き換えだ。

量の魔法

鉄を溶かして車を作る、シリコンをほじくって酸素を取り除き、とてつもなくゆっくり固めて切って磨いて・・どっちが地球を暖めたのだろうとなると、どっちもどっちでは無かろうか?PM2.5の発生に関しては自動車関連の足元にも及ばないだろうが、手元に届いてその人の為に小エネルギーを実現するまでに使う電力は爆発的だ。

一つのトランジスタであれば、それは間違いなく省エネルギーである。鉱石検波ラジオなど、空間を飛んでいる電波が金属線(アンテナですな)に発生させる交流電力だけでイヤホンを振動させて音声を獲得することが出来る。まぁ、放送局から飛んでくる電波が巨大だということなんだけどね。ここにも社会の便利を実現させるための無駄遣いが見られる。

それこそ一人一人が電気喰いの携帯を持ち、空間に無駄に飛び交う電波を獲得し、それを情報と熱に変換して生活している。その数は一体どれだけのものだろう。世界で見てみれば、間違いなく地球温暖化を加速させている。電気的エネルギーという極めてエントロピーの低い、上等のエネルギーを、ポケットの内側で暖房器具として活用しているみたいなものだ。贅沢極まりないのだが、一度、その便利さをしってしまうとそれを手放すことはあり得ない。

この携帯電話を実現するためのテクノロジーが、一体、どれ程に凄まじいか。携帯電話のテクノロジーは小型化ということなのだが、単にそれだけでは無くて、機器の省エネルギー化を促進した結果には違いないのだ。巨大な電池を有するガラパゴス携帯よりも、それこそ一万倍以上の能力を有しながら、消費する電力がそれ並に抑えられているという点においては、技術の進化は劇的だ。しかし、それを活用する者が、桁違いに増やしてきたということだ。省エネ機器も数が増えれば巨大電力消費の元凶である。

省エネ?

功罪というくらいだから個人的に良い・悪いと感じているところということになるが、それはあくまでも書き手がそう感じたということであって、一般論などとでかい事を言うつもりはさらさらない。電力大喰らいの真空管だが、電子計算機を実現させギアの組み合わせと手動回転によって実現していた計算であったが、式の入力とパラメータの数値入力を別々に出来るプログラミングを可能としたのは真空管である。

その実現と同時に人類が獲得したのが、計算に伴う電力の大量消費である。電力大喰いの真空管をなんとか省エネルギーに出来ないかということで、偉大なるバーディーン達が現在のメモリ等、半導体平面上にトランジスタを作り上げたのが1956年の出来事である。それから僅か六十数年しか経過していないのだ。

一方で、錬金術の時代に精緻化された化学力によって使いこなしてきた金属とは違う、半導体という謎めいた素材の精錬が必要になってきた。鉄鉱石から鉄を取り出す最終工程において、鉄に付いた酸素を一酸化炭素と反応させて、純粋な鉄を取り出すために1200℃の温度が必要であった。精錬技術の発展がそれを実現し、人間は純粋な鉄を道具に様々なものを創り出した。半導体のシリコンにおいてはそれよりも高い1400℃を超える温度を必要とした。

要するに、省エネルギーを実現しようとしたら、それまでよりも大きなエネルギーを必要とするようになったということだ。エントロピーを下げたければ、そこには巨大なエネルギーの投入が必要となることは熱力学から明らかである。便利を電気で創り出す。木炭、石炭、石油、天然ガス、原子力。燃やすものは様々だが、便利の獲得のために地球を暖め続けてきたということだ。

人工無能

音声合成入力ソフトが市販されたのはいつ頃であったろうか。もう忘却の彼方であるが、今は当たり前の技術であっても、その当時はこのまま日常的に機械と言葉でやり取りするのが当たり前になっていくのだなと思ってしまった。ファミリーユース以上には広まっていかないところをみると、まだまだなかなかにして難しいことがあるのだろう。

電電公社の武蔵野通研だったような、かすかな記憶で関係者の方々から「違うぞ」とお叱りを受けそうだが、まぁ、お許しを。「俺ら東京さ行ぐだ」と吉幾三さんが叫びはじめて、2級上のT先輩がCDを借りて来て、研究室で聞いていたから1984年末の出来事であったと思う。育てる人工知能という、何しろフロッピーディスクベースのシステムだから、覚える言語は、まぁ、それなりだし、何しろ、PC搭載のメモリーが少なく、いちいちフロッピーディスク(死語)に書き込みに行くわけだから育つ前に止めてしまった。

同様のツールがその手の雑誌についてきて、こちらは人工無能という開き直り的ツールであったか、こちらは更に使用時間は短かった。ネットで調べてみたら1966年から研究が始まっていたそうで、人工知能へのなんというか、必然性というか、その分野の方々にとっては当たり前のターゲットだったのでしょう。その頃の小生ときたらSiのイオン注入欠陥をどうやって無くすかという、原子の繋がりを電子で治すみたいな、極微の世界で喜んでいた時代。

記憶・記録に掛かる部材が機械的構造から解き放たれない限り人工知能は実現するまいと漠然と思っていたのだが、時は35年も進んで、今、それが実現するようになって、それこそ当たり前のように進化し続けている。ちょこっと昔を懐かしみながら、今週はエレクトロニクスの小型化と社会の変化と功罪について無駄話をしてみようと思う。

得失

ルールがある。社会の中で意識して守らねばならない。間違ったルールかもしれないのだが、人々の社会活動の中で生まれ出るものであるから、時代の変化の中で見直しつつも、従わねばならない。個人同士で済むものもあれば、ルールにのっとって社会的な活動として発展させなければならないというお互いの認識が、争いを最小限にすると思う。

東京で見かけた木の風呂桶屋さんで、木の文化はきっと正しかったのだろうと思い起こした。小生が子供の頃は、まだ釜か木の桶だったのだ。今、そんなものを使うのは旅館等のみだろうが、役目を終えれば朽ちて自然に戻る。微生物も大活躍してくれて、それは人間と共存の関係だ。知能の塊の粘菌から学んでいる現状を知る人がどれだけ居るのか?

何も無理やり木に回帰するべきだなどとは思わない。人口が爆発した今、それは及ばぬ事である。木の文化だった江戸時代から爆発した人口で、木材を使い始めたら禿山の国になったのは戦後が証明しているわけで、無理を無茶として挑戦してはならないことであろう。豚コレラだって地球が生み出したものであって、人類に都合が悪いから敵視しているだけであって、損得勘定に巻き込まれているだけである。

自然に損得は無い、得失は人の心の中にしか無いものだ。皆、「得」を手に入れたいと躍起になるが、足元が壊れ始めていることを忘れてはならない。爆発し続ける人口増大だが、小生が生きている間はそれは続くのだろう。戦争で焼けていない街角は様々な知恵が人にあったことを教えてくれる。もっともっと街に出たい。それを実行し続けたいと地図を眺めて喜んでいる私であります。

処分?

「もったいない」という言葉が2005年にケニアのワンガリ・マータイ氏によって見いだされ、ノーベル平和賞に輝かれたのは記憶に新しい。来日時に感銘を受けてそれを広めて頂いたのだ。日本人が成したことではないところが苦しい。

小生も感銘した環境3R(ゴミ削減 Reduce、再利用 Reuse、再資源化 Recycle)と尊敬の念 Respectを含めた4RがMOTTAINAIであり、国際共通語として用いられている。しかし、それが社会の中の本流となっているのか甚だ疑問である。デパ地下に並ぶ高価な食材が本当にその日の内に消えてなくなり、人々の胃袋に収まるのか?

そんな魔法みたいなことはきっと無くて、偉大なるゴミとなって世の中を徘徊していくのであろう。その後を付け回したことが無いので謎であるが、最近、名古屋市内ではRecycleステーションが随所に見られるようになって、これは嬉しいのだ。マナーが問題で、箱分類されているにも関わらず、ラベルとは異なるものが投げ込まれている現状を見かけるが、場所によってはしっかりとしていて好ましい。そんな場所を利用させて頂くことになる。

豚コレラは人に移らないという。しかし、食肉としようとすると、その過程において菌の伝播が発生する。よってその場での殺「処分」となってしまう。繰り返しになるが命が「処分」という単語の下に入ってしまうのだ。それが公然と言葉として使われる文化に苛立ちを覚えるのだ。命の尊厳はどこに行ってしまったのか。乾いた心の成せる業か。

縄文

生きている空間に怖れを抱く文化は、遺跡から発掘される遺物から明らかである。体毛が鵜しわわれた頃から既に化粧を行い祭りを行っていたことが喜望峰に残る遺跡から認められている。石の文化故に遺跡となって何万年もの時を超えて現代に繋がっているから有難い。言葉を巧みに使い、食料を分かち合ったホモサピエンスが人類の歴史の覇者となったわけだが、それはいつまで続くのだろうか。

自然環境を破壊し続け、化石燃料を使い続け、大気も水も汚しまくっている現状である。我が国においては自然と共生し、繁栄を極めた三内丸山の縄文の諸先輩であったが、寒冷化という地球の営みによってその地を離れることになった。その遺跡から見いだせる神への畏怖は今の社会に伝わっているとは感じられない。

そんな中で豚コレラの大流行などが、これまた自然の中で流行している。あっちでもこっちでも、一頭の猪の行動結果とは考えられない範囲で発生している。このままでは国内の畜産業は滅んでしまうのではないかと感じている。これまた毎年の如く発生する鳥インフルエンザとて、その原因が究明されたことなど無いではないか。豚コレラも未解決のまま終わってしまうのではなかろうか。

残さず食べるよりも前に、必要なだけ作るということなのだろう。チョコレートという嗜好品すら、某日の後に山積みされて、あれは一体、どうなるのだろうかと不安になってしまう。パッケージには豊かな装飾が施され、凄まじいエネルギーが無駄に捨てられる。それが繰り返される地球はどうなるのだろうか。

サタンバグ

泣けてくるのは何も自国の食料を食べられないという理由だけではない。それはとっくのとうに実現してしまった、いや、国家国民が望んだ結果であるから文句の付けようというか、従わねばならぬ。如何なる農薬も、毒も食さねばならぬ。PM2.5リッチな空気も拝んで頂かないといけない。はしかもインフルエンザも可愛いものだ。

豚コレラが極めて悲しい状況になり、愛知県下を席巻していく。何万という尊い命が失われるのだ。こんなことが許されるはずは無いのだ。罰が当たらねばならぬ。どんな罰かはわからぬが、小生も覚悟しているところだ。人間のために無駄に命を捨てる。許されまじきことだ。

豚コレラと並んではしかが話題になっている。インフルエンザはどうやら下火なのかなと思いきや、決してそうでもないらしい。しかし、感染力がインフルエンザの10倍以上で、しかもその発症効果は、次世代を絶やす強い毒素を有するのだ。

がきんちょの頃「サタンバグ」という映画があって、如何なるワクチンも存在しない細菌を、兵器としてまき散らそうとする輩と戦う正義との対決映画だったのだが、調べてみたら1964年の映画で、よくもまぁ、記憶にあったものだと呆れてしまう。それだけ細菌という見えないものを恐れていたということだろう。天下に恐れが無さすぎる。畏れる心を持たねばならぬ。そう思う。

人が暮らす街

東京を歩いてみると、木の風呂桶、金太郎飴などの看板を揚げていらっしゃる。内燃機関が無くなるから仕事を作ってくれとか、興味本位でちょっかい出したからお金が回る仕組みを作れだとか、いろいろと仰っていただける城下町とはえらい違いだ。あぁそうですかと思うだけだ。見下し、足元を見る方々と会話はしたくない。それだけのことだ。

金曜日の東海道新幹線が時速285kmしか出さないことに腹を立てる事はない。車窓の明かりは飛んでいく。しかし、その明かりを背負う心は錨で固定されている。東京の一夜はあの町の一年と甲斐さんは言った。それどころではない。世界の一夜は、我が国の企業、大学を消し去る瞬間を創り出しているというのに、誰もが内向きになる。それが学者だからこそ、お上はそんな組織は要らないと言う。ご尤もだ。

日本列島の生い立ちとそれ故の今において、空母だ戦闘機だと言っていられない事実があるのに、気分はもう戦争の国民はやはりそっちに進むのでしょうね。対話の無い星の上で、同盟もへったくれもない。逆に、対話・会話のあるところには思いやりはやっぱり生まれるものだ。それが共創というものだ。それを行わず、相手が悪いと喚き散らす。それが国際社会との関係性だ。

そんなぎゃあすか叫びまくる社会に迎合するのは極めてらくちんで、凪いだ海に子船を浮かべ、一杯やっている景色である。ところがそんなわけにもいかないわけだが、国家は泰然自若と選挙に行かない国民を優遇する。愉快な国家である。教育と人財育成を混同している愚かさゆえか。泣けてくる。

思考し続けるということ

石油の活用にせよ、地球が生まれて生命が滅びて、それを資源という美名に置き換え都合よく使っているだけだ。水素燃料電池にしても、宇宙において合成された水素と酸素の化合物が、たまたま地球に届いたものを分解して使うだけのことだ。燃料電池の中で何のエネルギーも活用することなく水を電気に変換できるという代物ではない。褒められたものなのだろうかと疑問に思う。

人類が活用するためのエネルギー発生と、その活用に研究テーマは二分されるであろう。ほんの僅かな割合が芸術と呼ばれる思考に充てられているのみである。このエネルギー活用において、波力や風力という地球の回転と太陽の熱エネルギーから生まれる資源の活用が活発化していることは、人類が真っ当な方向に動いているなと感じるわけだが、一人当たりが今の生活を維持しようとした場合には効率が低く、現状、それだけで何とかなる代物ではない。

太陽電池モジュールの寿命は30年と言われているが、既に、この10年で増え続けたモジュールの発火事故がぐんぐんと増えている。屋根の上のモジュールが発火するわけだから、これは所謂「火事」という状況であろう。クリーンなエネルギーを求めた結果が、全財産の消失を招くとはなんと悲しい事であろうか。それを工学人がアシストしているという事実に目を背けることは出来ない。

農業従事者人口が減少を続けているわけだが、エネルギー消費量が減少しているというお話は全くない。工業製品生産の高効率化は猛烈な勢いで進むわけだが、それとて工業製品活用者の増加には追い付かないのが現状だ。地球環境を生命が変化させた初めての状況にあって、小氷河期がやってきたなどと、温暖化と氷河期が中和出来ると認識する社会の悲しい事。定量的数値を眺め続けても食料が湧いてくるわけではない。社会福祉に掛かる費用などとっくに無くなっている国家において、どうジタバタするかだが、はてさて、どんなテーマ設定があり得ようか、思考は終わらない私であります。