出逢い

出張の旅がらすで、連休前から移動しまくる小生であるわけですけれど、事故など起こすことなく、また、出会うことも無いよう祈るばかりである。過去、悲惨な現場に幾度となく遭遇してきたわけだが、それだけ、小生が移動しているということなんだなと妙な納得感があったりして。移動しないと「出来事」に出くわさないし、思い出もできない。それが相当数あるということは、それだけ移動してきたということだ。

大抵のところには出掛け、大抵のものは呑み食いしてきた小生ではあるわけだが、それでも、新しい出会いがあるわけです。同じ場所に出掛けても、新鮮な気持ちになれる、そんな自分であり続けたいものだと真摯に思うのです。今まで気になっていたけれど立ち寄っていない店とか、いろいろありますからね。日本では古き文化がどんどん消えるという、摩訶不思議がまかり通る。小生的にはどんどんつまらなくなる国であって、とっとと走り回らないといけないと感じている。

木と水の国だから、手を入れないと腐敗し崩壊していくのは仕方が無いとしても、捨てちゃう、壊しちゃうというのが当たり前に発生していくわけですが、ゲームのリセット感覚なんでしょうかね。大垣の枡屋さんの大橋量器などは、日本の計量という文化を今に、そして後世に伝えていっていらっしゃる稀有なお会社で、心底、応援したいと思うわけですな。そんな方々ともっともっと出逢いたい、その為には走り回らないといけないわけです。

いよいよ大型連休が始まります。どうぞ、皆様も遠いところ、知らない街の体験を積み重ねられ、素敵な思い出を作ってくださいね。物は無くなり、ゴミになりますが、思い出はいつまでも輝き続けます。それを持つ人とそうでない人との差はとても大きい。ちょっとは無理をしても、ひたすら移動してみようかなと、ちょっと面倒なお仕事は、連休明けに積み重ねて、新鮮な出逢いを求めてうろつきまわる、連休の私であります。

10分を後悔するのは

新幹線を乗り継いでいくと、日本列島を縦断できるわけで、気楽な長距離移動が可能な時代になっているわけです。遠距離だなと思っても、新幹線と言うツールは点と点をあっという間に繋いでくれる。新幹線から降りると、折角新幹線が稼いでくれた時間をロスする乗り物だらけだなと、我儘な自分に苦笑いだ。

旅行の楽しさと面倒くささがここにあって、休日の地下鉄などは10分に1本しか出なくて、乗り過ごしたら悲惨な事になる。10分のロスである。その間に何が出来るのかとか、つい、いらいらしてしまうわけだが、考えてみたら、移動と言う行為そのものが無駄の積分であって、その中の10分であると諦めれば良いのだ。

この10分という時間をどぶに捨てた事を後悔するくらい、日頃、きゅうきゅうと生きているのだなと、なんだか自分が哀れに思えてくるのです。10分くらい良いではないかと納得するのに2,30分掛かったりして、もうこうなると大馬鹿の一つ覚えである。

考えてみると、どっかに出かけなければならないとなった途端に、ネットで時刻表を検索し、地図で場所を確認し、乗り継ぎはどの経路でと、事前調査に相当時間を掛けるわけで、これそのものが既に移動時間に組み込まれていると認識するべきなんでしょう。旅はお気楽極楽が良いわけで、大型連休においては、ちょっとはお気楽極楽な精神状態を頂きたいと思っている。

狭い国の文化

海外旅行などはまったくしたく無くなりましたな。それよりも河原でバーベキューみたいな方が余程気楽で気分爽快。温泉も良いのですが、足湯くらいで文庫本を読みながらだらだらする程度でも良くなってしまった。生活習慣と言うか趣味というか、随分と変化してくるものだなと、自らの生活スタイルの変化に驚いたりもしています。

新聞紙上で、大型連休中の人手不足が叫ばれておりますが、確かにそれはあるでしょう。何処かに小生が出掛ける時は、大概、連休だのお盆だのということになるわけで、そうなると多くのご同輩の方々が、やはり狙って移動をする。地方の道の駅のようなところには人が集中し、レジなどは長蛇の列になる。それが10連休である。どうなってしまうのだろう。

暢気に休みを取って移動しようというお気楽軍団と、それを待ち受ける過酷労働環境軍団とのせめぎ合いになるわけで、お気楽軍団側に、ほんの少しの思いやりが欲しいところですな。レジで大声で叫んでいる人を見かけることもあり、そうならないように、こちらも心に余裕をもって行動したいと思うわけです。これは、まぁ、日頃のお仕事でも同様なんですけどね。

ロングドライブは楽しいものですが、自動運転で安直に行動したいなとも思うのです。今の、電気自動車と言うか、自律した自動車と街の在り方というところに、本当に真剣に取り組むべきだと思うのですよ。災害に強い街の在り方とも密接に絡み、我が国にとって喫緊の課題と思うのですが、どうもそうはなっていないような気がする。自社だけ儲けようという発想は、そろそろ捨てても良いのではと、狭い日本、思うのですけどね。

どっちに向かうか

あんまり政治寄りのお話をすると、何処からともなく槍が出てくるので、深入りはしない。つまらないと思われようとも、まぁ、そういうことだ。ということで、今週はやはり大型連休のお話が旬だろうと思うのだ。10連休と言う空前のお休みを頂いて、小生もどうしてくれようかと悩んでしまったりもする。

日頃、休暇でのんびりお休みなんて生活とは程遠いところに生きているので、有意義に過ごそうと思うのだが、休暇と言うものは怠惰で無為に過ごすことが重要な気もするのだが、そこはけち臭いので、何か面白そうなことをしてみたいとも思うのだ。週末にマーケットに行ったのだが、プール用品などがずらっとならび、あぁ、成る程、南の国で過ごす人が多いのだなと、ややうらやましくもあったりする。

過去、がまの油地方に居た時には、兎に角、北に向かって動きましたな。東京方面は人と車でごった返し、移動したら肉体と精神が不健康になるという状況で、空いている方角に向かった記憶があります。名古屋市内からだと、これはこれで街中は混雑するわけですが、高速道路のボトルネックを飛び越えてしまうと、関東程の渋滞は無いことが有難い。動きますからね。

過去、虎ノ門から1km進むのに2時間掛ったという首都高速駐車場のトラウマがあり、東京方面には兎に角車で移動したく無いというのが素直なところ。そもそも東京を車で走る愚は地球環境に優しくないしね。どこにどう行くかは決めてはいるものの、日頃の精神的疲労を少しは休めたいなとは思っております。

連休を語る前に

愛知県では2週前の地方選挙であったが、全国平均的な投票率が40%そこそこと、なんともお粗末な数字である。お粗末と小生は思っている。選挙区によっては立候補者が定数を満たせないということで、政治と国民と言うか、行政と国民と言うか、その離反の度合いが選挙のたびごとに大きくなっている。

立候補する側の広報を読んでみると、一昔前に比べて不具合解決型のマーケットインタイプになっているなと感じる。不具合に感じていない人には全く関係が無いわけで、生活が変わらなければ投票しなくても良いかなということなのかもしれないけれど、決してそんなことはない。

お役所の方々とお付き合いをさせて頂くと、その決め事の多さと細かさに驚かされる。一つの決め事に物凄くコストが掛かっている。そんなものAIにジャッジさせてしまえば良いものをと思うものが沢山なのだが、そうでもない、これはもめるわなぁというものもある。そこにこそ代議員の思案と決断が必要なわけで、それは有権者の投票が後押しになるのは間違いないのだ。

投票してしまったら、あるいは、当選してしまったら全てがお仕舞というのではなく、投票したら、その者がもしも当選したとしたら、その活動中の責任は投票者にもあるのだ。国政において悲惨な状況になったとして、議員の不誠実な対応は全て選挙民の責任なのだ。それを共通認識として持たないと民主主義は崩壊する。地方選挙後半戦の投票率も極めてお寒いもののようだ。この国は何処に行くのやら。不安になる。

いつかは見える

夜空を彩る星々は日中は太陽の明るさに打ち消されて見えないだけであって、実はそこに存在している。人間の目に見えないだけだ。あると思って頼りにしても、梯子を外されるなんてことはざらにある。きっと小生にしても無意識に外してしまっていることもあるだろう。いや、あるに違いない。そう思ってそろそろと進まないと組織がでんぐり返る。それはいかん。

いかんのだが、人間のやることだから、そこには間違いが必ず潜んでいて、それを指摘してくれる人を大切していくことこそ、見えない組織力の源泉になると思っている。見えない心に刺さる苦言を「お灸」と捉えて踏ん張れるかを見える化することこそ進むべき道であろう。

全部が全部、見える化されると疲労困憊の世の中になりそうで、見えないで良いものは見えないままでいて欲しいと、やや逃げ腰になったりもするのだが、見えるべきものは見える化しなければならない。それが無意識に行われているようにするのが工学の一つの役目かもしれない。

見えない温暖化ガスが、人工衛星の目によって見える化されてみると、世界の経済活動の活発化と同時に温暖化ガスが増えるという、当たり前の結果も見えてくる。見えないふりをしている人よりも、見る気が無い人のほうが罪が重い。宗教家では無いが、そんな生命体にはなりたくないなと思ってはいるものの、余りにもやるべきことが増えてくると、五感も第六感も封じ込めたくなる自分が恐ろしい。そうならないように適度にのんびりしてみたいものだと、来年の満開の桜を、もう期待している私であります。

思考はゼロ円か?

教育という、その効果は受けた人次第という、なんとも曖昧で苦しい作業ではあるのですが、希望と信念によって骨格が創られ、人生の積分によって彩られた伝達者のバトンは確かに重いなと、最近つくづく実感するのです。自分は何を色付けたのか曖昧模糊として不安ではあるのですが、やはりそれは確固たる意志によって渡していくべきなのだろうと勝手に思う訳です。

希望と信念なんて目には全く見えないのだけれど、真実から形成されているものであるならば、工学者にはきちんと伝わっていく。しかしながら、伝えられた者が、それをどう使っていくのかは、受達者に依存するから恐ろしい。年齢を重ねて「自分は正しい」なんてことだけを想い出にしてしまうと、途端に社会の壁になってしまうのですな。一時期、バカの壁なんて言葉が流行りましたが、正にそれかもしれない。

研究者倫理の試験なんてものを受けさせられて、且つ、受験して合格したからその者は工学人としての有資格者だなぁんて、なんともはや、既にその仕組み自体に疑念を抱きそうになるのですが(表現するのが厳しいぞ)、インチキが横行しているから仕方がないということなんでしょうね。

学理の探求ほど面白いものは無いわけで、目に見えないから思考する。工学の進化で目に見えるようになると「なぁんだそういう事か」となって夢が覚めるわけで、しかし、そこに真実があり、学理が工学の仲間入りをしていく。目に見えない思考こそ社会還元の種であり、育てるべきなのに、それはゼロ円だと決めつける経済活動がある。倫理観欠如の真実がここにあると実感している。

ご都合工学

中部圏にやってきて、それこそ年がら年中(大げさ)出掛けている場所が奥三河地域である。1500万年前の火山地帯を感じることが出来る、極めて貴重な地域であって、新東名と建設途上の三遠南信道を使えば、あっという間に東栄に到達できる。ダムの底に沈んでしまって見ることはできなくなったが、大地を割いて上がってきた溶岩の岩盤などは、自然の力を見せてくれる筈なのだが、人間はダムを作って見せ無くしてしまう。

エレクトロニクスなどを否定することは簡単だが、生まれたからにはそう簡単には死に絶えたくないと、自然に抗うのが命というものだから、工学そのものを否定したりは決してしない。その在り方、使い方が世界中で見直さないといけない状況になっているということだ。

デザイン思考などと奇麗な言葉が流行っているのだが、正確さよりも満足度を高くすることを目指して思考するというのが根本にあるのだが、それはそれで無意識に生命が行ってきたことにラベルを張っただけに過ぎないので、言葉はどうでもよろしい。3Dプリンタなどは思考のサンプルを目の前に創り出してくれて、思考の相方として「見える化」の道具として極めて優れていると感じている。

きっちり形を決めてゴールに到達する道筋を最適化していく過程で、決めたゴールが間違っていたなんてことは良くあることで、それも含めたデザイン思考なのだが、ゴールを守って道筋にバイパスを造っていくと、見えないインチキが生まれるのだろう。美しい仕上がりの予定が「そんなもん、機械的に出来ないぞ」という声に押されて汚らしくなる。そんなものづくりが未だに幅を利かせているのだなと、昨今の見えないインチキの横行に出会う度にがっかりするのだ。

見せない工学

目に見えないけれどデータが示すという事であれば、自動車の故意の整備無視というのが流行っていて、その流行が止むことなく続いている状況こそ、日本の病巣と感じますな。ブレーキの整備がいい加減な状況で出荷されていることなど、購入者には見えませんからね。これはとても怖い事であります。

利益を追求するのが企業の本質ではありますが、企業の組織としての活動には社会に対する影響責任というのがありますな。持続可能な社会をステークホルダーと共に築いていく責任がある。信頼を超えて信用される立場、即ち、無意識の安心を約束しているべきなのに、その見えなくても良い安心が、実は無かったとしたら社会への負の影響は余りにも大きい。

ネットのお陰か、ものづくりのインチキが世界中にあることが伝わってきて、ものづくり研究者として辟易するわけです。目に見える必要はないのに、見せないといけないのかと。倫理教育などが大声で叫ばれるのも、結局は、見えなくても良い倫理観を、見せないとお互いが信頼しあえないという、生命としての不連続状態に来たのかなと、全球凍結しなくても種が滅ぶのではと思ってしまうのです。

天が与えてくれた自然現象を、人が暮らしに取り込み便利を感じ取ることを可能にする思考が工学の筈ですが、そこにはインチキが無いということが前提であって、車軸が折れるような自動車を企業が売っているとなったらどうでしょう。経済活動などむっちゃくちゃですな。その時、人はどんな行動にでるのやら。

温暖化ガスは見える

地球温暖化と言うと「あれは嘘」という人々の大声に耳を塞ぎきれないので、温室効果ガスの増減位にしておくのが良かろう。具体的に温室効果ガス濃度が閾値を下回ると、地球全体が結氷するという事象が、過去、少なくとも2度は生じていると、化石や迷子石分布の研究から明らかになっている。だから生命が維持されるためには温室効果ガスはゼロにしてはいけないのだ。

ゼロにするには生命そのものが、地上からほぼ居なくならないといけないので、その議論そのものに意味が無くなってしまうので、それは思考の外に置くことにしよう。温室効果ガスとして働いている分子として炭酸ガスやメタンガスなどが、その存在量から主人公となっている。

地上観測点は沢山あって、また、航空機などにも観測機が搭載されているけれど、海上に限らず全球を観測出来ないと意味がない。そうなってくると宇宙から見ないといけないということになりますな。実際に2009年から正確な全球上のCO2濃度が観測されている。

そのデータを拝見すると、夏と冬で明確な差が、赤道のあっちとこっちで出ているのですな。活動が活発になれば増え、逆もまた真なりで、濃度は薄くなったり濃くなったりを年単位で繰り返す。さんまの不漁などは叫ばれていない時代の事だ。それが2014年を過ぎると、明らかに全球で増加して、こりゃぁ北極海航路も冬に出来るわなぁとなっているわけです。目に見えないので分からないけれど、確実に温室効果ガスは増えているなとデータは示しているわけですな。