教育という、その効果は受けた人次第という、なんとも曖昧で苦しい作業ではあるのですが、希望と信念によって骨格が創られ、人生の積分によって彩られた伝達者のバトンは確かに重いなと、最近つくづく実感するのです。自分は何を色付けたのか曖昧模糊として不安ではあるのですが、やはりそれは確固たる意志によって渡していくべきなのだろうと勝手に思う訳です。
希望と信念なんて目には全く見えないのだけれど、真実から形成されているものであるならば、工学者にはきちんと伝わっていく。しかしながら、伝えられた者が、それをどう使っていくのかは、受達者に依存するから恐ろしい。年齢を重ねて「自分は正しい」なんてことだけを想い出にしてしまうと、途端に社会の壁になってしまうのですな。一時期、バカの壁なんて言葉が流行りましたが、正にそれかもしれない。
研究者倫理の試験なんてものを受けさせられて、且つ、受験して合格したからその者は工学人としての有資格者だなぁんて、なんともはや、既にその仕組み自体に疑念を抱きそうになるのですが(表現するのが厳しいぞ)、インチキが横行しているから仕方がないということなんでしょうね。
学理の探求ほど面白いものは無いわけで、目に見えないから思考する。工学の進化で目に見えるようになると「なぁんだそういう事か」となって夢が覚めるわけで、しかし、そこに真実があり、学理が工学の仲間入りをしていく。目に見えない思考こそ社会還元の種であり、育てるべきなのに、それはゼロ円だと決めつける経済活動がある。倫理観欠如の真実がここにあると実感している。