新しい電池に思う

成る程なと思う技術が世の中には沢山あって、その中の一つがご存知CO2電池。空気電池では無く、液体から気体になる時にタービンを回すという、なんとも教科書的な発電手法だ。要は、地球が作り出す風を気化の膨張で作り出そうというわけだ。大量なCO2の閉じ込め技術にもなるし、発電も出来る。ただ、CO2を「そこで」出さない為には、風力発電などのクリーンエネルギーが必要になってくる。風力発電機を作る時のCO2発生は、この際、目をつぶろうというわけだ。

液体窒素を1リットルのペットボトルに僅かに封じ、室温でほうっておくと巨大な破裂音と共に爆発粉砕する。それだけ気化のエネルギーというものは大きいのだ。液化温度が低いものであればあるほど大きくなるというのは、それを冷やすのにどれだけエネルギーを使ったかと言うことに依存する。投入したエネルギーが解放されるということだ。空気中のCO2を集めてCとO2に分解して、ダイヤモンドにしたら地球温暖化が抑止できるという凄いことを言う人が世の中にはいらっしゃるが、どれだけエネルギーを使うのだ。そのエネルギーで直接的に地球を暖めるぞと言いたい。

話が逸れたが、実際に試験プラントはあって、リチウムなどの危険な元素を使わない事が最も優れていると感じた。そもそも愉快では無いか。ドライアイスを高い圧力にして液化して、それを開放することで圧縮にかかるエネルギーで発電機を回して、気化した炭酸ガスは自然エネルギーで再度圧縮して。まだまだ機械的に、無駄なく圧力を使うとか、コンプレッサ駆動にエネルギーのロスが多いとか、気化熱とか凝縮潜熱とか、エントロピー的なロスをどう減らしていくかという問題は山積なのですけどね。

自動車レベルの精度では気体の圧縮はガソリン並み。それを超高圧・低温環境で機械的にどのように作り込めるかと言うことで、日本の企業がどれだけ入り込めるか解らないですが、自動車精度では太刀打ちできないので、半導体加工機企業の出番かなと思ったりもする。しかし、それとてどれだけ参入できるか。結局は素材、加工を徹底的に研究し尽くして、世界のトップレベルを獲得、そして成長させることが出来るかですけどね。面白いものがあっても、物まねも出来ない国になりつつあるなと思う次第。

要注意

海外からのお客様達にとって、日本人が揃ってマスクをしていることを極めて奇異に感じるらしい。実際に、海外出張から戻られた方から日本の往復便だけがマスクを義務付けられて、相手国に行ったら機内でマスクをしている人は殆ど居なかったと聞いている。海外では職場でのマスクはもう遥か彼方だそうで、自社に戻って事務所で「マスクを外そう」と提案したが否決されたとの事。まぁ、連日、数字が生活に圧力を掛けてくるのだから、それはやむを得ないのかもしれない。

BA5派生のワクチンが、愛知県内でも先日来広く接種が始まった。始まったとたんに広域接種会場では予約がいっぱいで、もう受け付けられませんと言うお返事だ。クリニックでの接種においてもかなり混雑してきた。職場において有休を獲得するなどして、接種に努めて頂きたい。その数時間で成し得るお仕事よりも、御身大切に行動して頂きたい。なかなか許される時間というものが無いのだが、それは意識の持ち様である。健康が一番である。そこを中心に考えて行動して頂きたい。

今、じわじわと感染者数は増えているわけだが、これからずるずると来年の共通テストの頃まで増え続けるようだ。AIの予測であるが、それはあくまでも過去の事例に則ってということだから、悪しき事例が加われば、更に増加、そして前倒しということもあろう。ピーク期間が長引くこともあり得よう。ワクチンの第二回接種の時を思い出すと、絶対に嫌だという気持ちは解らないでもない。しかし、罹患者の後遺症のお話などを聞くと、やっぱりワクチンは接種するべきだなと思うのだ。主観だが。

様々なマスコミが様々な論調で、こういう理由で爆発的に増えないとか、カウント数が減っているからだとか、結局のところ、我が国はDXという意識は全くなく、他国がコロナ禍よりも経済活動だと、まぁ、それに乗じた観光促進なのだが、気持ちが悪いと思っている人にまで、マスクを外せと言うのは間違いだ。マスクをしていない者に飲食店員が注意をしたら暴力を振るわれたというニュースもある。氷山の一角であろう。インフルエンザもことしは大流行の兆しがある。自分の身は自分で守る。それに限る。

常にがけっぷち

11月も最後の週に入ってきた。それでもまだ一か月もあるのだ。常に新しいことを生み出し続けねばならない。勿論、今年も反省が多かったわけだが、それもいろんな要因が重なって、自らだけではどうしようもない組織の論理や、社会の加速的流れとか、さまざまであった。天気予報によれば今週からいよいよ寒気が南下してきて、本州でも雪が降るだろうとのこと。コロナにもインフルエンザにも気を付けながら、残りの月を過ごすことにする。

大学の有り様という点において、深く厳しく考えさせられ続けている。人事云々は勿論だが、それは戦略の中の戦術の一つであって、組織の変革と共に最大限に力を発揮できる姿を描いて打つものである。私的な感情論でどうするべきものではない。もう時代が大きくかわり、何年経ったからとか、何歳になったからということは関係ない。組織の変革において共に頑張って頂けるのか、それは何をもってかという絵に乗ってこないならば、それは厳しい時を迎えることになる。日本の国のそのままの縮図だ。

悲しいかな、学会の閉鎖性と言うか、これは凄まじい。それを破壊的イノベーションによって粉砕し、自らの立ち位置を変えていく程の挑戦には、それこそ恐ろしい程の体力を使う。生半可なことでは不可能である。今の姿が最も正しいと思っていらっしゃる方々にとって、世界の社会の有り様などは二の次になってしまう。延々と続く学理の探求に身を置くことだけが進むべき道で、それを次世代の若者に伝えることを使命とする、それは分からなくはないが、それは場に応じてである。鶴舞はその地か?

講義の体系、学生と大学との関係の有り様。多くの方が変革が必要と思っているのだが、それを成す事は組織そのもののガラガラポンに挑むことを意味する。社会も劇的に変化している。未だに、大学は無料相談所と思っている企業の何と多いことか。もうそんな時代ではないのだ。未来を語らないコンサルティングファームにお金を捨てるのなら、若い研究者と共に、10年後の変革を目指してみては如何か。多くの企業にそんな体力は残っていないだろうが、座して死を迎えるよりはましかもしれない。そう思う。

老害

帝国データバンクによれば日本には約359万の企業が登記されているとのこと。勿論、スタートアップなども入っているので、大企業がそれだけあるわけではない。大企業分類されるのは約1.1万で、そんなにあるのかと驚いてしまう。そこに登録されている従業員は4679万人程度ということ。大企業の割合は全体の0.3%に満たない数字なんだけど、所属している従業員数は1459万人で、全体の31.2%だ。0.3%に約30%の人が雇用されているという定量データを拝見すると、流石は大企業だなと感心する。

その中で、これは約3割の企業からの回答なので、全数と言うことではないのだが、女性が社長でいらっしゃるお企業が約8.2%あるとのこと。調査が開始された1990年には4.5%だったものが約30年掛けて倍になった勘定だ。もっと加速的に増えていって欲しいと思っているのだが、DXという状況がどれだけそれを加速させるのか楽しみではある。小生は中部圏の女性経営者の会などに参加させて頂いているものだから、もっと遥かに多いのかと勘違いをしてしまっていた。そのパワーたるや、迫力満点である。

県別にみると岐阜県が日本で最も女性社長の割合が低いとのこと。野田聖子さんが頑張っているイメージがあったので意外だなと思った次第。日本はまだまだ男性社会で、所謂経営者の500人規模の集まりに参加させて頂くと、スーツだらけで面白みに欠ける。だからなんだということでは無いのだが、一度言い出したら後には引かない女性経営者というイメージがあって、まぁ、小生が出逢ってきた方々がそうなのだけれど、革新的なことを思い切ってやってしまえるのって、素敵だと感じているのだ。

女性が経営者になる!と手を挙げさせない環境を遺伝子が臆病な男子が作りこんでいるのだろうなと思ったりする。育児や家事の分担など、ようやく政府の考え方が出てきてはいるが、一方で、身の回りの老害がそれらをも阻んでくるのだろうなと感じている。政治の老害も悲惨だが、一般庶民の文化としての老害は悲劇的だと思う。自らもそうならないようにとは思ってはいるのだが、やんちゃで居るとそれはそれで奇異と捉えられ、お堅く居ると老害と言われる。難しい年ごろである。

脱私物化のDX

丁度、2000年の頃、今から22年しか経過していないのかと、ちっとも変わらない筈だと理解した。当時、会社回りをさせて頂いた時に、かなり大きな企業様だったけど社長殿の仰りようが「当社は非正規社員を増やして正社員比率を下げ、人件費を抑えて利益を出す」という、今も日本企業のベースにある考え方だ。新規開発に挑み利益を上げる努力をするのではなく、雇用を切って「出を抑える」生き残り方だ。ここに良品廉価の根源があるのではと感じる。

先日、小生にとっては極めて優良な、そして要素技術をお持ちのお企業様から、業界の浮き沈みに関わりの無い新規事業を創りたいので、何をやったらよいか教えて欲しいと、まぁ、極めて良くあるお話が持ち込まれた。お話を伺うと、リーダーから言われたのが「価格優位性のある商品を作れ」という指示だったそうで、ここにも良品廉価の呪いがある。価格優位性を出すために命令されたのが「リバースエンジニアリング」とのこと。一つの技術に固執して、私物化してきた企業の終焉がそこに見える。

素晴らしくお金が掛かったパンフレットに堂々と書かれる「早く安くお客様にお届けします」という謳い文句。派遣社員殿より安く設定される正規社員の給与。そんなことで作り上げられたリバースエンジニアリングの結果が、購買意欲を喚起する筈が無かろう。御多分に漏れず、無料相談となるわけだ。智慧には銭を出しませんという、良品廉価企業の得意技だ。時間泥棒に遭遇しただけで終了だ。

日本の企業がDXというものを排除するのは、私物化主義で独善的経営を護ろうとするからであろう。デジタルと言う共通言語で他社に自らの無能さを知られるのが嫌なのだろう。二極化した日本企業、いや、企業だけではない、大学も同様だ。勇気を出して共通言語で語り合い、自らの非力を改善し新たな強みを作り出し続ける。共創は新たな場づくりだが、その場で活きる自らでなければならない。それこそがDXであり、意識の変容を受け入れねばならぬ。「出を抑える」だけでは先は見えている。

礼賛せよ

最近、全く出来ていないことを残念がっている中に、お坊様との対話がある。今年のお盆に偶然に講話に臨める機会があったのだが、そのお話が余りにもつまらなく、片手間感満載で、お布施と講話の質は比例しないのだなと思った次第。まぁ、お若い方だったので、手短に済ませようということだったのかもしれない。その昔のお寺さんのお話と言えば、やたら長くて耐えがたいものであったが、印象に残るお話もして頂けたと記憶している。

天狗になってはいけないと、自らを戒めるのだが、気を付けないと調子に乗っておバカな状態になってしまうので要注意だ。そんな時に思い出すのが大仙院の舟石のお話だ。深山幽谷の滝から流れ落ちた若水がしぶきを上げて磨かれて、堰を通って大河となっていく。その大河を進む舟石なのだが、そこにお坊様から刻み込まれた一言が残っている。広い世界に天狗になって人は出ていく。お調子者はそれで終わる。しかし、この舟石はしっかりと尻が座っている。尻が座っているから天狗の鼻にはならないのだ。どっしりと構え前を見ている様になると。

お話を頂戴した頃は、正に、いけいけどんどん?だったかどうかは覚えていないが、いや、きっとそうだったに違いないのだ。その時にしっかりと腰を据えてお仕事をしなさい。前をしっかり向いて腰を据えなさい。するとこの先、より広い大海に出ても自らの力で進んでいけますよと。何とも若造に向けて丁寧にお話をして頂けたことよと、ふと、30年経ってこれを書き残しておこうと思った次第。しょっちゅう思い出すのだけれど、何故か書いておこうかなと。

思いの他、事が上手く運んでしまうと、自分だけの力だとか、あの時の事の運びは上手だったなと自画自賛に陥ってしまう。こんな時は三宝を礼賛し自らを生かして頂き、そして活かして頂いたことに感謝し功徳を讃えるのが良い。自らを律し臆病に閉じ込めることは悪い事では無い。丁寧に一歩一歩とはこのような取り組みの事だ。自らの中に舟石を持てと、きっとあのお坊様は仰られたに違いない。お礼の行脚に参りたいものだとふと思った。

お仕事とは

元来、仕事と言うものは自ら創るもので与えらえるものではない。これは好き勝手なことをやれば良いのだということでは決してない。自らの好みで組織のベクトルと相いれない行動をしても良いというお墨付きでは決してない。一つは、あれやこれや手ほどきを受けながら、誰かのコピーになるなと言うこと。もう一つは、基本的に仕事の指示(作業にあらず)は、指示者ですら真のゴールは見えていないのだから、組織として最善と思われる未来を作り出せと言うことだ。勿論、後者の意味が大きい。

とすると、当然のことながら、指示者待ちであってはならず、先手先手と上司に働きかけて、上司の思考を越えるものを創造するべきだ。企業であればコストも当然その思考に入るべきだが、講義の内容などにおいては上限は無いわけだから、徹底的に先回りをして受け手の喜びが最大化するように行動するべきだ。受け身になるなど、もっての他である。

仕事は大きければ大きい程宜しい。組織が転覆するかもしれない時には、進んでその仕事を勝ち取らねばならぬ。失敗したらどうしようと尻込みする者はまだしも、最初から他人であることを決め込む輩のなんと多いことか。大きな仕事は失敗が常。失敗するから組織も、そして挑戦した者も浮かばれるのだ。成功などは有り得ないのだ。成功したなと思う仕事は、所詮、小さな仕事であったのだ。身の程を知ることだ。どんなに大きくても、君の目の中に入ってきた程度の大きさなのだ。それは小さいに決まっている。

生きることは実に辛い。難しいことばかりである。困難ばかりの人生であるのだから、仕事においても垂直に無限にそそり立つ壁に向かって行かねばならぬ。どうしようもなく、もう、絶望以外に思考は巡らず、それでも全身をその壁に打ち付けていくことで成長がある。選択肢は困難でなければならない。真実に基づく信念から発せられる己の気迫のみが、他に納得の二文字を腑落ちさせるのだ。祖父の遺言を見ていて、改めてそう思った。

学びなさい

博士人材のお話をさせて頂いたのだが、経験上、持っている博士号が役に立ったのは大学に就職する時だけで、後は持っていて当たり前の社会だし、何の役にも立たなかったというのが正直なところだ。そうかと言って、博士課程学生生活が無駄だったということではない。一方で、Job型雇用が当たり前の世の中になって、リスキリングの講座等で何か新しいスキルを身に着けて新たな挑戦なんて時には、きっと役に立つと思っている。集中力と粘り強さは必ず役に立つ。これは断言できる。

時々見かけるギフテッドというものだって、どんどん飛び級でその力を伸ばして上げれば良い。同じ年齢層の人達と全てが同じ指標で評価されるなどと言う陳腐な世界観は願い下げだ。人は違わなければならないのだ。同じ人間が居て何が嬉しいのだ。何と愚かな考え方か。違うから必要なのだし、違うから新しいものが生まれるのだ。新しければ良いという事ではないが、同じ思考の組織だったら、結局一人しか居ないのと同じことでしょ。ダイバーシティ0ということになる。そんなつまらない組織は要らない。

要らないのに、同じルールで同じレールに乗せるために、生まれた時から同色に染めようとする我が国なのだが、恐らくなんだけど、政治家諸氏は自分達より国民を愚かにしておかないと恐ろしいのかななんて思ったりすることがある。優秀な政治家だなと思っていると、いつの間にか端っこに追いやられて消えて行っちゃうしね。失言だけの大臣諸氏には辟易するし、そんな人を選んだ選挙民も同罪にすれば良いのになと思ったりもする。選んだらおしまいでは無いのだ。無責任な投票が宗教と政治の密着みたいなことを発生させる。

学ぶ機会は何処にでもある。学ぶきっかけだって凄まじく有る筈だ、ぼぉ~っと地下鉄に乗って、会社に行って言われたことをやって、そのまま帰宅して寝るなんて人生観は、そもそも間違っているのだ。死ぬまで勉強をし続けないといけないし、努力は継続しなければならない。何か言い訳を見つけて学びを諦めるのは簡単だが、ほんの数日、数カ月と言っていると、あぁ、学ばなかったな、あの時こうしておけばって必ず後悔となってやってくるが、それはもう体にガタが来て学びの感謝を還元できなくなった時だ。出来ないのはやらないからである。当たり前のことだ。

博士人材に思う

我が国においては、学べば学ぶほど企業においては価値を下げられる。頭でっかちで専門バカは活用できないと、研究などに打ち込んだことの無い方々に使えないレッテルを貼られて久しい。最近、本当にごく最近だが、失われた30年において、博士取得者が社会弱者となって、冷遇されているだのが何故か新聞等で話題になってきている。経済成長を進めるためには博士人材の能力の活用が欠かせないとか、もっと重用しようとか、散々冷遇してきたくせに、都合が良い事甚だしい。

小生はガマの油地域に居たので、あの博士人口密度日本一の団地に住んでいたから、なんかずっと当たり前に過ごしてきたのだが、企業の皆様も博士持ちが周りに沢山いらっしゃるのだが、考えてみれば一部の大企業の研究職の皆様で、研究部門や自社開発の商品製造部門が無いお会社では、いらっしゃらないのが普通かもしれない。そもそも我が国では博士号所有者が少ないので、出会う確率も低いのは事実だ。

イノベーション創出を博士人材にって期待しているところが見受けられるのだが、それはちょっと考えようだ。勿論、正しい一面もあるなと思う。それは「何が何でも」という根性においては、博士人材には一目を置いて頂いても良いかと思う。今であればインフォマティクスと絡めて、高速アジャイルで狂ったように目的に向かう馬力、壁をぶち破る思考は捨てたものではない。新規なアイデアもその中で勝手に産みだしたりするからね。

ただ、社会的サービスを創り出せとか言っちゃうと、それをこなせるかどうかは別問題だ。猫とはさみは使いようで、博士人材も使いどころを間違ってはいけない。ただ、先に企業に就職した学卒者の方が渉外年収が高いとかね、研究者をリスペクト出来ない企業は雇用は控えて頂きたい。基礎研究は我が国では冷遇されるが、基礎があるから応用があるのだ。正しい基礎を作り上げる者を大切にしない国は、教育レベルも後退する。基礎を固めるから応用が出来るのだ。教育も最先端の基礎研究を基準にしなければならぬ。その関係性を無視して、博士人材を語ってはならない。我が国の政治家に博士取得者が不在過ぎる。そんなところから考え直さねば、博士人材で国を富ませるなど出来るはずが無いのだ。

人越えのAI

名古屋市内においても街路樹がかなり色づいてきて、間もなく、落ち葉でスリッピーになり、さらには霜が降りるようになって今年の自転車通勤も終わりを告げる頃になって来た。サドルポストが折れて、新しいものに取り換えて、微妙に高さを変えたり、サドルの前後の位置を変えたりして、久し振りにチューニングしたのだが、上等のパーツに変更して、安心感は高くなった。とは言うものの、通う距離が長く、高低差も大きいので、チェーンやギヤなどへの負担がかなりあるようだ。サドルポストが折れるという国産部品への不信感は払拭されることはない。機械製品の安心を失った我が国の寂しさである。

とある経路で、自動車部品の仕上がり具合と言うか、Tier上位が下位から受け取る部品の評価をAIに任せたら、不良品がやたらと出てきたということを伺った。「AI判定って厳しい方向に設定するからじゃないの?」と尋ねると、実は人間目視の限界を越えてきていて、人間では通り過ぎていたエラーをリアルにピックアップできるようになったからということなのだそうだ。ずっとAIによる画像判定は厳しめにやって跳ねた奴から逃人間が救い出すという概念だったのだけど、時代は随分と変わったのだなと思ったのと、もうAIで良いんじゃないと本気で思った次第。

で、AIって現場で何をやってくれるのだろう。論文や物語を書いたり、レポート相談窓口をやったり、相当の芸当が可能になってきて、勿論、センサの総合力の向上、その信号を余すところなく活用できるようになったCPUやメモリ、ソフトウエアのおかげなのだが、それらの進化によってヒューマンエラーがサブμレベルにまで至ったと言う事だ。絹糸一本の違いを読み取るとのこと。そうであれば機械部品のほんの僅かな歪すらキャッチアップするのだろう。近い将来、加工部品の表面化にある潜傷まで獲得し、サドルポストは折れなくなるのだろう。それが正しい姿だと思っている。

人が介在しないと安心できないという人種と、人が居ない方が安心できるという人種に別れる。これはそうだと思う。ブラックボックスから食事が出てきて、さぁ食べろと言われると何が入っているか解らないという恐怖に陥ったりするのだが、そんな状況はいたるところにあって、電子情報による監視の方が信頼できると僕は思っている。ハッキングだのなんだのがあるのだが、疑い出したら人だって同じだ。機械は人が創っている。AIだってそうだ。人が加工した自転車のサドルポストが折れる体験をしてみたらよかろう。素材の能力を最大限に引き出せない人による加工は無くなるべきだ。