礼賛せよ

最近、全く出来ていないことを残念がっている中に、お坊様との対話がある。今年のお盆に偶然に講話に臨める機会があったのだが、そのお話が余りにもつまらなく、片手間感満載で、お布施と講話の質は比例しないのだなと思った次第。まぁ、お若い方だったので、手短に済ませようということだったのかもしれない。その昔のお寺さんのお話と言えば、やたら長くて耐えがたいものであったが、印象に残るお話もして頂けたと記憶している。

天狗になってはいけないと、自らを戒めるのだが、気を付けないと調子に乗っておバカな状態になってしまうので要注意だ。そんな時に思い出すのが大仙院の舟石のお話だ。深山幽谷の滝から流れ落ちた若水がしぶきを上げて磨かれて、堰を通って大河となっていく。その大河を進む舟石なのだが、そこにお坊様から刻み込まれた一言が残っている。広い世界に天狗になって人は出ていく。お調子者はそれで終わる。しかし、この舟石はしっかりと尻が座っている。尻が座っているから天狗の鼻にはならないのだ。どっしりと構え前を見ている様になると。

お話を頂戴した頃は、正に、いけいけどんどん?だったかどうかは覚えていないが、いや、きっとそうだったに違いないのだ。その時にしっかりと腰を据えてお仕事をしなさい。前をしっかり向いて腰を据えなさい。するとこの先、より広い大海に出ても自らの力で進んでいけますよと。何とも若造に向けて丁寧にお話をして頂けたことよと、ふと、30年経ってこれを書き残しておこうと思った次第。しょっちゅう思い出すのだけれど、何故か書いておこうかなと。

思いの他、事が上手く運んでしまうと、自分だけの力だとか、あの時の事の運びは上手だったなと自画自賛に陥ってしまう。こんな時は三宝を礼賛し自らを生かして頂き、そして活かして頂いたことに感謝し功徳を讃えるのが良い。自らを律し臆病に閉じ込めることは悪い事では無い。丁寧に一歩一歩とはこのような取り組みの事だ。自らの中に舟石を持てと、きっとあのお坊様は仰られたに違いない。お礼の行脚に参りたいものだとふと思った。