プラスチック

同質のものを沢山作って、商材1個当たりのエネルギーを下げて、安く消費者に届けて頂いている企業が沢山。世界中でコスト競争と言うか、踏ん張りと言うか、それは凄いと思う。我が国においても漸くエネルギーコスト等が商品価格に転嫁されるようになり、その値上がりに魂消ることもあるが、まぁ、それは当然かなとも思う。自分の稼ぎではこの辺りの食材がお似合いだということだなと割り切って、甘んじるわけだ。

それでも企業殿の努力は凄い。何が凄いかと言えば、食材のパッケージ。空気は通さないけど、エチレンは通すとかね、水も通さずお菓子も長持ち。長持ちの陰にはフィルム業界、言ってみれば化学業界なのだけど、この開発には極めて長い年月と開発コストがかかっている。その素材に対して「全て植物由来にしないといけない」みたいな圧力が世界中から巻き起こっている。

植物由来樹脂と言うか、植物から抽出しないといけないのだけれど、現状の機能の発現を植物由来に求めるとなると、まぁ、ひょっとすると出来てしまうのかもしれないけれど、どれだけの開発期間と植物が必要になるのだろう。日本の様に何処でも雑草が生え、竹が繁茂するなんて国はそうそうざらに無い。植物が生える場所と言うと、アマゾンのジャングルが丸禿になったりするのかなとも想ったりする。あくまでも今ある能力を保って、食材も長持ちさせるという条件を考えただけだが。

石油という素材が生み出した、社会的価値の大きさを改めて感じる。様々に石油の由来について語られているわけだが、限られた資源であることは間違いなく、また、プラスチックと言う安定した素材が海洋汚染等を引き起こしているから使うの辞めましょうと言うことなのだけど、植物由来のパッケージが、生命を脅かさないとは限らない。地球を汚すことは悪だというなら、その根源は人間にある。その活動の根幹にある経済偏重を野放しにして、特定分野を攻撃の的にする。全ての見直しの時期だろう。人間が生き延びるためには。そう思う。

改革へ

名古屋にやってきてずっと聞かされてきた改良と改善。損得みたいなもので、以前より良くしよう、悪かったところを善くしようということですな。それはとても重要なことで、基本的活動であることは間違いない。しかし、フォアキャスティングの視点で過去から今、そして未来を考える時、経験をベースに次に何をしようと言う活動だから、先細りは必然でしょうね。決まったパイを食べあうのだから、食べる速さを増したからとて、社会が獲得する幸は変わらない。いろんなところにそれはある。

リーダー同士の会話の中で、横に座っていて強烈に記憶に刻まれたことがあって「研究・開発なんて簡単に言うな!研究は出来るだろう、でも開発は出来ないのだ」。もう一つ、「安全・安心なんて簡単に言うな!安全は当然、安心は永遠の課題だ」と。共に既に亡くなられた方が今もご存命の当時のリーダーにぶつけたお言葉なのだけれど、そこに居合わせて本当に幸せな経験だったと感謝している。カバン持ちの役得である。

教育の仕組みにしてもそうで、経験を重ねた者の言い分の平均値をとると、確実に改良・改善の思考の方向に向かっていく。絶対値では無くね。小生の親などは事あるごとにそらんじていた教育勅語を語って聞かせたものだが、それはある意味絶対的基準を満たそうとするものであって、バックキャスティング的発想だったと今は感じる。到達しえない理想から今ある教育を語る。これは所謂、改革の姿勢であって、昨日の自分ではなく、明日あるべき姿を描くものだ。

個人的理想と社会的組織のあるべき姿とは異なってくるのだが、間違いないのは、今、30歳の方は20年後に50歳となっている。きっと「この老人が何を言うか!」と思っているだろうが、必死に頑張ると20年はかなりの経験を積む、いや、積んでしまう。しかもそれは30歳の方が10歳から30歳までの多感な時期における社会の20年間とは異なる質のものある。もしも改革に挑戦できる社会を望むのであればやんちゃな20年で得た感性を、老人の機能を活用するべく大きな声を挙げねばならぬ。老人はそれを護りつつ、安心を担保せねばならぬ。改良改善から改革へ。生き残るにはそれしかない。そう思う。

格差2倍

プーチン氏がTVに出てきて、正しい戦争であると胸を張る姿に我が目を疑うわけだが、我が国の最高裁判所が「選挙の一票の重みの格差2倍は合憲だよ」と言いきっちゃったことにもっと我が目を疑うのだ。民主主義の真っ向否定で、憲法違反も甚だしい。そんな国だもの。議員さんが勝手気ままに振る舞うわけだね。そもそも論、選挙区の区分けを議員が決めるという考え方そのものがおかしかろう。そんなものこそAIにやらせれば宜しい。機械的にやるべきところに感情を介入させてはならない。

投票と言うものをどう考えているのか。県知事選などは県の民がこぞって投票に行くわけだけど、国政の悪影響を受けて、投票に行かない人が増えてしまうのではないか。最高裁の裁判員の15名中14名が2倍は合憲と胸を反らすわけだ。そんな国だ。どんな投票も意味が無いのではと思ってしまう。これを言うと「山奥に住んでいるのは山を守っているのだ。過疎地の一票を無視するのか?」と直ちに反論が出てくるわけだが、それは目先の転換でしかない。格差を無くそうと言っているのに、無視するのかという感情論を吹っかけて正論ぶる。恐ろしい話だ。

代議員って国民全員が一緒の場に集まって議論出来ないから、民の代わりに代弁してくれる人が成っている筈なのだが、100万人の代用と50万人の代表が同じ重みの発言をして良いのか?皆、公平であるべきでは無いのか?10増10減とかやって、議員の数を保とうとするのもおかしな話だ。人口が減ったらその分減らすのが宜しい。そんな当たり前の議論すら成されない。子供が減るから大学を無くせと言うなら、自分達の席も減らすのが当然である。

我が目を疑う新聞の見出しに仰天したわけだが、そんな中においても学問の府の民として、天下国家を想うわけだ。時代は進むのにずっと同じ方がそこに居る。世界を見ればリーダーの年齢が下がっている国が多い。永くやっているとろくなことはない。自らを振り返り、他山の石としなければならぬとは思う。それにしても格差2倍が合憲とは。恐れ入った。

イノベーション考

小生が技術の価値化という単語を使い始めたのは2004年頃なのだが、その当時は「大学の研究者は企業と隔絶しているからこそ自由な研究が出来るのだ」と、まぁ、企業も何も関係なく、研究テーマは自由に選定できるんだけどね。勿論、軍事目的とか、出来る大学とそうでないところがあるわけで、それは所属する組織のポリシーに依存する。その技術の価値化というのは、科学が技術になって、その技術が産業界で咀嚼され、更には世界に羽ばたいていった時に得られる人々の笑顔という状態を言っていた。これは今でも正しいと思っている。

巡り巡ってと言うことなんだけどね。カンコツが化けていって量産を支えて粗利を獲得するというのは今でも日本の主流の在り方かもしれない。それは日本企業の大好きな改良・改善でのコストカットから産みだされるもので、総売り上げは変わらずに、粗利だけ増えるということなんだけど、それは粗利は増えるがやりがいはどんどんと落ちていくわけだ。勿論、改良・改善は大切で、ロボットや専用機で出来るものを人力でというのは間違った方向であるのは間違いない。

それで出来上がったビジネスモデルがあったとして、この先どうするのとなると、今、自社が有する工作機械を活かすことが出来るビジネスを教えてくれなんてことになる。酷い話、無料で大学を使えとかね、そんなコンサルもどきが現れて、先輩風を暴風に変えてやってくる。そんな時代では無いし、大いにお断りなのだが、それで飯を食えるのだから恐ろしい世の中だ。そうではなくて、新規のビジネスを思うならば、今をどうのこうのではなく、本気で「こんな素晴らしい場で活躍したい」と思う事。そしてそこで必要なことは何かと考えることだ。

大いなる落とし穴があって、技術が人を喜ばせていると考えてしまう事。違う、それは全く違う。技術は単なるツールであって、幸せは今と意識が変化する時に感じられるものだ。当然のことながら、不幸のベクトルは採用されない。幸せはそれを活用する人に帰属するのであって、技術による革新などと思ってはいけない。その思考がまかり通る限り、モノづくり屋に明日は来ない。世界最高の技術のみがそこに参加できるのであって、工作機械を持っているからではない。笑みを支える技術を産んだ時、それが技術として認定されるのである。イノベーションとは意識の革新である。技術やモノでは無い。理解するべきだ。

名古屋考

名古屋って本当に恵まれた、豊かな土地だなと心底思う。先週来、月曜日から寒気が流れ込み吹雪になるぞと、マスコミは恐怖をあおるわけだが、名古屋においてはどこ吹く風。昨年のクリスマス寒気でスリップ事故等、道路網は寸断されたが、その他、一般民間人の生活が大きく乱されることも無く、直ぐに解ける雪にホッとするところである。今回の史上最強とも言ってよい寒気が来るぞ、名古屋も気を付けろという事では御座いましたが、そこは流石に名古屋で御座いますな。

勿論、過去には大地震、台風に見舞われ、大いなる被害があったわけですが、日本中で震災に苦しみ、寒波が入れば大雪で大騒動。ところがですよ、名古屋の地って、天災が逃げていくように思うのですよ。だからこその三英傑なのかなと。現状においても、産業は勿論の事、農業も大河川のお陰で自律できる。気候も温暖。そして地勢的に寒い山奥から南国の渥美半島まで様々ある。海もほぼ内海で、本当に素晴らしい環境。

それ故の問題として、若者がずっと名古屋エリアから出ていかないということがありますな。それがアンチ他人風土を強くしてしまうのかもしれない。もっと外に出て行けば良いのにと思うのだけれど、その内向き安定感満載の若者に影響されて、教員も安定感が増してしまう。もっともっと激しくヤンチャで居て頂きたいのですが、どうも元気と言うか、活気と言うか。自分の同年代の頃はどうだったのだと言われてしまいそうですが、聞かない方が良いよと。

冬が寒いよ、夏は暑いよとは言うのですが、そんなもの、より寒いところも蒸し暑い処も沢山あるわけで、気候にしても産業の発展具合にしても、それはそれは見事なものですよ。ただ、見事過ぎて、なんとかしなければという気風に欠けていると感じるわけです。もっともっと必死になって、じたばたしても良いのになと感じるところが沢山。今、自動車産業が無くなったらどうすると、そうなったらこの地域、どうなってしまうのか、教育もどうするのか。そんな具合に思っていないと、国から捨てられてしまうのではと焦ってしまう。恵まれ過ぎは破滅の始まり。そう思っているくらいが丁度良かろう。

1000円

水を含む食糧、エネルギー、医療、衣食住を国内生産100%にお互いにせずに、持ちつ持たれつで経済を回していきましょうと冷戦中段の際に世界が納得し合ったわけだ。しかし持てる大国はその持てるものをより持てるように、持たない国は持てる国があるからそこから購入すれば良いやと、学びを忘れ、観光業で食っていこうとなり、昨今の様々な危機を迎えて沈没をし始めた。最早、日本を一流国と思う輩は居るまい。そんな脳天気者には春は来ない。

数年前にプーチン大統領が「自国を守る防衛力を持たない国は国では無いから、外交の相手にしない」と宣言したわけだが、防衛に飽き足らず攻めに転じてしまった蛮族に堕ちたわけだが、自国を自国で守るというのは、ある意味、正しいと考えている。その守り方において、核抑止力を持つことを良しとしているのではない。この国と国民を破壊すると自分達にも多大な損失が生まれると理解させることが、今の時代の守り方だとは思っている。

食糧も医療も同じことで、今朝、TVで見たのだが、子牛の価格が1000円ですよと、そんなことがまかり通っている。理由が「子牛を成牛に育てるまでの飼料が、海外からの輸入だからとてもではないが、それ以上出せないという理屈だ。最終顧客に近い処の利益を守るために、遠い生産者が泣く仕組みは、工業製品と何ら変わらない。素材・原料に近ければ近い程、利益を上げられない仕組みをほったらかして、給料だけ上げろという絵空事を繰り返す。何の為に上げるのだと。

国として成立していない状況を何とかしなければと、政治家諸氏から聞いたことが無い。田中角栄さんの日本列島改造論以来、天下国家に大望を抱いた人を見たことが無い。大悪はあったかもしれないが、理想もあった。何故、それが理想なのかを語ることが政治家だったり、リーダーだったりするのだろうが、なかなかそれが聴こえない。強い企業のリーダー殿にはそれが見える。まだ、そこに光明があると感じている。まだ間に合うのかもしれない。子牛が1000円で売買される世の中で無くなって欲しい。純粋にそう思う。

ニュースを見て

昭和30年代から生きているのだが、若かりし頃、放火・強盗・殺人などのニュースが頻繁にあった。強烈なニュースなので、ガキの脳裏にしっかりと焼き付いたということで、それだけしか覚えていないから、なんだか年がら年中、そんな事件があったのではないかと妙な思い出し方をしているだけだとは思う。浅間山荘で鉄球が停まった場面なども、白黒TVのフレームごと覚えている。ハイジャック事件なんてのもあったしね。

それから在所にカラーTVなんかがやってきて、トイレが水栓になったりしてきた頃には、そんな事件の記憶が減っているというかなくなっているのだ。商店街も活気があって、店頭に玉子が山積みされたり、魚が氷とともに並んでいたり。パンを切り売りしてくれる店なんてのも現れたりね。きっと、景気と言うものが良くなったのだろう。パートタイマーなんて単語を覚えたのはそんな頃だったと思う。そんな時代でも、豆腐屋さんにはボールを持って、一丁毎に買って帰ってきていたけどね。

景気と凶悪犯罪発生数というのは相関があるのかなと思うのは、昨年くらいから、「かっとなって親を殺した」とかいう、そんなことで人を殺してしまうのかという事件が頻発してきているし、東京の方では連続強盗殺人とかね、昭和30年代の貧しい時代に逆戻りしたのかとフラッシュバックである。食材を求めにマーケットに行けば、当然の如くで、温室栽培の野菜などは高騰している。きゅうりのぬか漬けなど暢気に作れない。

これがあったら便利だなというようなものは、多くの家庭にいきわたり、新規の購入などしなくてよくなってきている。モノを作っても在庫が増えるだけだ。一方で、高度な技術革新に挑戦しなければ、国家はどんどんと貧乏になる。当然、それは国民の貧乏となって現れる。それが心の貧しさに繋がり、すさんだ社会となって表出する。今、その扉が開き始めたのかなと感じる。学ぶこと、そして学んで得た知恵を発揮することに実を伴う感謝をすること。そのフェーズに入らなければ、ますます、悲惨なニュースが増えるのではと考える、今日この頃であります。

アンチ無償

東京オリンピックの開催を求める時のプレゼンに「お・も・て・な・し」というのがあった。小生は「ろ・く・で・な・し」と聴こえてしまったが。万人のオーダーのボランティアで支えますという、そんな継続不能なことを提案して良いのかと思ったことを覚えている。人が無料・無償で働いて、それを是とする考え方は、小生は嫌いである。労働には対価が必要だ。当然である。その根底から考え方を変えねばならぬ。

昨年、某企業のお偉い方が相談に乗ってくれとやってこられた。コンサル的なお話で、それと抱き合わせでとある契約をということで来て頂いたのだが、結局、アイデアのタダ取りをやられて、立ち消えになった。最初からそのおつもりだったのでしょうね。騙されたこっちが悪いのでしょうけれど、もう二度と、お会いすることはないだろうなと思っている。それは即ち、アイデア出しまでは無料であるという日頃の思い込みが成せる業だ。

大企業が利益を無限に出し続けることができるのは、上意下達で中小殿からアイデアを出させ、設計させ、いちゃもん付けて直させて、素材の発注やらなにやらのバックヤードワークをゼロ円と見積り、それをのませるからだ。中小企業は給与を上げようと思っても、揚げられない現状がそこにある。お役人が政治家殿の無茶振りに24時間不眠不休でサービス残業していることも同様である。その悪しき因習が無くならない限り、日本は一流国と呼ばれないでしょうね。

おもてなしを商材としている旅館なども現れてはいるが、それは極々限られたところ。まだまだ一般的では無い。それらはお金持ちのインバウンダーを相手の商売だから出来る技で、貧乏な日本人が活用できるものでは無い。国は中小企業に補助金などを出しているよと威張るのだろうが、本来、それは税金であって、使途として正しいのか?正しいB2Bが成立していれば要らないのではないか。政治家は真面目に国の将来を考えよ。腹立たしい。

人口許容量は?

日本で言うところの江戸時代までは、地球温暖化の議論なんて無かったわけだ。情報的に観測データが得られなかったというのはほったらかすとして、自然と共生していた状況が人類にはあったわけだ。経済活動と言う、持てる者が富む構図が生まれて、造り続けるために捨て続けるという謎のスパイラルを描き続け、それが無限に続くという幻想で、気が付いたらなんだか地球が温かくなってきたぞと言うことだ。

単純では無くて、太陽活動の周期も考えないといけないし、地軸の揺動で、太陽に対する角度の問題もある。諏訪湖の結氷の情報が六百年近くも蓄積されていて、それを拝見するに、太陽活動の周期と一致するねということが解るわけだけど、そのリズムとはかなり異なってきていることから、まぁ、人間の繁栄が地球の繁栄を凌駕してしまって、地球の破壊が進んだのだなということが解る。

随分前からインドの人口が中国の人口を越えますよということが言われていて、それは凄い事だと感じていた。感じていただけで、それが一体、何をもたらすのかを考えるわけだ。人口減少に向かうと言っても、900万人以上の出生数に驚くし、高齢者が2億人を越えるという事にも驚かされる。新たな消費が減ってくるわけだし、高齢者向けの商材が売れるようになるのかなと思ったり。ただ、人の為に何かを生産するということは、エントロピーの変化をもたらすわけで、当然の事ながら、当面は温暖化が進むのだなと感じるのだ。

食べて動けば放熱が生じるわけで、牛のゲップが悪者扱いされているけれど、人間そのものが地球環境を悪化させる方向にあることを理解しないといけない。農業だって肥料を高効率に植物成長に繋げると言う事も大切だろう。やれることってとても沢山ある。それをやらずにEVシフトとかね。物を創るということはエネルギーを使うわけで、経済活動優先と言っている限りは決して温暖化速度を低減化させないのだ。地球は一体何人の人を乗せることができるのか。まだまだ増えていく人口。その供給源の一つの速度が低下してきたのだなとは思うのだが、地球から見ると大きな変化では無かろう。

時代は変わったよ

いよいよ新車販売台数が世界三位になりましたな。人口を考えれば当たり前の話だし、日本と言う極めて狭隘な国において、いつまでも新車販売台数が世界第二位と言うのもかなり変なわけだ。営業用の車などを売り付けて、良質な中古として海外に送り出すというアンチSDGs戦略も終焉を迎えたということだ。車両に使われる素材のリサイクル率は極めて高いから、資源の無駄遣いでは無いと威張っているのを某所で聴かせて頂いたが、作るのにも、リサイクルにも巨大なエネルギーが投入される。そのコストを購買層に肩代わりさせるビジネスモデルだ。

自動車製造のお話になると、日本産業の中枢だから、それを無くすことを考えてはならないという不思議な議論になるわけだ。もう世界は、大きな買い物と言うよりも、質の高いものを長期間にわたって活用することで、個々が喜べる価値観を育て、スモールな世界が幸せの場となるようなビジネスを展開することで、場同士で多様な価値を共有できる方向に動き出しているのに、未だにこの国は旧態依然、大量生産・消費・廃棄がお好きである。

もう一度、半導体産業をなどと言い始めているわけだが、それは良い傾向ではある。こんなものがあったら良いというものが、全て海外製品ではマーケットに行ってもちっとも面白くない。それはこの国において最適化されていないからである。こうありたい、こうあるべきを実現していないからである。汎用品は所詮、代用品である。それは購入した瞬間からゴミである。Z世代諸氏からすれば、汎用品の自動車などは持ちたくない筆頭格であろう。EVよりキックボードを選ぶのではないか?しかし大人はそれらの活用の場に規制を掛け楽しくない世界を創り出すことに入れ揚げる。

ベンチャーを立ち上げる若者には、YouTubeという自己満足発展形だけでは無く、モノづくりにもチャレンジして頂きたい。そして大人は、その発想を面白いと思わねばならぬ。今まではでかい面して若者に「こうあるべきだ」なんて言ってきたのだから、その逆の立場に立っていることを認識せねばならぬ。特に日本の社会は、若者の生き血によって生活が保障される国だ。その若者に神戸をたれねばならぬ。その現状の表れが、自動車だけでは無く、様々なものに現れるだろう。次はどの産業だろうか。そんなことを思っている。