不正は繰り返されるもの?

某昭和大学で強烈な研究不正が発覚した。これは正に他山の石とせねばならぬ。同様の報道が成される度に考えさせられる。何故なのでしょうかということである。長期の調査の結果の発表であり、当局としては苦渋の決断であったことは間違いないのだが、この報道でもう二度と不正が起こりませんよということではない。論文数が昇任や他組織への推薦等々、人事的要素が絡んでいる限り、無くならないのではないかな?と、正直、思っている。難しいテーマ設定であれば論文なんて滅多矢鱈と出せる代物ではない。しかしながら、成果をある程度纏めて、ハードルの低い論文誌に出していっている内に、思わぬまとまりが出てこないとも限らない。でも、不正と乱発とは意味合いが違う。

カンニング的な不正もあろうし、データ改ざんという悲しい不正もあろう。後者はあってはならなくて、O女史の一件でマスコミがおお喜びするネタになるわけだ。他人の論文の盗用がしょっちゅう話題に出るが、日本人が英語論文を書き上げる時に、まず、真似てみるというところから表現の学びとなることを否定は出来ないと思う。いきなり日本人が、学術論文を英語で仕上げろと言われて、ネイティブ且つ、学理的に優れた引用の多い論文から言い回しを「学ばさせて頂く」ことを盗用と言われてしまうと、劣った表現の羅列で良いのかとなってしまう。表現の類似は許されるべきだとは思う。ただ、一節、まるまる同じだとか、考察の部分が同じだとかは有り得ない。そりゃそうだ、データが違うのだから。

と考えてみると、やっぱりデータを出す時、そして解釈する時にインチキが有るか無いかというところがポイントになろう。グラフの縦軸と横軸を既報と合わせることは盗用でも何でも無い。むしろ、同じにして、その論文を引用させて頂いて、比較して議論するというのは挑戦的であり、論じる文書としての論文の有り様だ。このデータのインチキをどう無くすかだ。小生的には他の研究グループの方にデータ解釈、試料作りに関わって頂くのが良いと思っている。なぁなぁになってはいけないので、誰と組ませて頂くかというところが難しいが、これもその道の第一線の人にお願いするのが良かろう。忙しい人に仕事が集まるのは世の常だ。

そもそも論なんだけど、不正してまでも何らかの業績を短期で出し続けないといけないってどうなのだろう?新しいテーマだと思って図書館に籠もって、既報を調べまくり、国際会議に出席して最新の動向に触れ、学会等で発表して評価を受けて、テーマ性が間違っていないと実感し、装置を揃え、データのばらつきを抑え、再現性を獲得し「これは新しい」となると論文に発表出来るわけだが、蛇口をひねる如くデータが出続けるものだろうか?既報の考え方を社会実装に移していっても良いし、その間、並行して新しいテーマを考えれば良くて、1,2年の沈黙があっても良いとは思う。とは言うものの、全く新規性が無いところに閉じこもって頂くのは宜しく無い。老舗の和菓子屋では無いのだ。第三者評価などと簡単に言うが、その評価者を誰が評価するのだ?なんだか薄ら寒くなってくる。研究の場がやりがいに満ちてこない限り、他国から置いてきぼりの学術技術国になっていくんだろうなと悩みは尽きない。

我慢と諦め

挑戦を許さないのは誰だろう。あれも駄目、これも駄目、気に入らないから駄目って、その末路は我慢。我慢ならまだ次がありそうだけど、実は諦め。諦めるから外からは忍耐強いと勘違いされる。忍耐強いのではない。諦めるのが早いのだ。いや、もっと言えば怒られる前に諦めるのだ。打ち明ける前に嫌われる青少年のようだ。今の青少年は違うのかもしれないけどね。

政治離れと言われて久しいが、結局のところ、何がどうなっても数人の我儘が国民の声の如くに鳴り響き、結局そっちに向かって動く様を延々と押し付けられていると、誰がやっても結果は同じだよねと、これも諦めの一つなのだと思う。有権者の一票の重さは2倍以内なら合憲だとか、失神しそうな解釈が司法から示される。国民一人一人の重さが違うと司法が認め、それを後ろ盾に立法も行政も突き進む。すげぇ国だ。

鶏と卵のお話になっちゃうのかもしれないけれど、声があっても上が動かないって、民と支配者の在り方の歴史を辿って行くと何処まで遡れるんでしょうね。知恵を分かち合い合議でいろいろ決めた形跡がある出雲や常陸の風土記の記載があるから、やっぱり卑弥呼の時代くらいからなのかしら?そうだとすると、もう、DNAに刻み込まれた諦めの境地ということで、どうあがいても仕方が無いのかもしれない。

受講登録はしていないけど単位をよこせみたいな、利己的我儘は主張するけれど、社会的影響力がありそうな問題は馬耳東風で興味すら持たない。諦める程、人生経験が無かろうが、最初っから興味が無いのでしょうね。決して我慢強くは無く、諦める程のことも持ち合わせていない。コロナ禍になってもGoToなんとかに申し込んで旅行に行ったり食べに行ったり。そろそろ小生も諦めつつある。それでも身の回りに対しては諦めたりはしない。何処まで続くのか、精神論になってきた。

コツコツやってますか?

貫き通す。理由もなく宗旨替えをするのであれば、最初から何もしないほうが良い。いや、やらないで欲しい。信じていたのに裏切られたとかね、平気で言うけど、それって何を信じたの?信じた自分を信じていないと、結局、それは信じたことにならないよ。自分を信じられないのですか?それはとても迷惑なことだ。貫き通すのは信じた自分を信じることであって、相手には何の責任もない。だって、どうにか成るのは自分だけだもの。しかしなかなかそれは難しい。

流されるんですよ。特に地位が上と下とかね、なんか圧力があって、従わないと未来はないみたいな無言の圧力は厳しい。ましてや声を大にして「裏切り者」とか言われちゃうとね、普通はくじけますよ。そしてそっちになびく人の多いこと多いこと。ただね、そこでくじけるのは、やっぱり自分を信じていないからだな。自分の何を?決断を。他に何かありますか?ぐっと握り拳を固めてご覧。そこで前に進めそうになかったら、決断してはいけない。必ず不幸がやってくる。貴方の周りの誰かにね。

ほんとうに小さなことでも、繰り返していると大きくなる。本当にそう。あれっと思うよ。こんなこと、自分がやったんだって。毎日、毎日、コツコツ続けてご覧。誰の為ではなく貴方の為に。やっていると必ず出来るように成るよ。何か良いことがある。コツコツって凄いから。何も起こらなかったら、それは貴方が何もしていないということ。そしてそれが信じられない貴方の正体。リセットボタンを探すのは止めましょうよ。

どんなに人にそっぽを向かれても、太陽は知らんぷりして昇ってくる。暗い夜ばかりではない。無残にも明るい日の下を歩かないといけない。どうせそうなら出来ることをコツコツやってみてはどうでしょう。背伸びするからひっくり返る。地道に出来ると思っていることをやってみる。案外、出来ていないんだよね。勘違いばっかり。でもいいじゃない、明日もあるから。出来るまでやってみたら?みんな出来る前に諦める。人生は本当に短いから。コツコツだよ。本当に。

必要ですか?その会議?

突然電話が鳴って、相手先から新しい情報がもたらされ、直ぐに意見を求められる。これは相当に緊急のことで、声のトーンで重要度が測れるし、そもそも代理やテキストでは無く、生きた声のやり取りであるから、こちらも身構えて一瞬に答えを作り込む。このやり取りにおける緊張感は凄まじいが、その一瞬で終了するから、だらだらとした思考を要求されることが無く快適ですらある。電話が無くならないわけだ。親密な間柄であれば画像は要らない。

定例会議なんてのが未だにいくつかあるが、最近は、議題がしょぼいからメール会議にしましょうなんてのも良くある。要は、規則があって会議によって決定されないといけないからそれを実施しているだけであって、既定路線の追認を求められるような無駄な時間のことである。毎週の進捗が斬新で、定例的に確認しあっておかないと何が何だか分からなくなってしまうようなスピード感のものは、定例で確認し合い、方向性を決めないといけない。要するに新規に決める、決断を求められる、これが会議だ。

酷い会議になると、議題提案者がアジェンダを作らない。落としどころが決められていないのだ。何も既定路線を作ってこいという事では無い。この範囲で議論して頂いて、この方向性の決定をして頂きたいという、予算を持っている人間が、その予算をこんな方向で使いたいが、更にブラッシュアップしたいから意見をくれという会議は間違っていない。これも決定事項があるからね。参加して愉快である。

最悪なのは「これこれについて考えてください」という、会議招集者が何も考えていない事例だ。実はこれが一番多いから嫌になる。何だか知らないけど集められて、何をするのかなと思っていると、いきなりどうしましょうと泣きつかれる。いい加減にせぇよ。そんな輩に限って、何かを言うと、「そういうことでは無くてですね・・」とまぜっかえしてくる。同じ空間で時間を共有したくない。会議を止めてごらんなさいな。本当に必要であったかどうか分かる。自分が責任を取りたく無くて人を集めるならお止めなさい。責任を取りたい奴なんて誰も居ないから。あきれ返る。

奥歯に物を挟んでみました

鶴舞大学にもひたひたとコロナ禍の波が打ち寄せてきている。年齢的にワクチン接種対象者は多く無いので、事業所として極めて危険な環境であることは間違いない。国の助成が無い状態で、学生君達のアルバイトを止めろとは言えず、ウイルススプレッダーとして無意識に機能化してしまっている状況は否めない。こうしてだらだらと場当たり的対応で過ごす毎日に辟易する。

海外に目を転じると、インドではコロナ禍が原因と考えられる死者が30万人を超えたとのこと。人口が10倍以上ある国ではあるが、凄まじい数である。過去のお話をしても無駄なのはわかっているが、コロナ禍が始まった頃、単なる風だから全員がとっとと感染して免疫を獲得するのが良いのだと、大きな声の評論家が大勢いらっしゃった。ネットやテレビの情報が如何にいい加減かということだ。

コロナ禍に限らず、この情報の発信とその影響に関して、気を付けなければならないなと改めて思う次第である。自分が考えたのか、他人が考えたのか、少なくともそれを明確にして発信する必要がある。聞いたことを自分のものの様に広げる輩が多いが、この情報があっという間に広がる世界において、その態度は極めて無責任と言えよう。定量的な証拠であっても、その定量が性格なのか、そもそも証拠と言えるのか?関係性なのか因果なのか?

見えないから怯える。見えたら怯えないのか?見えないからどうするのか?諦めるのではない。取り敢えず、良しとされている活動を地道に取り組むしか無いではないか。それでも駄目なら仕方が無いのだ。どう対処するのか?どう考えるのか?後になって、「あの人は、あんな場面でこんな対応をしていた」と必ず叫ぶ輩が出てくる。今の行動は何故最善と言えるのか?全ての人々が問われる問題だ。

なかなか一杯、出来ませんね

じっと落ち着いて、自分自身を問いただすのが良い。本心は何処にある、本音は何処にある。表に出すときには忖度があって、社会との力関係を気にして、本音・本心が出てこない。これは普通の人間。当たり前。ふぅぅんと周囲を呆れさせながら本心をさらけ出してまつりごとを進める奴はよっぽどに変な奴で、真似をしないほうが良い。将来がある若手なら尚更だ。ただ、生まれつきそれをやらかす馬鹿もいるから油断がならない。まぁ、そんなことはどうでも良い。国家にお金が無いと、あらゆるところで忖度が生まれる。

国家にお金が無いという意味は、国際的に売るものがないということと、海外から肝心要を買わないといけない状況になっているということだ。水素だなんだとT社は叫ぶが、そんなものは末端の技術、本質はそれを動かすITの国際規格を欧米に牛耳られて、アジア諸国の技術が全て漏洩しているということ。それを止めようと努力してものんべんだらりと行政は逃げる。国家を憂う気持ちを公務員が持っていない。それがこの国のあさましき事である。君の胸に手を当てるが良い。

天下国家を語れと先祖は言った。明治の頃は国民の絶叫を政治家が聴いたとのこと。流血もあった。しかし、だからこそ国民も学び、政治家はより学び、そこに信頼があった。今はどうか?無い、全く無い。だから諦めるのか、いや、諦めない。純粋に研究に没頭し、自然の摂理を明らかにして、人々の笑顔に繋げようとする研究者の為に命を掛けるのが黒子のお役目、事務職の勤めだ。悪人を恐れる必要はない、恐れるべきは、悪人を恐れる自分自身である。

今週も恐ろしい程にストレスが待ち構える。待ち構えることが解っている分には身構えが出来る。しかし、それ以上に想像も出来ない圧力が襲いかかってくる。それとて、来ることが予想出来るのだから、笑顔で待ち構えようではないか。天下は鳴動するが、天上はどうなのだろう。神の世が乱れているようでは話にならない。人間の分際でそれは論外である。人として出来ることを限界までやる。残された命を削り日々進む。料理の調味料と同じ、あと少しあればもっと美味しくなるのにと思うところで足りなくなる。人の命もそうだろう。足りないくらいが美しい。余さず努力する。そんなもんだ。

底の無い心

「私はこれを達成しなくてはならない!」とか、「何かの達成を求められているんだけど、もやもやして分からず辛い!」とか、悲痛な叫びは心の中に必ずある。自分だけでは出来ないと分かっていても、相談を誰にも出来ないとかね。辛さが辛さを呼んで、更に辛くなる。曇天の下、無限に広がる墓標のど真ん中に立たされたような、逃げ場のない、脱出出来ない辛さがそこにある。あるのだけれど見えない。辛いという現実も、辛いという心の中に収めてしまっているが故に、助けて欲しいともがいても、外部世界には届かない。

心に底があるのか分からない。底なしのような気がする。底なし沼にはまったことは幸いに無いが、ドツボな閉塞感なら幾度となくある。脱出出来たのなら大したことは無いと言うんでしょうね、外野の皆さんは。誰も助けてなんてくれないよ。孤立無援って、本当に孤立するから。定量的にゴールが存在する仕事の存在は有難い。そこがトリガになって何かが動き始めるから。それを与えられなくなると、これは危ない。そうしてはならない。

基本、複雑怪奇な生命進化で作り上げられた人間だから、何処かしら弱いに決まっているんですよ。目に見えないコロナウイルスなんてものが入り込むと、バランスが崩れて死に至るんだから。精神と肉体って言葉を大昔から聞いているから、先哲の方々も肉体という物理的なものと、精神という哲学的な世界があって、哲学世界な世界が物理的世界のあり様を左右するのではと議論を続けてこられたのであろう。何故悩み、落ち込み、孤立化していくのか。無限に悩みが生まれ出るし、外部から持ち込まれる。

全ての人が異なる精神世界を持っているわけだから、心の持ち様も人それぞれ。ギリギリのところから折れてしまっている状況で、今を保つわけですよ。折れかかった心の柱同士のバランスで今がある。多くの人がそんな状況にあるのだと思う。出来ると思うから。出来なくて良いんじゃないの?だって出来ないんでしょ。出来ないって。そんなもんだよ。少なくとも金曜日の夜はそう思って、出来ないことは月曜日に送ってしまおうよ。それで良いって。

耳に入る単語

カーボンニュートラルとサーキュラーエコノミーの文字を毎日どっかで見る。経済を回すために新しい事業を作りましょうってやつ。打ち出の小槌でお仕事を作り上げるように見える。製造業がGDPに占める割合が約20%、そのうち、輸送用機器の割合が約12%。その年次推移というか大雑把なところで、2003年が製造業GDPで約97兆円、2013年で約88.3兆円。微妙に落ちていますな。その落ち込みをカーボン等々の単語で埋め戻しをしようということでしょう。

カーボンニュートラルもサーキュラーエコノミーも、新商売を生み出すことと、現状使っているエネルギーを確保しながらビジネスをしていこうということなんですよね。何かをしなくて済むようにしようとはしていない。日本ではね。省庁が無限に増え続けている現状が物語る。何処に向かうんだろう、この国。

徹底的な自動化と言えば聞こえが良いけど、それだけ機械を導入するという事だ。機械を作る、利用する、全てにおいてエネルギーが必要だ。その状況の議論は殆ど表には出ない。具体的なエネルギー発生の削減がお金の還流の削減にどれだけ繋がるのか、その定量的なデータを見たいものだ。自動車を完全自動化して街と一体制御すると渋滞が無くなって省エネになりますということを聞くが、それは確かにそうだと思う。ただ、中央制御のためのAIの駆動の為のエネルギー消費は増えるだろうけどね。

「だろう」が多いんですよ。カーボンニュートラルとサーキュラーエコノミーが良いですって聞くんだけど、それらが充たされた社会において、どれだけ地球温暖化が減速して、経済が好転するのって定量的なお話を聞いたことが無い。某T社がなんぼ儲かるとかね、そんな話ばっかり。人が幸せになる証拠はこれだ!ということが全く聞けない。持続可能な経済って綺麗なんだけど、なんだかなぁ。欲望って際限ないなぁと心底感じる私であります。

フィルム文化

梅雨に入り急激に蒸し暑くなった。平年よりも20日程度の早い梅雨入りで、全てがジメジメの海外からのお客様がびっくりする気候である。上着を脱ぐと、シャツがべったりとなって気持ち悪いことこの上ない。そうならないシャツ類もあるとのことだが、そんなものを探している間に梅雨は終わるので、気にしないことにする。気にしなければならないことは山ほどあるわけだが、気にしなくて良いものはほったらかすことにする。そうなるとまるで政治家だなと苦笑いである。

「写真」を趣味にしているわけだが、梅雨は実は撮影チャンスが結構あったりするのだ。カラー写真家の方は晴れ間が大好きなわけだが、モノクロ家にはピーカンの照った空だとありきたり過ぎる。薄暗く、水と空気が混在した景色の質量感。撮影、現像、焼き付け、額装、その時の感激を取り戻そうと、ストレスの彼方に行ってしまっていた趣味を取り戻しつつある。

趣味はそれだけにとどまらないのだけれども、少しの古いストックがあるので、それで試運転的にやっていこうかなと思っていたら、富士フィルムがいよいよプロ用のフィルム販売から撤退されるとのこと。機械式カメラ資産をどうしてくれるんだと文句を言っても仕方が無い。破壊的イノベーションをくらった末路がこれである。まぁ、しばらくは市場に残ってはいるのだろうけれど、絶望的ではありますな。いよいよ展示するだけのゴミとなってしまうのだなと苦笑い程度は出てくる。

機械式カメラが、フィルムが無くなってゴミになるまで100年程度掛かったわけだが、それは今の携帯電話やPCなどと比べれば随分と長生きだったと思うのだ。贅沢品から出発して、写ルンですとか中学生の修学旅行のお供の時代を経て、ついに無くなっていくフィルムカメラ文化。発展と進化を遂げ続けるデジタルカメラだが、「そこにあるもの」と対峙する撮影の心地良さは変わらないのだと思う。富士フィルムさんのプロ用フィルムからの撤退記事を拝見して、あぁとため息をついた。それだけ。

やっぱり三方良し

本棚の近江商人関連の本を眺めて、改めて三方良しに納得する。仏教的にも自らの修行で得た功徳を自分で受け取り、そして他の為にも仏法の利益を図るという自利利他があり、それを公私一如を加えると住友社の事業精神になるわけですが、近江商人の家系からの社是ということで納得する。自分が利益を得る、そして相手も利益が出る、すると社会にも利益が広がる。そうでなければならない。組織改革の根幹もそういうことだろう。自分の利益だけを追求すると、それは実現してはならない。

言葉で言うと簡単な三方良しだけれど、実際にそれを達成しようとすると難儀である。往々にして古き文化に引っ張られる。過去の因習を断ち切るのに随分と時間が掛かるとかね、変革する気の無い改革案の先頭に出てくる言い訳だ。凄まじい勢いで進化し続ける世界の中で、5年を超えるスパンで改革をしようってどんな発想なのだろう?声の大きい方のご退場を待つというのも常套手段だが、それを守り続ける組織の前途は極めて多難だ。

外回りでちょっと気になるお話を伺った。ポストコロナという美辞麗句?で、対面営業に戻すことをしない、諦めの営業になっていると。お会いして説明をという申し出が、70%の出勤削減をミッションと政府が指定しているから会えませんと言われる。成る程、三方良しの構図を、コロナ禍を理由に壊しているということですな。双方の良さを理解せず、社会良しとなる筈がない。

コロナ禍がいつ終わるか分からないが、PCR検査証明やワクチン接種証明があれば動き回る免罪符となりつつある。それで良いのか?もう、そこまで行って良いのか?激しいしっぺ返しは無いのか?いつまでもびくびくするなと言われるが、やっぱり病は恐ろしいのだ。それは恥ずかしい事では無い。お互いを認め合い尊敬しあう。だからその周りは美しい世界になる。三方良し。これからもそれが良い。