値上げの季節

どうもマスコミというか、国民というか、円安に振ればT社さんのような輸出業が儲かるから、日本は円安が良いのだみたいなお話がまことしやかにあって、アベノミクスなんて絵空事時代が長く続き、結局、物価は上がるは給料は変わらないわ。輸入されるものが高額化するわけだから、資源の無い日本としては輸出で儲けた企業がお金を還流させない限り貧乏であり続けるわけですよ。輸入のほうが多いのだから、確実に損失だけが大きくなる。日銀も政治家も円安を堅持しますけど、強権国家の誰かみたいだなと感じるわけですよ。

逃げ出しちゃった前の首相殿は、円安で国民の給与が上がるみたいなことを言っていましたけど、上がった人は絶対に居て、その複数名を指して「ほら上がったでしょ」と言いそうなのでほったらかすことにしてだ、自国の通貨の価値が無いってことに国民はもっと恐怖しないといけないのではと思うのですよ。日銀という打ち出の小槌が何時まで効力を発揮し続けるのかというところなんだけど、もうとっくに死に体の様な気がするんですけどね。

それこそ燃料費だとか小麦粉だとか、海外から買わせて頂いていたものが、天候不順の関係で収穫できなくなったり、戦争のおかげで減産になったりで、海外頼みの日本の弱さが露呈する。ものづくり日本だなどと言ってはいるが、最終製品は旧型の炭酸ガスを出しまくる自動車産業なわけで、まぁ、大量生産で高価なものがそれしか無いからしょうがないけど、それとて輸入部品などに頼っているところが大きいわけで、真のメードインジャパンというわけでは無い。日本のものづくりは何処に行ってしまったのでしょうか。電源活用した瞬間に、燃料は海外からだからね。

気が付けば桜満開、もう明日は4月。一斉値上がりがそこにやってきている。くだらないばらまきは取り敢えず取り下げになったようだが、選挙前であるからやってくるのでしょう。高齢者に支援をって高齢者の政治家が言っては駄目だわな。若年世代が社会保障費を捻出しているのであって、政治家諸氏が税金を自分が作った金の如くにばらまいていく間は、この国に安心は無いね。本当にそう思う。

永遠なる学びを

三寒四温が明確にやってきて、満開となった桜がほんの少しだけ長持ちになるかなと思ったりする。入学式まで桜が残っているかどうかは解らないが、職場からの帰路はちょっとだけ遠回りをして、桜の樹の下を歩こうなどと思ったりする。桜の季節位良いではないか。マスクなどして艶っぽくは無いが、大和心を楽しんではと思うのだ。鶴舞公園などは桜の樹の下に入らないように柵が作られているが、これなどは、根っこを傷めないという点において、数年に一度はやったらよろしい。そんな気にもなる。花見のSDGsである。

いろんな会議体が「意地で対面に戻す」って躍起になっているんだけど、日本ってどうしてこうなのと呆れてしまう。在宅であろうが、勤務は勤務で、業務におけるミッション達成に必死になるわけですが、少なくとも通勤時間は無用になる。PC画面に向かって、Teamsなどを活用すれば文字ベース、声ベースでどんどん会議が出来る。今までよりも移動の時間は削減できる。開始当初はお子様が襲い掛かってくるなどという場面に出くわしたが、2年が経過して、それもクリアされてきた。自己獲得の時間が増えることは素晴らしい。

遠慮など要らないのだ。しょぼい話ではあるけれど、どっかの組織としてもコロナ禍が無くなったとしても10日は在宅で良いことになっている。全ての職員がそれを獲得すれば宜しい。そこで獲得したご自分の時間を、学びに使うのが宜しい。学びと言っても大上段に構える必要は無い。今まで以上に朝刊を読む、読書する。ネットワークによる講座に参加する等々、キャリアプランを考える時間としても十分だ。100歳まで生きなければならず、そこまで収入を得続けないといけない国だから、キャリアプランとその実現のための学びは投資である。必ず利息が付いてくる投資である。

職場を満期まで(規則上の定年年限)勤め上げるという時代はもう無いだろう。世界でそんな状況になっているのはこの国くらいだ。作業しかしない方のために雇用を残す時代では無い。どのように自動化し、それによって人と人との関りを密にしていく。何を成すべきかを組織内で議論できる。過去にそうだったから次もそう。もう、それはやめましょうよ。人生は短いよ。急に消滅するかもしれないしね。自分に素直になって良い。それは学ぶことである。全てが学びである。

組織

よくよく考えて組織を作っていく。組織は社会に向けたものだから、社会の変革を先取りし過ぎても駄目だし、陳腐化したらもっとだめ。せいぜい、4年が限度かな。ちょこちょこと変えるよりも、しっかりと議論し形を作る。動かし始めたら石の上にも三年で、じっと我慢していく。するとほころびが目立ち始めてくるから、積極的に手術を行うわけだ。それでもやっぱり3,4年が良いところだろう。また見直すことになる。それを嫌がってはいけない。特にDXが求められる時代なのだから、思いっきり変えねばならない。何を?意識を。

もう、随分経過したけれども、東名高速道路のサービスエリアにコンビニが入ってきたときは驚いた。道路公団の癒着の殿堂に、便利ショップの代表格のコンビニが黒船の如く現れて、サービスの無いサービスエリアが変身を始めた。これで良いのだ。変革を嫌がり、社会から隔絶した組織の末路は決まっている。社会から捨て去られ、駆除される。そんなもんだ。それを分っていながら変わらない組織は悲惨である。目の前に会ったりするから恐ろしい。一歩一歩で良いから変わっていかなければならない。

学校なんて組織は、主役が若いのだから、老害が最も良くない。過去、こうだったからとか、規則がどうだとか。規則なんて過去の人が作ったんでしょ。その当時からすれば既に未来の領域なのだから、それを変えていかねばならぬのは当然の事。フレキシブル過ぎるのは何も出来ないのと等価。大枠の規則の中だからいろんな思考が出来るわけで、規則なんて戦略として作っておいて、当意即妙に戦術に落とし込み、具体的に進めば良い。それは近未来対応がよろしい。昨日までこれが良かったからなんていうのは真っ先に取りやめるのがよろしい。

組織内組織は、大枠の組織の方針に逆らってはならない。これは当然のこと。抜け道があったりするようではいけない。価値観をすり合わせて、社会から見たら一貫性のある組織だなと感じられるようになっていなければならない。お若い方々があれやこれやと考えてくれれば良い。方針を示すから、えいやっと思い切ってやって欲しい。少子化が叫ばれるようになってから暫くたつが、大学入学を希望する者の減少がいよいよ顕在化してきた。大学はどうあるのか。社会との窓口はどうあるべきか。常に襟を正し、真っ向勝負。それだけのことだ。

節目にて

先週の土曜日に、久し振りの対面式卒業式が挙行され、会場の前に集う若者の姿を見て、「節目」を作ることの大切さを改めて実感した。一方で、これはまたクラスターが発生して、全国で卒業式、謝恩会、新歓、入学式などのクラスターが発生するのだろうなとも感じた。それでは昨年度に今回のような対面式が出来なかったのかと言われると、そこはワクチン接種も少ない状況であったことや、何しろ「情報不足」というか、相手の脅威だけが見えていたことから、それは難しかったと言い訳ではあるが、そう思う。確度の高い情報とそれを元にした対応。それが肝要だ。

Webの情報などは、まぁ、こんなことをこの人が言っているな程度に眺めている。科学技術的なことですら、「出来た」と書かれてもビーカーの中でということであって、社会に出回るには数年を待たねばならぬ。一方で、それが真実であるならば、それが出来たことを前提に、自らのビジョンを達成しようとする考え方は極めて正しい。ただ、これも真実であるならばというところがきな臭い。

サイエンスやネーチャークラスの論文ですらデータ改竄によって取り下げなどが生じる時代である。いろんな言い訳が飛び交うわけだ。業績主義で落ち着いて基礎研究が出来ないとかね。一理あるんだけど、何と言うか、失敗をさせ無さ過ぎだと思うのですよ。それとちょっと前にも言ったけど、リセット主義というかね。親は叱らない、子はリセットで済ませていく。都合の悪いデータは消してしまい、お化粧することに罪悪感を持たなくなる。大失敗して、心が折れ、破壊される程の経験って大切なんだよ。大人になってからだと辛すぎるけどね。

棺桶に両足突っ込みながら考え事をしていると、もう先が無いな、だから思い切って行こうってなるんだけど、一方で、若年の方が一度、心を折ったからもう先は無いとかね、そんな周りの目を気にし過ぎるというのも、SNSの悪弊なんだろうなとは思うが同情などはしない。目は前にしかついていないから、後ろ指など気にしない。気にしない強さを持っていないといけないということだ。それを大人が破壊していく。人の世界を自分が開く。その気持ちがなかったら、日本はどんどん沈んでいく。それで良いのか嫌なのか。卒業式の壇上に居て、そんなことを思っていた。

遥かなるカーボンニュートラル

大気中に増え続ける地球温暖化ガスなんだけど、炭素系はとても多いのは解るんだけど、それだけやれば良いのかというとそうではない。温暖化は抑止するべきだという点においてはその通りだと考えます。人類の経済活動や破壊活動によって炭素系ガスが大量放出されているのは間違いない。立春を過ぎて一気に暖かくなって、桜がどんどん開いていくのを見ていると、まだ、卒業式前なんだけどなぁと、やはり温暖化というものが進んでいるのだなと実感するのだ。大学はカーボンニュートラル実現に全力を尽くせと言うお達しが来るわけだが、そう簡単にはいかない。

少し前に言われていたことだが、省エネ政策の先行事例として日本のエアコンのインバーター化というのがあるんだけど、これなどは世界ではほぼ使われていない。すぐに現行技術で大幅に改善できるのだけど、そうではなくて、研究費だけをばらまくというのは、どういうものか。一部の企業が利益を上げてという銭の使い方をするよりも、依怙贔屓で既存技術を適応を進め、まず、今、出来ることを世界でやってはどうかと思うのだ。なんか、大袈裟にして、結果が出てこない日本的お金のばらまきだ。

次年度の国家予算が決まったわけだが、100兆円を超えるものとなっている。地球温暖化抑止というかカーボンニュートラルに資する開発にも幾ばくかのお金が投下されるわけだけど、お金儲けに繋がる苦役で無いと続かない。そこがどうしても浪花節になってしまう。それが日本縮退の根源である。お金というと汚らしいと言われるが、本当にそうか?30年前と初任給が変わっていない状況が正しいのか?何処が先進国か?有り得ない己惚れだ。

使用電力を全て再生可能エネルギーにするという目標設定もある。これも極めて難しい。昨年の経済活動が7%減ったわけだが、それでも温暖化は抑止されていない。マイカーなどが広まっていなかった頃の経済状況に戻さないといけない。エネルギー使用削減の為に、削減よりも大きなエネルギーを使って、一体、何をしようとしているのか。護岸工事を始めたり、結局のところエネルギーを使うのだ。まず、目の前の旧式のものを最新のものに換えていく。投資に見合う稼ぎが無いというのなら、まずはその装置を止めざるを得まい。100兆円を越えるのはゾンビ企業を量産するためのもの。出血を止める。そこからだ。

身の丈

変化していかないといけないことを変えようとすると、変わりたくない方々から圧力を掛けて頂ける。PV=nRTの法則の如く、こちらの感情が熱くなるが、それは変わりたくない方々の思う壺なので、そこには入らないようにしようとすると、体積を減らせばよい事になる。団体で攻めているつもりでいらっしゃるのに、実は、一人の感情論だったのだよとなると、体積が減じたと等価であるから、こちらはかっかしなくて良い事になる。圧力という仕事をすると、エントロピーが発生して、持っているパワーのロスに繋がるから、変わりたくない方々は無意識に体力を消耗することになる。まつりごとの熱力学である。

変化をするなら、まず、早く動くこと。考えて、相談して、ルールの通りは当然なのだけど、考えたら動きながら、アジャイル型まつりごとという時代なのだと思う。勿論、場当たり的は最悪の結果しか生まない。それでは変えないことが正義か、いや、それは全く違う。危ないのは、変えてはいけない骨格をいじること。全部シャッフルなんてのは能無しのやることであって、方向すら定めていないのに進みだすのは愚の骨頂である。

この方向性というものが重要であって、それをどのように定めるかなのだけど、組織というものは「その組織だからこそ」というOutcomesを社会にご提供させて頂いてこそであって、あっちもこっちも同じもので良いということなら、一番大きい処だけで、他は要らないのだ。即ちゾンビ組織なのだ。旧態依然で良いところは何処も無く、かと言って、この領土が欲しいからと、自組織に大ぼら吹いて鼓舞して戦争させるなんてのは愚か者にもなれない連中なので、それは有り得ない。自らの色を出し切るために変わっていかないといけないということだ。それが身の丈ということなんだけど、身の丈一杯に頑張るというのはなかなか出来ることでは無い。

「身の丈をわきまえろ」とはなんとなくなんだけど、背伸びをしたら怒られる一言みたいなんだけど、実は「まだまだできるだろ、もっとがんばれよ」というところでも使うのだ。そんなところで安穏としているんじゃ無いよ!ということなんだけどね。日々是精進ということなんだけど、精進すると周囲が陳腐に見えてくるから、それを変えていこうという気になるのですよ。もしもそうならなかったら、世間と同じ速度で動いているだけの組織であって、それはゾンビだ。見える景色が陳腐であり続けるから価値がある組織である。そんな意識であり続けることに死力を尽くす。それだけのことだ。

リセットは嫌い

リセットを掛けるということは簡単では無い。Z世代の皆様にとっては当たり前の思考であって、装置が動かなくなったらリセットボタンを探して、見つからなければそれを知っている人が対処してくれて、そうなったらまた使おうという、まぁ、研究室主宰とするとたまったものではないのだが、そんな思考が主流となりつつある、いや、もうなっているのかもしれない。その上の世代は「お前、何故、居るのだ!」なんて言おうものなら、本当に出て行ってしまう世代ということをT嬢にお聴きしたのだが、その世代の頃からモノづくり現場は青息吐息である。

先日、ワクチン熱にうなされながら、まともな書類仕事が出来ないもんだから、以前から気になっていたオーディオ装置のメインアンプの大掃除をした。埃が入りにくいキャビネットに収めているとはいえ、空気中に漂う埃は、今は、花粉まで考えねばならず、大気中の水分を獲得して、微弱な漏電を引き起こし、ノイズ発生の元凶となる。ひどくなると装置を壊してしまう。大切なアンプをふっとばすわけにはいかないので、そろそろメンテの時期かなと思いながら、裏の配線をきれいさっぱりにして、蓋を明けてダスターで埃を飛ばして、ジャンプ線の接点をクリーニングなどして再び通電。おぉ、こんなにリアルだったっけ、小生の装置?というくらいで、幸せを感じた。

これはリセットというよりもリノベーションなのかもしれない。コンデンサなどはある程度の寿命があって、「抜け」と呼ばれる現象が生じたら、交換するしかない。逆に交換すれば回路的に全く問題無い。トランジスタなどにも寿命があるので、これが飛んでしまうと、保守部品は入手不可能な位に古いから、そこでジエンドなのだろうけど、その他のところは定期メンテで何とかなる。このなんとかなるところをしっかり捉えていれば、不可逆状態の手前で引き返せる。

リセット世代は不可逆まで突っ走る。そしてその状態が発生したことを伝達しない。平和な街にミサイルを飛ばしまくる国と同じかもしれないが、装置が襲ってきたから壊しましたとは言わないから、まだましなのかもしれない。最近のエレクトロニクスは余りにもブラックボックスになり、壊れたら交換。そうではなくて、壊れたら、あるいは、壊れそうになったら使い手はそれが解って、リノベーション出来て、長く大切に使える。そんなモノづくりが良かろう。薄利多売の社会から脱却するべき。それこそ、SDGsではないのか?リセットという単語は使いたくない。そう思う。

3回目

日中のぽかぽか陽気に油断をすると、早朝の放射冷却に痛い目にあわされる。季節はちゃんと巡ってきて、東京ではソメイヨシノが開花したという。この十年、卒業式に桜が咲いているという状況になり、まぁ、なんとも御めでたい気分になる。桜というものは偉いもんだと毎年思う。日本人の心に見事に溶け込んで、今年も大いに楽しませてくれることだろう。時間を作って眺めたいものだ。桜並木をぶらぶらと歩く楽しさよ。今年も間も無くそんな季節だ。

お花見の宴会をやらかすわけでは無いが、第3回目のワクチン接種に行ってきましたよ。事前情報に依ると、注射の部位は痛くなって、そんでもって発熱を伴うとのこと。第2回目に比べて半分の量のワクチンとのことだが、会場に行ってみると、前回とは異なって、異様に空いている。全国民の30%を越える方が接種されたそうだが、集団免疫には程遠い数で、それがなかなかPCR検査陽性が減少しない理由であろう。その一つの理由が副作用なのだと思う。

小生に限って言えば、前回と同様に24時間経過後に最大の発熱値を呈し、37.7°であった。前回の39°に比べれば随分と楽になった気がする。更に、前回悲惨な状況であった「気持ちの悪さ」はかなり軽減されていて、その点で言えば、これから卒業式だの入学式だのに備える意味で、接種しておいて良かったなという気にはなっている。ただ、それではもう一回、やるかと言われると、これは考えますな。良い加減に国産飲み薬の治験を広めても良いのではと思う。

コロナ禍においては、自らが悲惨な状況に陥りにくくするというのは勿論だが、他者への感染リスクを下げていくという点において、むしろ、その方が優先されるべきだ。だからと言って発熱や倦怠感に悩まされるのが解っていて、もう一回やるか?ということにおいては、その場になってみないとわからない。多分、接種するんでしょうけれど、それはもう棺桶に両足突っ込んでいる年齢だからであって、これからの若者に対してどうかなぁ。無理強いでき無い気がする。とまぁ、皆さんも休暇や在宅勤務を上手に考えて、ワクチン接種、考えてみてくださいね。

間違いと不正

東日本大震災の余震では無いという。断層の割れ方が異なるから違うという見解なのだろうけれど、異なる割れ方が先の震災で分析しきれていなかった歪によって引き起こされたという可能性は完全否定出来るのだろうか。偉い学者先生の仰る事なのだらか正しいということなのでしょう。まぁ、これなどは「そうなのかな?違うのかな?、地球のダイナミクスは解らないことが沢山あるからな」で済んでしまう。いや、済まさないといけない。そうでないと自然科学は進歩しない。

論文不正となると話は別だ。学術的倫理の問題で、これはあってはならないのだ。あってはならないのに、何故かずっと繰り返される。データに誤りがあったから報告を取り消すというのは良い。測定ミス、誤差、なんらかのエラーの重畳など、研究現場に居れば当然あり得ることだ。勿論、あり得るからと言ってそれを認めるわけでは無い。最新の注意と繰り返しが必要なのだが、それでも出てきてしまうのだ。エラーの信号は予測された形で発生することがある。焦っていると目がくらんでそちらに走ってしまう。

ボスに「死ね」と言われたこともあるが、幸いにして今、こうして戯言を書いているくらいだから、命は繋がっている。挽回して、先の報告を取り消し、そして正しいデータに置き換えていく。勇気が要るがやらねばならぬ。そうやって致命傷を負う経験が必要なのだが、それを見過ごしたり、故意に見逃したりすると、全ての人が不幸になっていく。全て身から出た錆である。最新の事をやっているのだから、挑戦と敗北はつきものである。丁寧にこつこつと、馬鹿正直に進んでいくのが良い。撤退も必要だ。

組織が大きくなって、にっちもさっちもいかなくなると、北のでっかい国の暴挙みたいなことが、研究室レベルでも発生する可能性がある。これくらいは良いだろう?が積み重なっていくと、いつの間にかとんでもないことになっているのだろう。経験が無いから解らないけれど、共同研究などはそれを阻止する有益な活動である。自らの成果の第三者評価を常に受ける体制は、研究者を育てることにもつながる。常にみられていることを恐怖することを忘れてしまったら、もう研究者は辞めるべきだ。そう思う。

大は小を兼ねない

ちょっと昔のお話になるのだけれど、T社の若手社員が100年企業様を前にして、テーブルに足を乗せて上から目線で「これ作れ、昨日より安くしろ」と命令していた。今もそうなのかもしれないけれど、組織の巨大化は傲慢さを生む。巨大な国も同じなんでしょうね。ここまできたら核のボタンを押すのかななんて恐ろしくもある。終結に他の方法はあるだろうか?自分で解を作って決断することが出来ない我が国は一体どうするつもりなんでしょうね。

大は小を兼ねない好事例の気がするのですよ。大きくなってしまったら、小さいものの気持ちには絶対になれない。小さいままでは大きいものの気持ちも分からないけどね。経験ということですけどね。大きいことに慣れて、大きいものの価値観で、小を受け入れる隙間の無い状況は、小の価値観を認めないから、これはもう相容れない。国連が機能していないのだから、地球的ルールが何処かに行ってしまっている。

大が突っ走ると人の命も軽くなるんだなぁと、とても暗い気持ちになる。一番大切なものでは無かったのかなと。小さいまま、こつこつと丁寧にやっているのが宜しい。大きくなるとろくなことがない。リーダーが独裁者となり、とんでもないことをしでかす。小を下に見て勝手気ままになる。この国でもちょっと前にありましたけどね。書類を書き換え、自殺者まで出して、それで平気な顔が出来る。凄いもんだ。

核爆発だけは見たくない。あれは科学者の興味だけで終わるのが宜しい。核の冬が来て温暖化が収まったなんてしゃれにならない。そんな狂気だけはあってはならないのだ。あってはならない戦争が起こっているくらいだから、そんな状況にならないとは誰も言えない。ただ祈るしか出来ないことが情けない。明るい明日であって欲しい。そう願う。