節目にて

先週の土曜日に、久し振りの対面式卒業式が挙行され、会場の前に集う若者の姿を見て、「節目」を作ることの大切さを改めて実感した。一方で、これはまたクラスターが発生して、全国で卒業式、謝恩会、新歓、入学式などのクラスターが発生するのだろうなとも感じた。それでは昨年度に今回のような対面式が出来なかったのかと言われると、そこはワクチン接種も少ない状況であったことや、何しろ「情報不足」というか、相手の脅威だけが見えていたことから、それは難しかったと言い訳ではあるが、そう思う。確度の高い情報とそれを元にした対応。それが肝要だ。

Webの情報などは、まぁ、こんなことをこの人が言っているな程度に眺めている。科学技術的なことですら、「出来た」と書かれてもビーカーの中でということであって、社会に出回るには数年を待たねばならぬ。一方で、それが真実であるならば、それが出来たことを前提に、自らのビジョンを達成しようとする考え方は極めて正しい。ただ、これも真実であるならばというところがきな臭い。

サイエンスやネーチャークラスの論文ですらデータ改竄によって取り下げなどが生じる時代である。いろんな言い訳が飛び交うわけだ。業績主義で落ち着いて基礎研究が出来ないとかね。一理あるんだけど、何と言うか、失敗をさせ無さ過ぎだと思うのですよ。それとちょっと前にも言ったけど、リセット主義というかね。親は叱らない、子はリセットで済ませていく。都合の悪いデータは消してしまい、お化粧することに罪悪感を持たなくなる。大失敗して、心が折れ、破壊される程の経験って大切なんだよ。大人になってからだと辛すぎるけどね。

棺桶に両足突っ込みながら考え事をしていると、もう先が無いな、だから思い切って行こうってなるんだけど、一方で、若年の方が一度、心を折ったからもう先は無いとかね、そんな周りの目を気にし過ぎるというのも、SNSの悪弊なんだろうなとは思うが同情などはしない。目は前にしかついていないから、後ろ指など気にしない。気にしない強さを持っていないといけないということだ。それを大人が破壊していく。人の世界を自分が開く。その気持ちがなかったら、日本はどんどん沈んでいく。それで良いのか嫌なのか。卒業式の壇上に居て、そんなことを思っていた。