入試にて思う

大学で学んだことは『学び方』だったと思う。土曜日も授業が普通にあった時代だったし、いろんな課程が土曜日の午後に組まれていたこともあって、基本、日曜日がとてつもなく大切な日であった。なぁんてことを入学試験にやってきた高校生諸君を見て「そんな時代もあったなぁ」と久し振りに若かりし頃を思い出した。そんな時代。スペースシャトルが煌々と物凄いスピードで空を横断していった、そんな姿をはっきりと覚えている。

工学部の役目はとても多い。今年の受験生が40年後に思い出すのは、コロナ禍という事になるのかもしれない。愉快な想い出では無いが、日本のデジタル化元年という記憶もあって良い。世界に遅れること数十年、社会のデジタル化がよちよち歩きを始めた年だ。今日になってもマイナンバーカードなど身分証明書にもなっていない体たらく。そんなことが記憶の彼方に浮かんでくるのかもしれない。

工学で健全で明るい未来を描いていかないといけない。それが鶴舞大学の使命である。何を学び、そして未来を創り込んでいくのか?受験生達が学生となり、学び、卒業し、社会を転換していく。その姿を何年見続けることが出来るかわからないが、これから生まれいずる科学を、社会に繋げていくのは間違いなく若者達だ。老害の出る幕は無い。あってはならない。

いろんな挑戦があるのだろう。それを助けていくのは若い教員達だ。何と素晴らしいことだろう。新奇の研究成果が形となり社会に笑顔をもたらす。物事を無限に吸収してくれる若かりし頭脳に、寸刻を惜しんで学問を取り込んで頂きたい。受験で終わりでは無い。ほんの始まりなのだ。

未来人に告ぐ

思考は動的でなければならない。過去の経験から今を想像しているのでは、圧倒的に遅すぎる。当たり前だがそんなもんだ。それを巧みに操っているのが自動車企業のTier0の皆さんだろう。昨日は1個10銭だったが、明日は8銭だ、10日後にはお金とモノの両方を納品せよと・・・やり過ぎな気もするが、価値という観点から言えばこのやり取りに行きつくだろう。

しかし、動的思考力と簡単に書いてしまうのだが、実践するのは相当に大変だ。これを特定の分野に絞り込んで成功していらっしゃるのがトレーダー諸氏であろう。全戦全勝ということでは無いだろうが、平均で勝利しているという様は、正に、動的思考の勝利と思う。とても出来る思考では無いが、世界の富を一極集中させ続ける能力は人類の次元とは異なる領域と言えるだろう。

次の瞬間、明日、来月・・・には出来ているだろうと思えるのは、過去の延長に乗ったもが殆どだと思う。出来るか出来ないか判らないけど、やってみるか?と決断してしまう「組織の長」は狂人か開き直りかどっちかだが、両方を兼ね備えているということなのかもしれない。ここで重要なのは「昨日と違うことをやろう」という行動指標は「新しい事」をやろうと言っているのとは違う。「新しい事」をやろうということが尊いのだ。

「再生」とか、さも、美しく感じる言葉が躍る昨今だが、この数十年の惨状に再生するべきものなど無かろうと思うのだ。CO2を減らそうとか言う前に、人が笑顔で暮らせる世界創りという言葉が出てきたことが一度も無いことに用心しなければならないのだ。皆が笑顔で参加出来て、しかも地球が心地よがる。まだ暫くお世話になるかもしれない『炬燵』の様な存在を創るということだ。再生ではない。新しくなければ未来人は笑顔になれない。

ミクロに見る

ハイスとか超硬とか、そんな名前で金属加工様刃物素材は呼ばれているわけですよ。金属で出来ていて、刃物になっているから随分と強いと思われているのですが、数ミクロンオーダーで観察していると、おにぎりのごはん粒の様に簡単に尖った部分が取れていく。目で見える「欠け」というレベルではなく、目視で解る人は相当の変人だ。いや、魔神の域に達しているのかもしれないが、金属ってこうやるともろくなるんだよというお話。

砥石の教科書と言えば昭和10年前後のものが最新で、その後はなぁんにも新しくなっていないところが凄まじい。そりゃぁ、天然砥石なんて旧石器時代から使われていたわけで、誰かが到達した化学的砥石が登場するまで数万年掛かっている。普通の砥石って金属に相当のストレスを与えるので、尖ったように見えて、中には多くの割れ目が入っている。科学的用語的には転位って言うんだけど、要は、金属原子が強さを出すために必要な位置に入っていないということ。

特にその悪さをするのがダイヤモンドだ。金色夜叉の時代から、ダイヤモンドは心をも折るわけで、金属なんてへちゃらに壊す。目視で解らないからそれを平気で売りまくり、そしてそれを使って道具を造りまくる。結果、車軸の折れる自動車や、突然火を吹く飛行機のエンジンが出来上がるわけだ。形を変えていく道具としては、速さと安さを兼ね備えた便利なやつなんだけど、使い方を間違えるとろくなことはない。

触れるか触れないかというミクロな現象から物事を考えていかないと、冷たく為って固くなって、要を成さないゴムの如くに、安直に物事を作ろうということになる。教育の仕組みを、いたずらに変えていこうとお上は押し付けてくるのだが、そう簡単に答えが出るものではない。目に見えない歪が大きなモノを破壊する。教育も正にそうだろう。人が人を幸せにする教育が正しい。競争だけでは無いだろう。そういうことだ。

美と義

急に暖かくなり、ふきのとうが急激に顔を出し始める。ふきは地下茎増殖植物なので、開花させる必要は無いし、花が実に地味なのだ。それでいて存在感はある不思議な花芽である。どうせならふきのとうの時期に摘み取って、美味しく食してしまいたいものである。毎年の楽しみで、今年は昨年よりも一週間遅い登場である。満開の梅の下に漸くの登場である。

ムキになって落ち葉の間を探していると、満開の梅の花を忘れている自分に気がつく。一つの事に集中すると、他の美が思考から外れてしまう。この、美よりも更に素晴らしいものを追求しようとする行動が良いと勝手に思っている。これは主観的なものであって、決して客観とか、比較できるものではないので、言い争う類のものではない。

美しいものは向こうからやってくるが、それは真実ではない。美は見せかけであり、主観的である。それに対して義となると、それは利他的であり、真実である。義は美より高い位置にある。先哲に同意するところである。美しく義も併せ持てば言うことはないが、出来すぎはいけない。多く、能力の押し売りは美であって、一過的なものである。

弱者の為に何かをする、それを偽善と怒鳴る方は、あながち間違ってはいあいかもしれない。義を見抜けず、美だと思ってしまうからである。美は自身の心が作り出してしまうから恐ろしい。自らの心が美に支配されていると、それが鏡写しになって、自らの美の虜になってしまう。難しい毎日である。ふきのとうを探しながら、ふと、そう思った。

震度3にて

ふと時計に目をやると4時前である。もう少し横になっていようかなと思ったら、久し振りにちゃんと揺れた。こんなことを言うと怒られるが、名古屋市内で「揺れた」と断言できるほどの揺れは、「この前はいつだったっけ?」というくらいのものである。気象庁のホームページには、すぐさま、震源が掲載され、各地に張り巡らされた地震に関する検出器の多さに感激するのである。

愛知県下が震源で、断層マップと照らし合わせてみると、まぁ、活断層が沢山ある当たりで、内陸にたまった歪の開放であって、続けて大きなものがやってくるという事ではないなと思った次第。隣の席のK氏は「そんな地図があるのですね」と、驚きの発言をしてくれたが、これだけ、東海・東南海・南海地震の連動ということが言われているのになぁと、そのあっけらかんさに、なんか安心してしまった。落ち着き払って良い事である。

活断層の恐ろしさというか、そもそも日本は、水の上の氷の如く動き回る大陸の衝突点に位置しているわけで、横・縦に力を加えられ続ける環境にある。地震は止まることは無いわけで、覚悟の上で生活しなければならない。寅彦先生が仰っている「忘れたころにやってくる」。最近は忘れる間もなくやってくるわけだが、油断があってはならない。T氏は「リュックに寝袋などを入れようかと思う」と言っていたが、それは直ちに行動されるのがよろしい。

考えてみれば、自分の時間軸で物事が動くはずはない。だから常に全力で思考を進めなければならない。やりきっていても、それよりも早い時間軸が襲ってくれば、もうどうしようもないのだ。地震という命まで奪い去る大地の鳴動を、事前に察知するすべを、現代においても持っていないのだ。持っていないから油断して良いということでは無い。人として全力で生きる。そう思う。

愚痴考

過去を振り返って愚痴る人、後悔しきりな人、もう、それはそれは大勢いらっしゃる。なんでなんだろうと、別に頼まれているわけではないが想像してみると、きっとご自分の人生なのに自分に遠慮しているのではないか?といきついた。だから何だという事では無いのですよ。空気を読めないとか、そんなことを小馬鹿にする風潮があるわけですけれど、そんなもん、どうってこと無いから。

人の話を聴く胆力をお持ちの方は、「大後悔」は無いのでは?「後悔」はあってもそれを引きずることは無く、すぱっと手放していらっしゃる。未来への想いは大切で、それが叶わなかったとしても、想ったことが大切であって、受け入れられなかったとしても、それは時の流れの、ほんの瞬間の事。忘れるのが一番。ただ、何故それを想ったのかは大切にしておくと良い。

結局のところ、思い込みってことなのだと思います。最近、しょっちゅう言っている気がする「自分にとって当たり前」ということなのですが、それこそ思い込みで、主語は間違いなく自分ですよね。そうでなければならない自己中心と、やめるべき自己中心の、後者は単に思い込み。冷静に考えてみると、「自分は変われない」って思い込みで自分を縛っていらっしゃるなって。

ガス抜きくらいの愚痴なら問題無いです。人を引きずり倒すような愚痴をぶつけて頂くことが、相当の機会、あるわけですけれど、結局、そこから離れない。そうならないように気を付けるのですけれど、ふと「あっ」っとなって反省することがある。随分、少なくなってきたような気もするのですが、まだまだ。どんな風に想ったのか。それを時々思い出して、新しい事を想いたい、そんな気分に何故かなりましたというお話まで。

「命」

問診が始まって、ワクチン接種終了までの時間が3分だそうな。ウルトラマン、カップラーメン、ワクチン接種と、3件目の3分項目が出てきたなと、思わずニヤッとしてしまう。厚着はだめだとか、相談事は駄目だとか、何が問診されるのか分からないけれど、それこそマイナンバーカードで接種会場の直近で書式問診して、AIで評価して、接種会場では1分以内で試合終了みたいな流れに何故出来ないのか?

もの根本の概念として「命を大切にする」ということがあるのだと思う。副作用とか、本当に効果があるのか等々、マスコミは何でも面白がって茶化しているわけだが、「命を大切にする」という指針で全てを統一して考えるべきである。人類が初めて遭遇するウイルスであって、それこそ何が起こるかわからないが、良い可能性があるから実施しようとしているわけで、進むしか道は無さそうな気がするのだ。

気がするという、奥歯にものが挟まった状態のお話をさせて頂くわけだが、小生はお医者様では無いわけで、何がどうなるのか、得ている情報だけでは何もわからないわけだ。日本国内におけるワクチン接種がどのように行われるのか、伝わっているのは「命を守って頂ける最前線で頑張って頂いている皆様」からスタートしますよという「それはそうだ」ということなのだが、他はわからないのだ。

他にもあったと思い出したのが、「国費で接種して頂ける」ということだ。国費が国民に益になるということであって、国の財産として「命」がカウントされていたのだなと安心した次第。国債で生み出された魔法のお金や税金が国民に益になることに明確に使われることは喜ばしい。こんな風に喜ばないといけないところに、この国の悲しさがあるような気もするが、今回は納得している。ただ、いつになることやら?安心してワクチン接種をして頂けるのは?素直に待つ、結局はそれが唯一の選択肢であろう。そう思う。

一歩とは

前向きにとか、一歩一歩とか言ってはいますが、受け手側として思っていて頂きたいことが御座います。これも既に所信表明などで繰り返しお話をさせて頂いていることなんだけど、元首相の先史以前の思考を体感して、これが伝染しては嫌だなと思った次第。

お行儀良くしなさいと親に躾られたわけですが、そのお行儀とはどんな時と場合だったのか?お祭りでお行儀よくしていたら大馬鹿ものだ。要は、過去人間が育て上げたルールに疑いを持つべきだという事。自分の性格、そして今、活躍中の組織において「こう修正してしまえ」という外圧的根本ルールに沿わないことも時には大切だ。当たり前を探してみるということを以前申し上げたが、調子が悪いのは自らの思考では無くて、環境のベクトルが原因かもしれないのだ。

それに関係するのだが、「これが正しい!」と思っても、情報は雨あられと降ってくる。都合の良い情報だけをピックアップするパターンにしょっちゅう出会うわけだが、意に反する情報もある。であれば、自らの方法論からスタートしてブラッシュアップしていくしかない。あの人がこんなフレームワークを使っていたから真似をしよう、それは良いのだが、自らの思想も取り込むべきだ。正しい方法など、今の時代にありはしない。

きっと貴方は新しいことに挑戦しようとしているに違いない。現状に不満を抱き、新規挑戦を続けていらっしゃるのでしょう。不満が不安になって、心の沼に沈み込み、何かにすがろうと必死になる。何故ですかね?なんで新規挑戦にゴールがあると思ってしまうのでしょう?そんもんありはしない。だから新規なんでしょ。安心して進めばよいのです。下を向いて一歩踏み出してごらんなさい。進んだ足が見えるでしょ。正解はそこにしか無い。
スタートを見出した貴方は素晴らしい。まずはそう思い込みましょう!

学者考

一昨日の夜に大きな地震が福島県東部沖合で発生した。震源位置、震源深さから考えれば、それは太平洋プレートが大陸の底に沈み込んでいる事実が引き起こした、地殻の振動であると断言して良い。そしてこれは大略10年前の地学に関係する学者諸氏が仰られた「太平洋側に日本列島が4〜5メートル伸びたから、それを縮ませる力が溜まった時、同程度の地震が30年以内に発生する」と断言された『科学的根拠に基づいた予測』が表出したということだ。

マスコミは例によって、偉大な「定量的予測」が無かったかのごとく、視聴者が泣くような報道はどのようにすれば良いのかに熱中し酔いしれ、低俗な報道が日曜の朝に成されたのはご覧になった通りであろう。学者が「根拠に基づいて定量的」に発生すると言ったのだから、発生するに決まっているのだ。元首相の感情論では無いのだ。

近い将来地震が発生するという科学的根拠があったとしても、それは氏名を伴って公表するのは勇気の要ることだ。誰にでも出来ることではない。しかし、それを成した諸学者達がいらっしゃったのにも関わらず、何処かからそれなりの人を引っ張り出してきて講評させる。そしてその方も、当時の定量的発表をされた方の業績を引用せず、自らの発見の如くのたまう。こんなことが継続しているのが日本の有り様だ。吐き気がする。

学者も自信を持って定量的研究成果、統計的研究成果を公表せねばならぬ。例え小さくても良い。そしてそれを、次世代は引用せねばならぬ。初めて見出したの如くの行為こそ、学者族の立場を危うくする。学者は政治家にも金融屋にもマスコミにも媚びへつらう必要は無いのだ。何故か?自らが拠り所とする科学的分析による定量的データを有しているからだ。そのデータの意味するところの解釈には学者の責任が伴う。それを公表する為には、その成果と共に名を語らねば成らぬ。怖い、だからこそ進むべきだ。科学の進化によって過去の解釈が間違いだとなっても恥じることは無いのだ。地球は太陽の周りを回っているのだ。学者たるべし。そう思う。

当たり前

やっとそうなってくれますか、有難うございますというサービスを目指してくれるらしい。メガバンクの24時間オンライン勘定システムへの移行である。「締め」という行為はとても大切なのだろ言うということは解るのだが、それは「サービスする側」の立場であって、受ける側の立場に立っていないことに漸く気がついたのかも知れない。いやいや、失礼なことを言ってはいけない、恐らくエレクトロニクスが追いついていなかったためだろう。

24時間の意味するところは、恐らくなんだけど、常に勘定が動き続けているということだろうから、世界中の「起きているお仕事」に対応出来るなんてつまらないことではなくて、投資も融資も常時動いているということなのだろう。これこそどランスフォーメーションで、その改革に対応した外部のサービスも直ちに生まれるだろう。徹夜で実験するなんてこととはわけが違う。

施設園芸の世界でも24時間フル稼働して、収穫をジャストインタイムでやっていく試みがスタートしているが、こちらのほうは生き物相手でなかなか難しいことがあるようで、食料生産の完全自動化というのは遠いなと感じている。難しいからこそ関われる余地があるわけで、何でも簡単に為ってしまったら、それこそ、人の居ない世界になって「何の意味があるの?」となってしまう。末恐ろしい。

エレクトロニクスの進化だけでは駄目で、人間の「考え方」そのものを変えていかないといけない。古くなった研究ツールを捨て始めたが、「その当時は最先端」だったはずのものが、もう、何の役にも立たない姿を見ると、今、必死に伸ばしている機能も、一体何をやっていたのだろうとなるんでしょうね。「それ本当か?」と当たり前を疑うことが良いのだが、当たり前の行動を自ら気づくというのは案外難しい。当たり前の行動に気づいたら書き出してみる。愉快である。