美と義

急に暖かくなり、ふきのとうが急激に顔を出し始める。ふきは地下茎増殖植物なので、開花させる必要は無いし、花が実に地味なのだ。それでいて存在感はある不思議な花芽である。どうせならふきのとうの時期に摘み取って、美味しく食してしまいたいものである。毎年の楽しみで、今年は昨年よりも一週間遅い登場である。満開の梅の下に漸くの登場である。

ムキになって落ち葉の間を探していると、満開の梅の花を忘れている自分に気がつく。一つの事に集中すると、他の美が思考から外れてしまう。この、美よりも更に素晴らしいものを追求しようとする行動が良いと勝手に思っている。これは主観的なものであって、決して客観とか、比較できるものではないので、言い争う類のものではない。

美しいものは向こうからやってくるが、それは真実ではない。美は見せかけであり、主観的である。それに対して義となると、それは利他的であり、真実である。義は美より高い位置にある。先哲に同意するところである。美しく義も併せ持てば言うことはないが、出来すぎはいけない。多く、能力の押し売りは美であって、一過的なものである。

弱者の為に何かをする、それを偽善と怒鳴る方は、あながち間違ってはいあいかもしれない。義を見抜けず、美だと思ってしまうからである。美は自身の心が作り出してしまうから恐ろしい。自らの心が美に支配されていると、それが鏡写しになって、自らの美の虜になってしまう。難しい毎日である。ふきのとうを探しながら、ふと、そう思った。