新しい物の有り様

名古屋の残念は、車を拝み、道路を自動車様に譲ってしまったことだろう。路面電車が闊歩して、元気な諸先輩方が胸を張って移動しまくれる街だったらどんなに素晴らしいだろうか。バスに乗っていても、路肩の違法駐車に乗り降りを妨げられ泣き寝入りだ。

いすゞ自動車と日野自動車が、ドイツ企業が独占状態であった連結バス製造にチャレンジされたニュースは久し振りに笑顔にしてくれた。何も日本で初登場というわけではないのだ。1985年のつくば科学万博にて輸入された連接バスが走っていたのだ。一人の運転手殿が100人を超える人を安全に輸送する。その路面電車にも似た大きさは偉大であった。

日本では11ヵ所で海外製の連列バスが活動しているらしいが、大きな話題にはなっていないように感じる。人がもっと出歩いて、出会って笑顔で話をする国になって欲しいと思う小生的にはとても嬉しいニュースであるのだ。鉄路だけではない、何か、偶然の出会いが増えそうで良いではないか。

運転は難しいだろうし、走行できる道路環境も難しかろう。しかし、CO2を無尽蔵に生み出す面積を減らす手段として優れていると感じる。燃料電池やEVでは無いのは残念な選択だが、国内技術を結集させて、地球により優しい移動手段に進化して頂きたい。そう願うものが出てきたことを喝采したい。願う自由は奪われないだろう。そう信じたい私であります。

若者に自由の無い国

人が動いて、人と会う。これこそまさにあるべき姿と考えている。大学の講義などはネットの録画配信で良いということがまことしやかに伝わるわけだが、まぁ、一理ある。もしもその程度の人が教壇に立っているのであればという条件が入るわけですけどね。

学問の自由って素晴らしいと思うのですよ。自ら信じる宗教を学ぶということも同様で、政治的に取り締まられていない我が国は、これはやっぱり自由な国だなと、有難いと思うのですな。行動に反社会的な事を誘発するような学問や宗教は縛られて良いとは思うのだが、学び知識として身に着けるところまでは如何なる縛りもあってはいかんだろうと思う訳です。

行動に移すかどうかは倫理感であるから、これはこれで国家とした教育が為されねばならない。海外からネット電話で詐欺をするとかね。テクノロジーの誤った使い方であり、人の心という最も弱いところに付け込んでいくその浅ましさは強烈に国家から排除せねばならぬ。しかし、農産物が盗まれるとか、そんな汗を冒涜するニュースが後を絶たないのはどういうことか。

今、研究者の立場になろうとすると、企業ではほぼ海外に限られるし、国内の大学では職を得たとしても5年任期に縛られていたり、諸々の出来事に阻まれて図書館に籠ることも許されない現状だから、博士課程に進学しようなどとは思えない。働く自由が無い世界という事だ。だから新しい事など生まれない。当たり前の国に自らしている。それが日本だ。

自由とは?

自由って何なんだろうと思えば、それは他の人を労働によって喜ばせたいと願い続けることが出来るという自由なんだろうなと考える。好き勝手に車を動かして、通学児童に突っ込んで行く我儘が許されるという自由ではない。と、思っているのは小生だけなのかもしれないが、個人や組織がやりたい放題ということが自由の象徴であってはあるまい。

基礎点が足りないから受けたい大学を受験できないとか、そんなことが学問の自由を妨げているとか、そんなことばかりをマスコミはえらそげに書き立てるが、基礎点を獲得する自由が与えられていたにも関わらず、努力をしないで機会を獲得したいという勝手と自由をすり替えて、頑張った者の汗を無視する嫌らしい世界だ。

汗は尊い。日夜努力して、その自由を獲得した者の、なんと清々しいことか。我儘をしたいから寄付をしろという者の、なんと嫌らしいことか。歯の食い縛りと血の滲みによってのみ自由は獲得できるのである。重要なことは「そこに自由がある」ということだ。学ぶことも働くことも、謂れもなく駄目だと突きつけられれば、そこには絶望しか残らないだろう。

耳が聞こえなくなっても歯を食いしばって作曲を続けたベートーヴェンを想う時、自らの置かれた境遇が、余りにも自由であることに恥じ入るばかりである。聴覚を失った者にですら、作曲という創造の自由が与えられているのだ。それを獲得し続けたのだ。もっと努力をせねば、もっと走らねばと情けなくなる。国会議員は言論で裁かれてはならない自由が与えられているという勝手な言動を許す国家であって欲しくない。

マスコミの有り様は?

上皇様ご夫妻がコンサートに出掛けたというTVニュースを拝見した。そっとしておいて差し上げれば良いのにと、御公務から離れられてもそっとしておかないこの国の有様に、やはりがっかりするわけですよ。芸能人では無いのだ。有名税など支払う必要は無い方々であって、むしろしっかりいらっしゃるけれども、心の中というお姿であって頂きたいなと願う訳です。画面で拝謁させて頂きたいわけではない。

もっと騒ぎ立てるニュースはあるだろう。マスコミだからこそ出来るパワーがあるだろう。天下国家の為に命を削った角栄さんを追い回して追い落として命を奪ったあの時の勢いは何処に行ったのだ。逆らえば圧力が飛んでくることに恐怖し、政権という謎の権力にゴマをすり、臭いものを隠し続けるこの国の有り様はどんな状況だ。

昨今、勘違いの官僚上がりの政治家君が、憲法違反の暴言を吐いたけれども、追及の手、極めて緩く、自国の美を護る言論が全く聞かれない。ペンは剣よりも強かったんぢゃ無いのか?政治家が社会の人事にまで口を出す。金にちょっかいを出す。そんな時に出て来てその有様を暴いていくのがペンによる浄化というものでは無かったのか?

小さい組織では「言えない」ことは「言わない」ことが崩壊を食い止める防波堤ということもある。なんでもかんでもあからさまということでは政治にならない。しかし、天下国家の事である。しかも憲法違反の発言をした者を、国会も追及せず、マスコミが糾弾しないとするならば、最早、国家では無かろう。知恵のある若者が逃げ出していくのは当然の流れだなと、まぁ、そんな時代なんだなと、化石時代人のため息ですな

美しき国に向かって

泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れずとうたわれて150年が過ぎ、大西洋のクジラを皆殺しにしたメカニズムに組み込まれ、独立できない国に居るんだなぁと、そこまでするか?という程の歓待ぶりを、江戸の日本人達が見たらどう思うんだろうなとちょこっと考えた。

当時の有識者の方々は西洋が如何に強大で戦闘能力が如何程のものかは理解していたわけで、TVドラマに描かれるような閉ざされた国の山猿軍団とは全く異なる状況だったからこそ、たった四杯であったとしても時間稼ぎくらいしか出来なかったわけですな。まぁ、これなどは結局は国を閉ざしていたからということにも原因があったとも思えますけど、文字認識率の極めて高い国家であり、自ら学ぶということが農村の末端にまで広がっていた文化レベルだったことは忘れてはならないのでありますよ。

アジアに出掛けて自国民から詐欺で金を奪うとか、当たり前の如くに禁止薬物を用いるとか、車が児童の列に突っ込むとか、観光バスが渋滞に突撃していくとか、この国、一体、何やってんだと、職業柄、頭を抱えるしか無いわけですよ。頭を抱えて何もしないのかと言われても、まぁ、考えて実践はするわけですけれど、効果は100年経たないと出てこない仕掛けですからね。

出張に出掛けて、並んで待っていると、行く手を阻んで暴力的に乗り込んでいくのは、人生の諸先輩方だ。頭が痛くなる。まぁ、画面を見つめてゾンビ状態の連中よりは活力はあるなとは思っても良いのかもしれないけれど、決して美しい姿では無いですな。こんなことは教わってこなかったのに、教えた方々が美しき日本を破壊してく様は、この国の有り様の全てかもしれない。これではいかん。いかんものはいかん。そう思う。

確率

存在確率で事象の確からしさを表現する量子力学ですが、量子コンピュータの出現が云々とTV等では叫んでいらっしゃいますな。学生の頃、講義でO先生が語る量子力学に最前列でワクワクしながらも「なんのこっちゃ?」と頭を悩ませたのは事実ですな。電子スピン共鳴法にてある場所の電子の存在確率を計算する羽目になったころに「ほほう、すげぇ役に立つな」と初歩の量子力学を現実に当てはめることが出来て感激したのは30年以上も前だ。もうそんなに経ってしまった自分に驚いてしまう。

別に量子コンピュータはすげぇと今更語りたいわけでは全くありません。存在確率という、この「確率」という点に注目したいのです。フィリピン海プレートが何センチ動いたから東南海地震が発生しますとは誰も言えない。30年以内に80%の確率で震度7以上が東海地域にやってきますよということは言える。しかしそれは発生するわけでは無い。あくまでも確率なのだ。

数字を見せられるとパニック障害が心に発生し、ネガティブ思考回路だけがシナプスを支配するのが人間で、そうなっても大丈夫と、どんと構えていられる人物はそうそう居ない。居ないのだが「確率だろ」と割り切ることは出来る。人口統計は我が国においては100%当たる。今、0歳の方々が20年後に全員が生存している場合には何人になると、これは当たる。だから備えることが出来る。問題は備える方向性だ。

人が居なくなるから教育組織はそれに合わせて削減するべしとするか、一人当たりの労働生産性を上げる為に、むしろ、教育の質を徹底的に高めるための戦術を立てるべしとするか、その方向性が重要なのだ。これもまた確率である。質を上げても世界の潮流に追いつけなければ無駄な努力だし、だから止めとけと叫ぶ重鎮の方々が沢山いらっしゃる。でも手をこまねくのは嫌いである。両足で立って両手で花束を抱えて彼女の気を惹いた700万年前から、知恵と工夫でものづくりをしてきたのだ。その為には教育という活動は必須であり有効であると信じている。そこから逃げ出すことはしない。そう考える。

人為的自然現象

70歳まで企業は雇用する努力をせよと言う。稼ぐ能力がほゞ無い大学などにおいてはどうやって給与を生み出すのかと、そればっかりが頭の中をぐるぐる回る。鶴舞大学においては組織一体となり大車輪の働きをして頂いていて感謝の念しか無い状況だが、それを通り過ぎた時、一気に悲惨のドミノが倒れ始めると恐れている。

その最中、金融機関や経産省の方々が、本社以上のものづくりベンチャー企業への期待を押し付けてきている。投資をしたいから良好なベンチャー企業を紹介しろとか、中小企業の第2創業を実現する魔法の呪文を教えろとか、そんなもんがあったら誰も苦労はしないのだ。そんな状況が我が国の現状なのだなと思うと、握り拳に更に力を込めざるを得ない。

某「あきお」さんが終身雇用は困難であると仰った。中京圏にもその波がいよいよ来たかと、雇用形態のグローバル化の波が浸透したなと実感するのだ。明日からもう来なくて良いと言われたらどうするべぇかと本気で思う今日この頃だが、まぁ、どうしようもないですな。教育の質を向上せよと言う人よりも、学生が減ったんだから事業所は閉鎖するのが当然だと競争原理を振りかざす人の方が多いわけですからね。

それで良いわけは無いと思うわけですよ。益々もってこの辺境の東の地は、今から本格的にやってくる社会変革という自然現象を一体となって渡り切っていかないといけないわけです。脱アフリカから相当の時間を掛けて作り上げた縄文と言う1万年の平和国家を、殺戮と封建国家に変えた神武さんは、これもまたヨーロッパから始まった社会変革の波を受けた形の象徴だったわけで、次の海を渡った新規自然現象が東の端まで来ましたよということだ。それだけのことだと受け止めねばならない。

集中力

気候変動も地殻変動も他人事では無いのだが、これまたちょこっと自分事の他人事?大学授業の100分化がじわじわと広がりを見せているとかやってみると分かるのだが、90分間教壇を行ったり来たりして、板書と拭き取りを繰り返すのってかなりの重労働だ。授業の前準備にも相当に時間が掛かるわけで、単に一回当たり10分増えるというだけだろうと言うのは、座って聞く側の論理だろう。

そもそも人間の集中力の限界って15分と言われているわけだ。トレーニング次第ではかなり伸びるかもしれないが、今の90分とて単に座って聞いているだけでは、とてもでは無いが集中しきれる時間では無いと感じている。キャッチボールをしながら話をしているわけだが、キャッチボールの相手は断続的集中領域に入り込むことが出来ると思うが、その他の皆さんは単に聞いているだけだ。階段教室の頂上付近の者などは、最初から黒板などは意識の彼方だ。

100分にすると文科省的な定めから逆算すると、15回の講義日数を14回に削減できる。そうなると、特に月曜日の講義などは祝日で潰れて、夏休みの集中講義対応みたいになることを避けられるのだそうだ。それは講義をする側からすると有難いが、される側からすると夕方遅くまで講義が食い込み遠方から来ている学生は、危険な夜道を歩かなければならない負の効果も大きくなる。社会人コースなどにおいては昼間の講義の後から開始が基本になってしまっているので、カリキュラムが組めない状況になるやもしれない。

教員の力量次第というところなのだが、自己研鑽しろと言っても、いっぱいいっぱいというのが現状だと感じる。8時間15分だけしか勤務してはいけない、自己研鑽時間は通勤時間に含まないとか、教育職ってなんなのだろうと思うわけだ。学生の意欲向上のために創意工夫をし、土日・夜間を潰してまで尽くしても労働じゃないよと跳ね返す。これが日本だ。

今年もゲリラ豪雨

自然との共生ということでは、つい先日、小生が愛してやまない奥三河の明神山の麓にある宇連ダムが枯渇寸前という報道が成された。ダム毎に貯水量はきちんと公表されていて、過去との比較も出来るようになっている。これなどはGNSSのデータ隠蔽とはえらく違って、良い方向性だなと感じるわけです。水と言う公共財への考え方がしっかりしているというか、やらないと死んでしまうというか、まぁ、正しいと思うのです。

先週、鶴舞地区で突発的な豪雨があったのですが、N氏の報告によれば名古屋駅周辺は同時刻は乾いていたとのこと。豪雨の境界線が極めて明瞭な、都市的ゲリラ豪雨という、ここ数年の自然災害が今年もやってくるのだなという予兆になっていますな。

そう思っていたら屋久島の記録的豪雨だ。既に梅雨前線はしっかりと形成され、沖縄地方は既に梅雨入りだ。移動性高気圧がやけに気合が入った状態で、冬の間においても水温が下がらない太平洋エリアの水分が、屋久島めがけて突撃した結果である。人為的作用の積分が、地球環境に影響を及ぼし始めた結果であろう。

温暖化の議論は否定派も地球規模でいらっしゃるので温暖化と結びつけるのは短絡的思考ではあるが、なんか気候が変だよなと感じる。5月ってもっと爽やかな日があったと思うのだが、連休前から半袖シャツで過ごせる状況である。東北地方はまだ四季があると感じるが、名古屋においては冬と夏しかないのではと感じる。この夏のゲリラ豪雨。平成12年9月11日の時間雨量97㎜の時は凄かった。あの頃からおかしかったのかもしれない。備えねばなるまい。

浅知恵

初めて出掛ける場所があると、学生時代においては「何とか気合で」近づいて、就職してからは事前に地図で調べられるだけ調べ頭に入れて、今ではGPSと住所任せで、お気楽極楽になったもんだと実感する。山においてもコンパスと地形図だけが頼りであったが、今ではガーミン君が相当に威力を発揮する。発揮はするが、保険で地形図とコンパスはザックの底に潜んでいる。電子機器への絶対的信頼などは、たぶん、小生は死んでも無いだろうね。関わってきたからね。

それはさておき、久し振りに箱根の火口周辺地域に噴火警戒レベルの情報が伝えられた。東京圏エリアの一大観光スポットだから、警戒レベルの変化は大々的に報道されますな。測位衛星を利用した全世界測位システムGNSSの観測によれば、3月くらいから顕著な変化が観測出来ていたそうな。10連休中前の発表は避けたいというのが地元の意向だったのでしょうけれど、かなり信頼できるGNSSの誤差範囲を超えた計測結果を観光収入と天秤に掛けたということ。

気持ちはわからないでもないけれど、もしも噴火が発生していて、後になって「実は知っていました」というのは相当にまずかろう。温泉や風景はそもそも地球の活動がもたらしたものなのだから、人間の都合でどうにもなるものではない。どうにかしてはいかんのだ。いかんものはいかんのです。

名古屋に来てから箱根観光などしたことは無くて、やっぱり関東の観光地だよなぁと、NHKのニュースを見ていて思った次第。中部地域では御嶽山が同様の状況にあるわけだが、南アルプスから御嶽山に掛けては、常に隆起を続けていて火山活動と地殻変動との相関が見いだせていないらしいのだが、それなどはAIで相関関係を既に見つけていると思うので、世間に公表して頂きたいと切に願う。自然への畏怖の念。忘れては生きてはいけない。改めてそう認識した。