存在確率で事象の確からしさを表現する量子力学ですが、量子コンピュータの出現が云々とTV等では叫んでいらっしゃいますな。学生の頃、講義でO先生が語る量子力学に最前列でワクワクしながらも「なんのこっちゃ?」と頭を悩ませたのは事実ですな。電子スピン共鳴法にてある場所の電子の存在確率を計算する羽目になったころに「ほほう、すげぇ役に立つな」と初歩の量子力学を現実に当てはめることが出来て感激したのは30年以上も前だ。もうそんなに経ってしまった自分に驚いてしまう。
別に量子コンピュータはすげぇと今更語りたいわけでは全くありません。存在確率という、この「確率」という点に注目したいのです。フィリピン海プレートが何センチ動いたから東南海地震が発生しますとは誰も言えない。30年以内に80%の確率で震度7以上が東海地域にやってきますよということは言える。しかしそれは発生するわけでは無い。あくまでも確率なのだ。
数字を見せられるとパニック障害が心に発生し、ネガティブ思考回路だけがシナプスを支配するのが人間で、そうなっても大丈夫と、どんと構えていられる人物はそうそう居ない。居ないのだが「確率だろ」と割り切ることは出来る。人口統計は我が国においては100%当たる。今、0歳の方々が20年後に全員が生存している場合には何人になると、これは当たる。だから備えることが出来る。問題は備える方向性だ。
人が居なくなるから教育組織はそれに合わせて削減するべしとするか、一人当たりの労働生産性を上げる為に、むしろ、教育の質を徹底的に高めるための戦術を立てるべしとするか、その方向性が重要なのだ。これもまた確率である。質を上げても世界の潮流に追いつけなければ無駄な努力だし、だから止めとけと叫ぶ重鎮の方々が沢山いらっしゃる。でも手をこまねくのは嫌いである。両足で立って両手で花束を抱えて彼女の気を惹いた700万年前から、知恵と工夫でものづくりをしてきたのだ。その為には教育という活動は必須であり有効であると信じている。そこから逃げ出すことはしない。そう考える。