存在意義?

世界中で活用される半導体。まぁ、素材から扱ってきた小生からすると、半導体っていわれると一般的すぎて、何もしていない石ころを思うわけですな。そもそも社会的に「半導体」がメモリーだったり中央演算処理装置(CPUですな)を示すようになったのは何時からだろう。半導体が足りないとか言われると、地面はSiの化合物だぜなんて嫌味を言いたくなるのだが、日本では独自に回路パターンの作り込みが出来ないような状況に陥っているので、半導体とか抽象表現をしているのかなと、ちょっと寂しくなる。ここで寂しくなったと言いたいわけでは無くて、日本は何を作っていくのと言いたいだけだ。

「日経新聞によれば」ということなんだけど、利益を過度に追い株主主義の経営体制に若者がノーを突きつけ、社会への貢献や存在意義を明確に示せと言っているということがトップに出ていた。企業は社会における存在意義が無いといけないということなんだけど、単に図面屋で言われたことを実行できる存在というお企業が多すぎるような気がするのですよ。それは存在着では無くて、代替可能なポジショニングに居て、良品廉価の発生現場として認知されているだけでしょ?

自律的に何かが出来ますということで存在意義を唱えても若者には響かないのではないかな?電気自動車の時代になったとたんに、機械科への進学希望者が2割も減るのだ。その中で「他者よりも精緻な加工が出来ます」という事では無く、「目的地に到達するだけではなく、移動中も安心して対話を楽しめる長距離移動を顧客にもたらしたのは、弊社の省エネルギー効果を最大化させるモーターの精緻加工に依る」とかね、他律的に表現しなよと言いたい。自社が何か出来るからという表現で「やりがいを感じろ!」って無理ですよ。

生まれた時からゲーム等、電脳世界で友達と繋がって、チームで何かを成し遂げている人種でいらっしゃる。対面で喧嘩をしながらお互いをなだめながら何かを成し遂げる人種では無い。存在意義という単語の意味も、異なる人種間では異なっているのかもしれないが、存在意義ということであれば、他者からなんらかの思いを獲得できるということでは無かろうか?大企業や政府がスタートアップやベンチャーに求めるものは「良さげな技術が有ったら買い叩いて自分のものにしよう」という事だろうが、少ないかもしれないが、「本当に尖がった技術やアイデアを持って、お互いが尊敬し合って、人々の笑顔に直結したチーム」で存在意義を示したいと願っているのではないか?そう思いたいし、そんな人達を応援したい。そう思う。

地球にて

少し前に「ワクチン接種が進むと、それに対抗しようとして自ら変身を進め過ぎて自滅に至る」からという説がまことしやかに流れた。70%近くの接種率の国々が新感染者増大を招き、マスク・手洗いに対して、日本人は真面目に取り組んでいるからと、まぁ、そんなところが落としどころであって、ウイルス自滅説はどんなものかなと想像していたところに、南アフリカでの新種展開である。ワクチン接種がほぼ進んでいない地域での新種の発生、しかもかなり複雑な構造変態らしいから、ワクチン耐性に対抗するための自滅ということに対して益々疑いを持つようになった。ワクチンが無くても変態を繰り返す。そりゃぁそうだろうね。

正確な情報として、今までと異なる形式の変態形態であるということしか伝わっていない。ワクチンが効かないのではとか、感染力が強いのでは等々、メディアは不確かな情報が広げ、不安をあおることに一所懸命な気がしてならない。加えて日本の水際対策は、国を閉じるなんてとんでもない、普通に飛行機は飛んで人の往来がある。初期の感染拡大と同様の道を辿っている気がするのだ。経済活動優先も良いのだが、その経済活動って、世界に売れないモノを量産するばかりで、世界の人が歓喜して受け入れて頂けるものって、我が国でどれくらいあるのか。農産品は素晴らしく、その先頭を走っているが、その他には極わずかな超精密機器と、土木技術くらいではないのか?自動車なんかしょっちゅう壊れるしね。

思い切った変革に打って出たとして、今、3歳のお子様が新しい教育を受けて、人の感性を高揚させる美しい世界を展開していくためにはここから20年は掛かる。それでもそっちにいかないとだめでしょう。円安誘導して国家の価値を下げて、自動車等輸出企業だけを優遇してきて、汗をかく人達をないがしろにしてきた戦後70年である。舵を切ってもその影響は微々たるものだが、100年後には代わっているだろう。そんなところにしかこの国には希望は無かろう。大量生産で同じものが当たり前から、自分自身の存在意義を認め合えるような国への転換。人類発祥の地における、ウイルスの爆発的な変異は、人間もいい加減に変わったらどうだと言われているような気がする。

オゾン層が出来て地上に植物が上陸を果たした。捕食者の居ない世界で、高温多湿環境において無尽蔵に酸素を放出した。指を持つアカンソステガの進化系が地上に這い上がり、植物を捕食し始めた。すると植物が過剰に減少し始め、地球は肉食群を生み出し、菜食動物を肉食動物が過剰に捕食し始める。そこに人間が現れ全てのバランスを保つ役割を持たされた。人類は好き勝手に地球を荒らしまくり、地球は人類が対処しきれないウイルスで地上を覆った。なんだか聖書の一節のようだが、そんな気がする。

聴き力

お話をさせて頂くというのは、聴かせて頂きますと同義語だと思います。聴かせて頂いた結果、どのような判断をさせて頂いたのか、それをお話をさせて頂くわけですな。対話力と聴き力。どちらが大切かと言われると聴き力だと思っている。聴かせて頂くことは謙虚であり寛容であることが必要。ついつい「なんだ?」って思ってしまうが、それはダメ。全てを受け入れさせて頂きますという寛容さが絶対に必要。その境地にはなかなか至れない。何とも情けない事である

伝達としてのお話をさせて頂くことにおいて、相手の聴き力に掛かっているのだ。思うのだが、聴き力の講義って無いですよね。プレゼンテーションという講義はありますけど、あるいはディベートなどでは聴き力の涵養になっているのかもしれないが、聴き方が「全てを受け入れる」という態勢では無いですからね。打ち負かすためのネタ探しだから、聴き力の醸成ということには為っていないのではと思っている。

聴き力が強いなと感じる時、それはオリジナルのメッセージを返された時だ。その心地良さと言ったら!山道を歩いていて、足音にいくつもの音が混じっていることを楽しみ、風の音に導かれ、樹々のこすれる音にはっとして。そんな心地良さを感じる返答を頂いた時、この人は聴き力が強いなと思うのだ。何処かの誰かが話したことを、無理やりしゃべっているなと感じる時、もう、こちらの聴力はゼロになっている。

独自で良いのだ。ただ、独自という世界は、恐らくだが、三つ子の魂百までで、三つ子の内に作られるものではないかと、最近思っている。何を言っても聞いてくれない人は間違いなく数多くいる。バイアスによって捻じ曲げられて伝達などされようものなら、安直な解釈の連鎖で「あいつは悪い奴」というレッテルを貼られる。まぁ、良いけどね。人から発せられる言葉だけが大切なのでは無い。音を解釈するということ。生きる上で極めて重要な行為だなと感じるのだ。

自らを私物化しない

突然寒くなった。夜分に冷え込んで厳しいなと感じると、既に起きるべき時刻である。渋々布団から脱出し、ルーチンに取り掛かる。数十年変わっていない、飽きもせず同じ行動をしている。恐らくだけれどもご同輩も多いのではないかしら。起きてから職場に移動する間の行動って殆ど変わらないように思うのですよ。というか、変わる方が変だろうと考えたりもする。正直言って、そこから始まって、通勤して職場に入って活動し、退室してから戻って寝るという一日の「旅路」を考えると、同じ旅を繰り返しているだけだなと思う。

ところがだ、旅と同様に、毎日であう事は変わってくる。体験そのものが変わるし、考え方も昨日と変わる。思考の基準が毎日変わるからね。こう書くと「コロコロ族!とかお叱りを受けそうだが、親方日の丸、本社が規定を変えてくるわけだから、それを基準に活動する支社とすれば、思考の原点が変わって当然である。また、世界の進化に先だって変えていくわけだから、凄まじい勢いでコロコロ変わっていかないといけない。変えたいから変えるのではない。必然である。

コロナ禍で友達に会えないから大学を辞めたという学生がとても多かったと聞く。共に学ぶこと、強調して学ぶことはとても重要だ。自分を主人公に考えがちな思考を、友人が居なければ成し得ない実験演習など、社会性の構築という点において極めて重要なのは論を待たない。待たないのだが、それって日本人同士の範囲に限ったことでは無い。となれば、ネット越しで数年間耐えるなんてことも社会ではざらなのだ。寂しいから大学を辞めるとは何事か?何を求めて大学に来るのか?

自分自身は自らの為に存在するのではない。自分を除く他の方々にとって有益な機能を活用して頂くために存在するのだ。自らの機能があったから、それを活用した人が、また、異なる人に新たなお仕事を展開させて頂けるのだ。自分自身を私物化してしているのであれば、それは存在していないことと同じである。自分自身も変化しなければならない。常に追い込んでいく必要がある。立場が変われば意識も変わる。いや、変えないといけない。自己とは進化するものである。そうでなければならないし、停止したらご退場だ。そんなもんだ。

見ているものは真実か?

新規感染者が150名程度となった昨日、世界では新たな感染者が爆発的に増え続けているニュースを見るにつけ、こりゃ一体何なのだと首をかしげる。経済的に豊かな国で新規感染者が爆発的に増えていく。数字はそうなのかもしれない。感染爆発継続の国と我が国との差異が生じる根拠を「マスク、手洗い、そして真面目」に求めたい為政者だが、経済的理由でPCR検査が有料になって、その高額故に検査数が減少したからという考え方もあって良い。そっちのほうが腑に落ちる。日本人だけが真面目?とんでもない。自分の都合の良い根拠を集めているだけではないのか。

科学的根拠が無さ過ぎるのだ。そりゃぁ、そんなもの100年前には無い方が当たり前だったと言われてしまうかもしれない。疫病の大流行を経験と勘だけで切り抜けたではないかと言われるかもしれないが、今は、そんな時代では無い。徹底的に研究費用をそこに投入しても良いのではないか?地球温暖化云々言っている間に、電力不足で様々な機器が停止し、新規能力を持った電子デバイス開発も止まっている。研究開発は止めると再起動しないのだ。都合の良いデータだけを獲得して、それを後ろ盾に科学的根拠と言う。愚か者の戯言だ。

数字を見て判断する。間違った行動では無いだろう。毎日、新規感染者が激減しているグラフを見せつけられる。マスコミの洗脳力には感心する。連載漫画の様に無意識に見て「減っているな」と思う。数字はそうだろう。でもその数字が正しい根拠はどこにあるのか。定量的な数字を信じるのは簡単だ。しかし、その真実性は別だ。ウイルスがそう簡単に消滅するのか?空気中に漂っているウイルスが可視化出来ていないから、新規感染者に自らがカウントされる日が訪れないとは言えないと考えるのが普通では無いのか?

数字を信じられないのであればどうすれば良いのかと言うことになってしまうが、それは各自の意識の有り様だろう。自らの情緒的能力に頼るしかないということではなかろうか。新規感染者のグラフしか見ていない。それと相関関係にある数値とかね、夜に出歩く街の人数とかね、なんかいろいろ言われているけれど、本当にそれだけで良いのか?と疑い続けることは自由だ。価値観の根拠を何処に持つか、人それぞれだしね。都合の良い数字を見たら「誰にとって都合が良いのか」を考えるだけでも何かが見えてくる。恐ろしい情報社会に生きていることを忘れてはならない。機構長の戯言1000回目を迎えて、時にはまともなことも言わないとね。

自然現象

どうなのでしょう、ガキンチョの頃に、風呂場に小判型の軽石がありましたよ。普通に薬局に売っていたし。踵とかを擦って角質化した皮膚を削り取るとか、今思えば「機械研磨」を肉体に施すのが当たり前の時代だったのですね。庶民の間だけなんでしょうけど。今、太平洋岸を騒がせている軽石だけど、そうやって世の中の役に立ったことだってあったのだ。悪者扱いばっかりだけど、人間の都合だなぁと思いますよ。言いたいことは山程あるけど、基本、自然現象だからね。自分達だけ助けてくれっていうのはお門違いだね。

新聞のTV欄を見てみると、京都観光を想起させるような番組から、名物の話やらで、観光で儲けようという方々向けの番組ばかり。モノづくりを啓発するような番組が流行るわけもなく、まぁ、面白く無いからね。一緒にメモリー作ってみませんか?って言われたって、作業は機械だけだし、人間がやることと言ったら、機械の故障監視と歩留まりチェックくらいかな。それとて機械がほとんどだ。何しろ肉眼で見えない世界だからね。でもその肉眼で見えない世界が商売になるというのが面白いではないか。

残りの人生を考えると、かなり短くなっているのは間違いなくて、そんなことだからどんどん断捨離にチャレンジしている。明日死ぬぞって言われていないもんだから、なかなか思い切れないんだけどね。それでも古い電脳を一掃したのは勇気そのものですな。現行iPhoneから比べれば、いや、比べるなんてとんでもないレベルなんだけど、それが出張先で大活躍してくれたっけなぁなんて思い出してみると、なかなか断捨離できなかったのだけれど、まぁ、人生、そこまでだなって期限が切られてくると思い切れるものですな。

軽石から話がぶっ飛んだのだけど、「たまたまこの100年間」に生じなかったって現象なだけなんだよね。東北震災の余波なんでしょうけれど、プレートを固定させていたところが剥がれたからか、日本周辺のあちこちが元気ですな。そうなると気になるのがご当地大地震エリアの東海・東南海地震ですな。あまり来て頂きたくは無いけれど、こればっかりは防ぎようがない。軽石よろしく、地上においては土石流は当たり前、もっと酷しい雰囲気なって生きていられるかさっぱりわからない。だからこそ、日々最善を尽くすことだ。サボっている場合では無い。日々是精進。きついだけが人生だ。そんなもんだ。

ガラス考

昔々のお話なのですが、小学校が木造校舎で、窓ガラスには必ずと言って良い程割れ目があって、それがテープで止めてあった。突然、天井にはめてあったベニヤ板が落ちてくるとか、今では考えられないような環境でしたよ。卒業する年にその校舎が取り壊され想い出が消えてしまったのだが、何が言いたかったというと「ガラスはとても割れやすかった」のだ。3年生の時の担任のS先生などは「ガラスが破けた」とか言ってましたものね。

脱プラスチックという流れがある中で、だったらガラスで何か出来ないかなと。その昔、牛乳は瓶で売られていて、重くて割れたりすることもあり、それこそ給食では脱脂粉乳から瓶の牛乳になり、三角紙パックに変身していったわけですけど、そもそも論として給食そのものが極めてまずかったから、瓶の牛乳は美味しかったとか、そんな想い出は無い。しかし、ガラスであったことは記憶に刻み込まれている。割れやすいということが、物を丁寧に扱う教育になっていたようにも思う。落としても壊れない金属のコップとか、うるさいし、金属の味がするし、嫌でしたな。

辺りを見渡すと、ガラスって「窓」とか「鏡」とか、平板の物ばかりですが、ドリンク瓶として、匂いが着かないとか中身が見えるとか、そんなところが使い道かなぁ。なんかもっと身近な道具的に使い道は無いかしら?溶かしてリサイクルも可能ですし、マイクロプラスチックゴミ問題を少しでも減らしたい。そんな想いがあるのですが、脱プラスチックを目指して、溶かすために高い温度、即ち大量のエネルギーを使うガラス製品製造は、カーボンニュートラルの観点からは厳しいのかなぁ?

木材も良いけれど、漆を塗ったりしないと、水分がしみ込んで見えない部分にカビが繁殖したりするから、長く活用という事が困難。コップ一つとっても面白みはありますけど、カーボンニュートラルだけに拘ると、厳しいところもある。適材適所ということなのでしょうけれど、ガラス素材、鍋の蓋くらいしか思いつかない。身近なギヤマン素材、何かもっと活用する場を作ってみたい。何か機能を付与したら使えるような、そんな場を探してみたい。

萌えること

昨日のことで恐縮だが、2004年に精密工学会で「電子からみた平坦面を超平坦と定義する」と若気の至りで演説ぶってから17年の歳月が流れたわけだが、それ以来の熊本大学であった。半導体関係で幾度となく訪れていたのだが、熊大はそれ以来であった。大震災によって五校校舎や工学部の赤煉瓦工場は甚大な被害を受け、現在復興工事中であった。古いものが破壊されるのは辛いことだが、なんとか原型を取り戻して頂きたい。手で触れることができなかったことは大変に残念ではあったが、また来れば良いとその場を後にした。

熊本という街は案外平坦で、水前寺公園近くの宿から熊本県大、県大から熊大へと徒歩で移動したが、平坦路であるから容易である。まぁ、山道でも容易であると言ってしまうような人間の言うことだから信用ならないが、旅先の移動は徒歩に限る。気がつけば20kmをヘラヘラしながら歩いているんのだ。それでも突然、「なんだこれ?」というものに出逢えるし「信じられない抜け道」に出逢ったりする。う〜ん、あんまり大声で語れないようなところを通ったりしたなぁと苦笑い。まぁ、そこんところは許してちょうだいと言うところだ。

鶴舞大学然り、本社に「もういらないから」とCOP26での火力発電よろしく、自分達で作っておいて、活動している職員に責任を転嫁し、国民から「ほら、本社はちゃんと税金を垂れ流して無駄遣いしている連中を取り締まっているからね」と威張りたいのだ。威張られる側からすれば、ぶぅたれる言い訳はいっぱいあるわけなのだけれど、何しろ本社は「消したから」と瞬時に大学を消滅させることができるから恐ろしい。それが解らないでぶぅ垂れている、ほら、あなた、学長、やってみたら?

無駄話に走ってしまった。熊本を罹災後、初めて歩かせて頂いたが、街の中で骨組みだけが残っている、小生が大好きな商店街のお店とか、軒が崩れてブルーシートもままならないお宅とか。そんな人達のために、工学部は何か出来たのか?学者は何か言うかもしれない。でも、住まいが無くなったんだよ。内燃機関が亡くなるのは許さないなんてドメスティックな妄言はどうでもよろしい。具体的な涙を拝見させて頂いた。燃えるところがある。良い旅であった。以上。

出張につき

リアルに久し振りの旅である。宿泊という行為は、昨年の晩夏の、偶然にも「まん防」が瞬間消滅した時以来である。余りの出張勘の消失ぶりに慄いて、昨夜に準備した着替えを朝にチェックしたら、靴下が入っていないという体たらくぶり。大丈夫かと心配しながら出先までやってきたが、まぁ、飛行機を降りたらもうしょうがない。現地でなんとかするしかないわけだ。定宿と定店で夕飯?などを済ませ、ホテルに戻る。意外に思われるかもしれないが、一人の時は21時で自分店じまいと決めている。当たり前だが昨日の今日でお仕事が立て込んでいる。仕事優先は当然の事で、遅刻などは絶対に無い。これも当たり前か。愚痴は言わないが、時間を守らない人が多いな。最近、そう感じる。企業人においてもだ。そんな輩とはお付き合いをしないに限る。

飛行機の利用に関しては、本当にしばらく使っていない。そもそも、海外に行かなくなっていますしね。国内は定常的に営業に回るのだが、今まで海外においてはそれは少なかった。ゼロではない。これからはどんどん、海外に営業に行かねばならないだろう。そんな時代である。親方は大学を「生かさず殺さず」を示すことで、国民に「ちゃんと教育行政をしています」と示したいそうだ。東山殿に至っては、親方に「工学部は東海地区に一つしか要らないのだ」と公言されたそうで、そうやられると、反発したくなるのがゲリラ集団の常ですな。来年度から始まる第四期だけど、その間に、より厳しい措置が成されるようで、次に国内営業で出張できることがあるのだろうかと不安に思ったりする。

地の果てまでと言うと怒られるが、県自らが(こう書いてしまうと、東京、大阪、京都、北海道が除去されますな)ナイトライトアップなどをしていらっしゃって、県民の財布からお金を土地に落とす努力をしていらっしゃる。愛知県庁や名古屋市庁舎などは上手に使えば・・無理かなぁ?観光客ではなくて、地元民を集めて、その周辺のお店に「開けて頂戴キャンペーン」を打つところが素晴らしい。そんなお店には行かないんだけどね。小生の定店はナイスミドご夫婦(20年前はチャキチャキのお二人でしたけど)のところなんだけど、笑ってましたよ。「観光の人は全く来ないね、来なくて良いけど」って。旬の粋な食材で、いつもの流れが良いね。実に久し振りで、日常が「非日常」になってしまった。

旅芸人の状態が日常であった。国家の巡回者であった者が、2年近く、土地に縛られている。縛られていた野人が、首輪を解かれて歩き出した。そんな大袈裟では無いけど、その土地に帰っていく。地元で威張って何かをすればという時代では無い。基本、世界に技術、物を買って頂かないといけない。相談案件が2分してきた。「過去に戻ってくれますか?未来を創ってくれますか?」、どちらもお断り。こうやりたいから「貴方の力が必要なんです!」、それしか日本の生きる道は無かろう。それでのこのっこやって来た。今日のお仕事がどんな未来に繋がるのかは解らないが、一つだけ言えることがある。今回のお仕事は天下万民に利益があること。学者のエゴは二の次。それでも学者が力を尽くして頂くと仰る。99%の学者殿が反対するでしょう。でも、小生はそれで良いと思っている。学者でしょ?自分が素晴らしいと思ったことやったら?素晴らしいから来た。素晴らしくても迎合は嫌だというおたんこなすは、もう御退場。時代はそこにある。

竹林資源

ゼロカーボンとかね、大気中に排出するCO2を削減させようということなんだけど、天然ガスとかメタンハイドレートとか、もっと恐ろしいものが地球には沢山眠っている。どこにどれだけ眠っているのか解らないところが更に恐ろしい。気候変動云々は注目しないといけない課題であるのは間違いないですが、石油を掘ったらダメよみたいなヒステリーに乗っかるとろくなことは無い。まぁ、プラスチックも海洋汚染の一つの発生源だしね、いつまで出てくるのか分からない石油に頼り過ぎているのは宜しくないのは間違いなかろう。

プラスチックって便利ですからね。熱を加えて自在に成型できる。接着もできれば溶解させてリサイクル可能な場合もある。サーキュラーエコノミーを考えていくと、そんなに悪い奴でも無いような気がする。気がするだけでこれも毛嫌いされてきているから安易に作っても良いのではなどとは言えない。何かを形にする、目の前にPCやディスプレーがあるわけだが、これをプラスチック等樹脂以外で作れとなるとえらいことになる。

一時、セルロースナノファイバーが流行ったわけだが、ネットを訪ねてみると「樹脂に混錬すると引張強度が増す」などと、樹脂との合体になってしまって、それでは面白みが無かろう。中にはセルロースナノファイバーシートなる透明な断熱性素材の開発も成されているようだが、そう簡単にプラスチックよりも軽くて便利なものが出てくるとは思えない。人類が石油慣れしてしまっていますからね。それの代替がそう簡単に出てくるとは思えない。

竹由来の繊維をナノファイバー化する大分大学の技術は素晴らしいと思う。それを活用するベンチャー企業の登場が待たれるところだね。大企業はなぁんにも出来ないし、やらないから、新しいものは新しいものを使いたい人が知恵を出し合って作って使う。そこに金融屋がちゃんと投資・融資しないとだめだんだけど、その辺りがこの国は極めて弱い。弱すぎて話にならない。モノが溢れているからモノを買わないのか?そうではないと思う。もっと心が豊かになるモノって、新しく登場してくると思うよ。そう思っていると楽しくなる。それで良いのだ。