聴き力

お話をさせて頂くというのは、聴かせて頂きますと同義語だと思います。聴かせて頂いた結果、どのような判断をさせて頂いたのか、それをお話をさせて頂くわけですな。対話力と聴き力。どちらが大切かと言われると聴き力だと思っている。聴かせて頂くことは謙虚であり寛容であることが必要。ついつい「なんだ?」って思ってしまうが、それはダメ。全てを受け入れさせて頂きますという寛容さが絶対に必要。その境地にはなかなか至れない。何とも情けない事である

伝達としてのお話をさせて頂くことにおいて、相手の聴き力に掛かっているのだ。思うのだが、聴き力の講義って無いですよね。プレゼンテーションという講義はありますけど、あるいはディベートなどでは聴き力の涵養になっているのかもしれないが、聴き方が「全てを受け入れる」という態勢では無いですからね。打ち負かすためのネタ探しだから、聴き力の醸成ということには為っていないのではと思っている。

聴き力が強いなと感じる時、それはオリジナルのメッセージを返された時だ。その心地良さと言ったら!山道を歩いていて、足音にいくつもの音が混じっていることを楽しみ、風の音に導かれ、樹々のこすれる音にはっとして。そんな心地良さを感じる返答を頂いた時、この人は聴き力が強いなと思うのだ。何処かの誰かが話したことを、無理やりしゃべっているなと感じる時、もう、こちらの聴力はゼロになっている。

独自で良いのだ。ただ、独自という世界は、恐らくだが、三つ子の魂百までで、三つ子の内に作られるものではないかと、最近思っている。何を言っても聞いてくれない人は間違いなく数多くいる。バイアスによって捻じ曲げられて伝達などされようものなら、安直な解釈の連鎖で「あいつは悪い奴」というレッテルを貼られる。まぁ、良いけどね。人から発せられる言葉だけが大切なのでは無い。音を解釈するということ。生きる上で極めて重要な行為だなと感じるのだ。