ネイチャーポジティブ

ネイチャーポジティブという言葉を、農工大学長殿からご紹介頂いた。現状、ネイチャーネガティブエリアに突入しているということなのだが、我が国だけではなんともし難い状況に世界はある。今ある農地に大量の農薬と肥料を投入しても、増加し続ける人類の空腹を満たすことは出来ないということだ。すると何をしなければならないかと言えば、不毛な砂漠を農地にするしかない。我が国では農地を宅地や工場、ソーラーパネルで覆うという訳の分からない方向に進んでしまっているが、退廃国家だなぁと思うのだ。

食糧の3割以上が廃棄されているということも大きな問題だ。保存食にしようとすると莫大なエネルギーが必要となる。輸送にしてもそうだ。食糧を無理やり海外から運んでいるわけだが、ちっともSDGsでは無い。綺麗ごとを言うなと常に言われるが、綺麗ごとを言っていかないと、小生が生きている間に、取り返しがつかない世界になってしまうのではないかと危惧するのだ。

アフリカにおけるサハラ砂漠の南進を防ぐ、グリーンベルト創造の取り組みを拝見して、これは凄いなと感じた。雨季を確実に捉えることで、砂漠を有機化していく取り組みである。これは日本の現状を真っ向から否定する動きで、とても羨ましく感じている。政府の支援待ち、資本投下待ちの活動では無く、そこにいる人がやりがいを持ちながら、経済活動としている。バイオエコノミーと言っても良いのではないか。

かちんかちんの大地をつるはしで打ち砕き、雨が降ればマイクロピットに溜まり、大地に染み入るようにする。きっと、原始の人達もそうやったに違いないと、人が成せる範囲で食糧を増産していく。出生数が激減しているが、それは定常状態となっていくだろう。人が成す機能の有り様から考えなければならない時代への突入という事だろう。人もネイチャーの一部だから、ネイチャーネガティブな現状では、人が減っていくのは当然である。何を今更である。

エントロピー

ずっと言っていることだが、エネルギーと食糧の自給率が100%で無い国は国では無い。物価と給料だけが上がれば国民は納得すると思っている政治家諸氏も総入れ替えの時期であろう。今が良いと、旧態依然を恋してやまない老害も、これにて終了にしては如何かと実感している。老害と言うが、若年層にも老害は多い。気を付けねばならぬ。挑戦という単語を忘れたら、既に老害である。今は変わるためにあるのであって、延長するためのものではない。

エネルギーが高騰しているから、温室栽培の野菜の利益が下がっていく。政治家諸氏は価格転嫁すれば良かろうと簡単に言うが、円安で肥料もべらぼうに高騰して、それらを含めて、人参一本300円ですと言われて、誰がそれを買えるのか?政治家諸氏以外は無理であろう。工業産品にしても、金型素材は勿論の事、刃物もそれを作る砥石にしろ、更に輸送コストだって人件費に転嫁するべきなのだが、目の前の「もの」が一体、いくらになっていくのだろうと恐ろしくなる。

某所で省エネの委員会などに参加をさせて頂いていると、乾ききった雑巾を、よくもまぁ絞って水をしたたらせるなと感動するわけだが、単品・単事業だけでは省エネ、即ち、低価格化は困難であろう。以前より思っているのだが、巨大な工場が農地にどかんと腰を据えることが我が国ではとても多い。食糧自給率を下げる要因ではあるが、そこで出てくる排熱を農業産品の育成に活用するべきなのである。鋳物企業殿に置かれては既に実践されているようだが、水も空気も、エネルギーを付加したものはとことん使っていくという形にするべきである。

工場排水だとか、排気だとか「排」の字を使うと、直ぐに反対運動が起こりそうだが、農薬で汚れた水を河川に流す農業従事者の方がよっぽど生態系に悪影響を及ぼしていることを、我が身を振り返って反省するべきだ。エントロピーの増大過程を制御して、ものづくりを見直していく。エンタルピーだけが注目されがちだが、エントロピー産業学というか、そんな考え方を農業高校とかでやって欲しいなと思うのである。折角ある学理である。人の生きる場面で活用したいでは無いか。そう思う。

脱老害

東大寺の門前で乗用車が人を死に至らしめるという、極めて残念な事故が発生した。他にもご高齢の方の運転の自動車が歩行者を殺傷する事件が無い日は無いという感じがする。何歳だから運転免許証を返納するべきだということは、個人の力量に依るところが大きいので、簡単では無い。しかしながら、生命であるから老化するのだ。これは如何ともしがたい事実であって、どこかで退席しないといけない。一区切りを逃してしまうとずるずるといってしまう。

人の怠惰な精神構造は清新の理想を求めることは無い。どんなに地球環境に素晴らしくとも、自らの生活環境に苦役が見えると、その行動を選択することは有り得ない。他所の国の事だからとやかく言わないが、こんな暴力的な発言をする人を大統領に選んでしまうのだなと、これも同様の審理であろう。苦役を与えないリーダーこそ素晴らしいということなのだろう。ひょっとすると事故を起こしてしまうかもしれないが、自動車が無いと不便なところに住んでいるからという言い訳で、結局は人を殺めてしまう。

戦後のこの国を振り返ると、労働させて頂く有り難さから物資所有の喜びへ意識がシフトした。即ち。人間力向上から金銭力向上へのシフトである。それは見せかけの西洋化による日本的文化喪失へと繋がり、心の繋がりから目に見える愛情表現へ価値観がシフトした。更に創造する努力から平準化による量産へと仕事の有り様が変容し、仕事の創出から待ち受けの姿勢へのシフトに陥った。人間力を向上させない金銭・物質的豊かさが、生みの苦しみから生きる苦しみを創造した。

苦役は嫌だという声は明かに正しい。言われた仕事を請け負って金銭を得ることは間違いではない。高度経済成長は日本人から創造の誇りと達成の幸福即ち「歯のくいしばりと血の滲み」から得られる明日への期待を奪い去った。自動車なんか無くったって、明日への希望はある筈だ。そう、ある筈と言い切れるこの国であって欲しい。残りの命をその為に燃やし尽くしてみよう。そう思う。

ネットプロモータスコア

あっという間に二月の最終週に突入である。年度が入れ替わるまでに約一か月しかなく、その間には様々な通達がお上からやってくることになる。財務大臣が税金の支払は個人の意思だなんて言おうが言うまいが、まぁ、様々な朝令暮改的なお話が密度高く襲ってくるだろう。株価はGDPと非連動に動き回り、実質賃金の低下は加速していくのだろう。大学入試が佳境に入ってきているわけだが、GDP競争力向上を実現できるのは若者のパワーしか無いわけで、期待させて頂くことにする。

名古屋市教育委員会と教員団体とのお話も、何が真実なのだか知りたいところではあるのだが、第三者調査検証チームを立ち上げるというお話までしか真実が分からないので突っ込みようがない。小生が存じ上げている校長諸氏にはなるほどという人物に溢れているのだが、その方々においては迷惑なお話であろう。ことの事実は全くの闇の中で、明るみに出てくる必要があろう。自殺があっても「いじめの事実は無かった」と言い放つ方を拝見していると、どうだったのかと勘ぐってしまう。

三月に向けて恐ろしいのはインフルエンザが型を変えて流行を始めていることだ。コロナ禍前は、共通テストの頃にピークを迎えていた筈だったのだが、どうも昨今は様子が違うらしい。夕方の満員時には分からないのだが、早朝の地下鉄ではマスクレスの方が「ごほごほ、ゲホゲホ」と咳を繰り返していらっしゃる。マスクは放せず、店舗などでも継続してマスク着用状態である。受験生諸氏も同様になさるが宜しい。油断ならない。

口コミ力ということかもしれないが、ネットプロモータスコアという、真の他律機能の伝播力が商材や企業力のゲージとして正式に認められ始めてきた。小生的には10年以上も前から唱えていたが、飽き始めた頃に社会が気付き始めるという事で、まぁ、主張は正しかったというか、例によって早すぎたというか。MOTも猛烈に進化して愉快である。大学も同様である。教育の質におけるNPSの高揚が存在意義となるだろう。時代の進化は急激だ。必死に先取りするのみである。

シーズ?

相も変わらずシーズ型連携の模索なのだなと、強烈に猛烈にがっかりしたわけだ。何を期待していたわけでは無いのだが、シーズからは何も生まれない。これは極端な言い方なのだが、水も栄養も無い砂漠に撒いても芽吹き、そして生き物を集める果実を付けるシーズを寄越せと言われる気分は、もう辟易である。これを書いている時に、ふと、18年前に、とっても偉いお方から叱責というか侮辱というか小馬鹿というか、頂いた言葉を思い出した。

所詮、SiCなんて材料は永遠にモノにならないから、お前の研究はゴミだ。鶴舞大学ではモノになる研究以外は認めない。俺の弟子達を見ろ!と、大いに怒鳴って頂いた。哀れなお話だなと、完全に忘れていたが、妙な事に思い出した。SiCが新幹線のメインパワーデバイスとして活躍するなんて未来は見えなかったのでしょうね。過去の実績にしがみつく研究者の哀れな末路であるのだが、言いたいことはこれではない。

シーズって、要するに「何処に撒いて欲しいか」も併せてシーズになり得る。もう一歩進んで「こんなニーズにマッチする、ニーズに寄り添えて、ニーズを高め、ニーズの影響範囲をこんなに広げられます」というブランディングと共にシーズを提案する必要がある。その様なシーズはマーケティングが可能である。顧客シェアも推定できるしね。特定分野にどっぷりの方にはピンとこないだろうが、気が付いたら水の無いふろおけに真っ裸で居る事に気付くのかもしれない。

俺たちが売ってやるからシーズを出せという方々を信用する程、間抜けでは無い。しかし、未だにそんな悪行が横行しているのだ。もっと恐ろしいのは、お前たちの育て方を盗ませろと、時間泥棒してくる輩である。この時期、年度駆け込みの報告書作成の為に、インタビューを受けてくれとどんどこ時間泥棒がやってくる。話を聞いて出来るなら、生成AIが世界中の民に食事を提供しているだろう。そうなっていないのだから、聞いただけでは駄目なんだよ。シーズとニーズの有り様すら分からないなら来ないで頂戴。それだけだ。

リスキリング考

リスキリングとかリカレントとか、なんだか簡単に語られてしまうのだけれど、アウトプット型とアウトカムズ型があって、人が本当に育ったのかまで考えると、そのエビデンスというか、チェックまで含めて極めて難しい。名工大は6年一貫を作ったけど、東大が5年一貫で修士を出すということなんだけど、どんな人材に育っているのか、その効果が発揮されるのは早くても卒業後5年後以上だろう。しっかりとアウトカムズを定め、そのKPIを定量的に用意しておく必要がある。

10年後どころか5年後すら推測は極めて難しい。その時期において、世界に向けた提案が出来ればそれは素晴らしい事だが、迫りくる事態において、どのように行動していくべきかを自ら判断し、他と議論出来、ストーリーを描き、アウトカムズを発信できる能力が求められるわけだけど、勿論、そんなに容易な事では無い。容易な事では無いのだが、AIのサポートを受けるのか、AIに従っていくのか分からないが、あるものの改良であればAIに任せればよく、新しい人の喜びをイメージ出来るかどうかがキーである。

夢多きお話である。記憶の羅列では無く、人への喜びを喚起できるかが肝であるわけだが、5年の後に限らず、水と食糧、エネルギーが世界中で増え続ける人口をサポートできるかという課題は加速こそすれ、無くなることは無いはずだ。それが満たされないと暴動というか戦争というか、継続していってしまう。そこにこそ、人材育成の効果が発揮されなければならない。大勢の中で意見を発信出来、更に、人の意見を聴ける力。聴き力ということなんですけどね。それを教育で獲得して頂くことは容易では無い。

省エネという分野に限っても、乾いた雑巾だと思っていたところが、実は大きな湖だったという程に、エネルギー消費削減に繋がったりする。いつも身近にあるが故に気が付かないということが沢山ある。異分野でダイバーシティ。どの様にそれを作るのかはAIが考えてくれるだろう。しかし、何故、それをやらねばならないのかは人間が考えねばならぬ。広い視野で思いやりを持てること。それが教育のベースにあるべきだ。三つ子の魂だとするならば、リスキリングは遅すぎるのかな。最近、そんなことを考えたりしている。

インバウンド

旅行客向けの売値と、地元民向けの売値が違うというのは、隣国では当たり前だが、この国においては、旅行客向けの価格に統一する方向性のようらしい。一部のマスコミ報道を鵜呑みにしているだけなのだが、様々な商材の価格が上がっていることを肌で感じる。某、廉価販売店は行列の大賑わい。給与が上がって商品価格が上がるという正しい経済状況では無く、海外の購買力に価格をマッチさせて、国民は置いてきぼりの気がする。

大学においてはアンタッチャブルだった授業料だが、それも上昇させる動きが顕在化してきている。それに追従するのかしないのか。するとして、学生サービスをどうするのか。物価スライド方式にしてしまう考えもありではある。次元の異なる少子化対策で2028年度から増税によって高校生年代までの手当が成されるらしいが、大学生というところは空白になっている。税金を納める立場が組織運営をしながら、学ぶ者からの納付金が変わらないとなると、組織としては干上がる方向に向かっていく。綺麗ごとでは無い。

ものづくりに元気が無くなれば、資源が知恵しか無いこの国は、インバウンド消費による収入と、そこからの税収だけしか頼るところが無くなるわけだ。国民不在の国家戦略ではあるが、例によって、それは国民が選挙で選択した行く末だから、民主主義的には従うしかないわけだ。小足棺桶の状態で何を言うかだが、震災から一ヶ月半掛かっても、上下水道が開通しない様を拝見していると、この国に生きていく事の不安が増してくるというものだ。

TVで能登半島で必死に災害復興に取り組んでいらっしゃる名古屋市水道局の皆様の働きを見た。名古屋市民の税金の正しい使い方であると感じる。寄付と同等である。こんな素晴らしい税金の使途があるならばどんどんと活用して頂きたい。インバウンドを期待するのではなく、国民の地力で国家が成り立つ挑戦に税金を使って頂きたい。国民も積極的に「今」を学び、その知恵を活かして頂きたい。どんどんとリスキリングや兼業が認められ、一人の能力が十倍にも活用されるような世にならないものだろうか。知恵の私物化の時代では無い。

宇宙

1985年に国際科学技術博覧会というものが筑波で開催された。その場に住んでいたので、何度、会場に足を運んだが覚えていないが、時間があれば出掛けて行った気がする。サテライト会場があって、つくばエキスポセンターというのだが、現在、つくばエクスプレス線の終着駅から直ぐの、つくばエキスポセンターという形で今も残っている。世界最大級のプラネタリウムや指先で何トンもの石を動かせる展示のほかに、原寸大のH2型ロケットの展示物があった。それは今もある。随分と時が経ったものだ。

筑波研究学園都市の都市伝説として、学園都市を南北に貫く東大通は、有事の際には滑走路になって、展示物のH2型ロケットは、核弾頭を搭載してあるとかないとか。まぁ、今と違ってつくばエクスプレスなんてものは無かったし、隔離された僻地に生まれるよた話なのだが、なんだか今でも愉快に感じられてしまう。青春真っただ中の瞬間がそこにあったわけだ。12年もその地に居たのだから、まぁ、やんちゃな思い出と共に、H2型ロケットの大きさは心に残って消えることは無い。

先日、H3型が、ほぼ、からっぽのカーゴの状態で、昨年とは異なり、成層圏を超えて宇宙の藻屑と成り果てた。その間、お家芸のムーンサルトを決めるとかね、限りなく削られた予算の中で、凄まじい努力だと拍手はするのだが、これが日本における最先端技術の有り様なのだなと思うと、かなり寂しく感じられた。GDP云々だとか、論文出版効率が悪すぎるから、大学を再編させるだとか、科学技術の新規創出にはブレーキを掛けながら、パーティーで脱税するとか、宗教団体の助けを受けるとかの親方ばかりで、良くぞ成層圏まで行きついたと、そこに感心する。

スペースXの事例を出すまでもなく、既に宇宙空間を行ったり来たりする時代になって何年も経過したのに、この国では宇宙ゴミを量産する方向で「成功した」と喜ぶ体たらくである。巨大なロケットを創り上げるのに、合金の板から削り出し、それを接合させ、刃物をはじめ様々なものを消耗して、挙句の果てに宇宙の藻屑とするやり方の何処にSDGsがあるのか。挑戦をしているのかどうかは知らないが、得意だった物真似すら出来なくなってしまったのか。宇宙は遠くなりにけりである。

暖かい事

日当たりの良い場所では梅は既に満開近く。月末に再び寒くなるらしいが、三寒四温で春というか、夏に向かってしまいそうな気配である。冬になっても太平洋の海水温が下がらないから、高気圧が日本の太平洋側を通過していくと、時計回りに暖気が入り、一気に暖かくなる、いや、暑くなる。等圧線の状況を見ても、縦じまから横じまになってきていて、冬の西高東低型とは全く違った様相を呈している。月末の寒気がどのように入ってくるのか分からないが、このまま桜の開花、まっしぐらであろう。

カーボンニュートラル云々の会議が地域にあって、これはSDGsの絡みで、当該地域はCO2を盛んに排出する地域だから、産学官金民連合で、カーボンニュートラルを目指す活動をしないとおしおきだと中央政府から言われたのだろうなと、そんな仕掛けなんだけど、そんな調子だから盛り上がっているわけでは無い。地球温暖化というじわじわとそれに慣らされて豪雨災害も40℃を越える熱波も、こんなものだったっけ?となっている中で、目指すカーボンニュートラルはどんな効果を未来に発生させるのか、期待値すら提案されないのだから盛り上がりようが無い。

こんな年配者はほったらかして、喫緊の課題は小中学生が経済活動と地球温暖化との因果関係と相関関係を徹底的に学びつくし、そうであるならば、今から挑戦しようと思って頂くことだ。現状の企業のリーダーに何を言っても、自社の経済活動にブレーキを掛けるような行動を起こすはずはないのだ。株主とてそうだろう。更に考えるべきはカーボンネガティブであって、ニュートラルではないから、思考が路頭に迷う程度では無かろうか。

眠れないほどの寒さを体験した後の暖かさに向かって「気温よ、低下せよ」とは決して言えない。卒業式の頃に桜が満開でも、それはそれで美しいなと思ってしまう。カーボンネガティブに向かうにはかなりのハードルの高さだし、間違いなく「挑戦」的案件である。経済的損失確率が高い目的地だから、挑まぬ企業は多かろう。何よりもこの国の政府に至ってはそれどころでは無さそうだ。腹を立てて頭から湯気をだして温暖化をアシストしないように、冷ややかに見つめてやろう。そんな気分だ。

この国

自論だが、エネルギーと食糧の自給率が100%となって始めて国家である。加えて、いきなり難癖付けて国境を無視して暴力的に他国を蹂躙するというのが世界の共通認識となってしまった今、国防に関しても同様と考え始めている。どんぱちよりもインテリジェントな国防が宜しいが、この国はそれも危ういので、明日への希望などどこにも無いなと感じてしまう。

棺桶に両足を突っ込んでいる状態であるから、そろそろ自分の為に時間を使おうと、Google Mapなどを眺めてみるのだが、ローカルな鉄道があったはずだと、40年も昔の記憶を辿ってみると、確実に消滅している。先日も、それ程遠くないところをドライブしてみたのだが、軌道は既に軌道跡となり果て、知っていればその昔は軌道であったのだなと解るくらいの状態となっていた。地域の脚がこうやって奪われていくのだろう。

人は動いて出会ってなんぼであるとは思う。ローカル鉄道の消滅のお話を聞かない年が無い程である。鉄道車両の車検や軌道保守に掛かる費用が莫大で、人が減っていく日本において、網の目のような鉄道網の維持は、所詮無理があると考える。税収で賄えない公共は在ってはならないというのも自論である。それは全国レベルで考えれば良い事ではあるのだが、1000%以上の赤字で公共と言われると、公共って何だとなってしまう。

その一つの答えが自動運転ということなんだけど、どうもこの国だけが、それが阻害されている。ニューヨークではロボットタクシーが当たり前に走っているのに、我が国では実験において、レベル4の車体をレベル2に落として街中を走行させる始末である。能登半島で道路が寸断されたが、自動運転の無限軌道車を走行させて、水を含めた物資輸送は出来なかったのか。何故、これ程にテクノロジーの参入が阻害されるのか。政治の圧力であるならば、破壊しなければなるまい。勿論、選挙でね。