春遠からじ

毎年の事なのだが、大晦日と言っても、様々なお仕事が襲ってきていて、それらと格闘して、どこで踏ん切りをつけるかが自らの課題となってしまう。今年においては昨夜の2時くらい(朝と言って良いのか?)から寝ずに頑張って、何とか年内に終結させることが出来たのは、ここ10年においてはじめてかもしれない。いろんな取り組みを前倒して始めたお陰だが、お仕事量が増えているのは間違いなくて、来年はもっと断捨離を進めて、大掃除量を減らす工夫も必要と感じた。

基本、休暇中は戯言はお休みなのだが、結局、一昨日、さぼらせて頂いた程度で、くだらないことを書き続けている時間が有ったら仕事しろよということなのだが、集中力には限界もあるから、つい、ほざいてしまうわけだね。今年は寒波が訪れて、散歩に行く気になれなかったということもあって、デスクワークが進んだのかもしれない。マーケットに行くにもマスク着用は嫌だしね。

鬼が笑うので明日からの事を語ることも無く、毎日が反省ばっかりだったから、振り返る必要も無い。まぁ、そうなのだけど、あれを精緻化したいとか、学問的に要素技術の原理探査をしてみたいとか、そんな欲が無いと言ったら大ウソなんだけど、如何せん、もう、研究者では無いからね、それは叶わぬ夢という奴だ。しかしながら公務以外での自らの学習を止められているわけでは無く、土日のデスクワークとかね、益々増えそうな気がしている。

離れてみると研究者とは随分と恵まれた環境であったことが解るわけで、親方日の丸に「仕事の効率向上を目指せ」なんて言われるのも無理が無いかなと思ったりもする。一方でその親方日の丸のアンチIoTやアンチAIによる税金の無駄遣いを何とかしろよと叫びたいわけだが、霞が関には絶対に届かないのでどうしようもない。本年最後の戯言も、やっぱりそこに行きつくのかという中、庭を見たら既に春の気配があった。季節は進む。春遠からじである。気合である。

提案書考

最近、年末に襲ってくるのがいろんな評価書類。束になって襲ってくる。締め切りが厳格で、お引き受けさせて頂いた以上、督促されるなどは以ての外、その為に、他の雑事を早急に片づけることになる。朝から取り掛かって来てうんざりきているので、区切りの良い処?で戯言でもほざこうというところだ。

感じることがあって、科研費の申請書もそうなんだけど、上手と下手の差が極めて大きくなっている。何が言いたいのだ?とか、あんたのオリジナルはと疑念を抱くことが殆どで、この提案は何をどう変えて、獲得した研究資金は社会をどう変えるのとかね、何で提案書を出してきたのという、根本的なところが見えない申請書だらけだ。こんなものの為に、貴重な年末というか休暇(職制柄存在しないけど)を潰さないで頂きたい。

大学、企業を問わず、そこにいらっしゃる人の能力の差なんて殆ど無いんだよ。これやってみたい、人を笑顔にしたい!なんて、生まれた時から備わっていて、何も他人と変わらない。それを「何とかしよう」「どうしたら出来るのだろう」とあがき始める努力から、段々と差が開いてくる。運も実力の内と言うが、それも努力が獲得できるものだからね。そしてそれを延々と続けることだね。どんなに歩みが遅くても、三歩進んで百歩下がろうとも、諦めないで続けていると、何かが見えてくる。

一番違うのは、どの努力の継続が、習慣になっている奴ほど恐ろしいものはないね。提案書の熱量と言うか「これは投資したら何か変わりそうだ」って感じる提案書を書ける人って、やっぱりそんな人なんだよね。バックキャスティングで思考して、美しいと思える未来を描き、それに向けて実現していく。周囲を巻き込める力って、それしか無いんじゃないかな?今を疑って未来に他人を誘う。そんな提案が出てこないかなぁと、ちょっとぼやいてみました。

おせち料理は作り終えた

昨日の大雪と打って変わって過ごし易い冬の日となった。縁起を担ぐ人にとって、今日の28日は大忙しである。末広がりの今日を逃すと、もう大晦日しか許されない?ことが沢山。お陰様でおせち料理は全て完了、神様、仏様も綺麗さっぱり。やるべきことは成し遂げた感万歳の午後である。

伝統ということなのだけれど、段々と砂糖の量を減らしてみたり、塩分は限りなく薄くみたいになっていって、冷蔵庫が無かったら決して日持ちはしないだろうなというおせち料理になってしまっている。冷蔵庫があるのだから、それを活用していくわけで、それで良いのではなかろうか。

醤油を切らしてしまいそうだったので、ちょこっと近所のマーケットに出掛けたが、すんごい人の出と、景気良く食材をお求めになっている姿を拝見して、日本人だなぁと実感した次第。それにしてもこんな山の様な鏡餅とか正月飾りとか、本当に売り切れるのかなと心配になってしまう。廃棄食材の山になったりしないのだろうか?

コロナ禍がじわじわと増えているわけで、空気感染で広がる見えないウイルスにどうやって対処するのかと悩んでも、まぁ、なる様にしかならないと覚悟を決めていらっしゃるのだろうか?流石にマスクレスの方はお見受けしなかったが、必要な物品を調達したら一目散である。ウインドショッピングなんてしない。結局、PCに向かってこうやって戯言に現を抜かすくらいが関の山だ。そんな年の暮れである。

おせち料理とは

いよいよ年の瀬である。そこを越えると変わりますよという、それが瀬なのだが、ずっと何かが連続して襲ってくる毎日を送っていると、瀬があるのか何なのかわかったものではない。しかしながら、年齢は確実に増えていくし、その分だけ「元日」というシロモノを乗り越えてきたのだろう。瀬を超えて何かが変わった記憶が無いということは、その程度の人生であったということだろう。大掃除をして料理をする時期というくらいしか意識がない。

新聞広告や、TV番組などで、豪華絢爛というか、贅沢三昧というか、そんなおせち料理が紹介されるわけだ。ネットを眺めてみても、幸せを重ねるために重箱に詰めるのだなどと、余計なお世話だということがまことしやかに並んでいる。幸い、そんなことは習わなかったので、普通に手に入る食材をおせち料理という名に変えて、三が日というか、元日に頂くことにしている。家族のしきたりに従ったものを頂く為には、それを作り込まないといけないわけだ。

小生の場合、祖母の味ということになるのだが、それを頑なに護って現在に至っている。こうだからこうしなさいというだけのことなのだが、実に有難い教えで、毎年毎年、ご先祖を思い出させて頂けるという点において、おせち料理作り以上の供養は無かろう。分家の末端だからご先祖のお墓が近くにある訳では無いのだが、それよりも声も姿もリアルに思い出せるお料理作りを教えて頂き、それを実践することこそ供養であると、自ら納得、そして信じている。

例年、計画的に大掃除をこなし、最終週には料理しかすることが無いくらいまで自らを追い込んでいるわけだが、この十年来、妙に外来者のアタックが多く、今日も安穏としてはいられない。今日現在、残るおせち料理は三品まで迫った。比較的、早い造り込みであるが、油断をしていると想定外のものを作り始めるから、自らに油断出来ない。しかし、ものづくり屋として、掃除や料理ほど、面白いものは無い。おせち料理を作ったことの無い男子程、虚しい生命体はなかろう。ちょっとは働いたらどうだ?そう思う。

時には長さがある

クリスマス撲滅委員会名古屋支部長だから、クリスマスイブだから浮かれるという事はちっともない。今年も残るところあとわずかとか、そんなことは関係なく一日一日を気合で乗り切っていくわけだ。いろんなお願い活動が対面になってきて、小生的にも外に出る活動が始まった。これが良いとか悪いとかではなく、20年来のお付き合いをさせて頂いてきた方々と、2年ぶりくらいの対面のお話は、やはり愉快である。お願いに上がりながら、自然と笑顔になってしまう。間柄と言うことかもしれない。古い人間だなぁと苦笑いである。

世間では「経済活動」という名の人の行き来が活発化してきていて、まぁ、飲食店などは人が動いて成り立つお商売なわけだから、それはそれで、人が動くことを大いに期待するわけだ。それを活用される方にとっても、クリスマスイブの夜のお店で打ち上げと言うこともあろうが、じわじわとオミクロン株も空気感染し始めているので、気を付けるに越したことは無い。余計なお世話と言われるだろうが、やはり地味な社会活動が宜しかろう。

昨年から活発化したWeb上での討議だが、これはこれで世界中の人が一つの画面に集まって、同時に話し合いを持つことが出来るようになったのはとても愉快である。元来、観光は趣味では無いし、お仕事絡みで知見を広める程度の積み重ねでいろんなものを拝見はしてきたし、土地のお店にお金を落としてきたのは事実である。まぁ、そんな社会活動であったから、GoToなどは興味など無く、そもそも仮にコロナ禍が無くなったとしても、在宅勤務体系は継続するわけだ。是非とも、在宅勤務によって獲得できた時間を、ご自分の知見を広める、そして高めることに使って頂きたい。

時間は有限である。そして全ての人が等しくそれを使うことが出来るわけで、どのようにそれを活用するかで明日への心構えが変わってこよう。生きている限り明日は来るのだ。そうであるならば、待ち遠しく明日を迎えたいではないか。人に使って頂ける自分でありたいと思うのだが、まだまだ使い勝手の悪い自分だと思っている。他の方々から使い勝手の良い状態にするにはどうすれば良いのかを悩みながら、本年のレギュラーの戯言はお開きにしたい。恐らく、適当な事を喋り出すかもしれないが、黙っていてもお叱り無きよう。お願い致します。

造られるものは変わらない

当たり前なのだけど、社会が価値として認知する技術って、そのレベル感は永遠に上がり続ける。古くなれば骨董的価値が上がるというものではなく、工学として、人にとって方便であるもののレベル感の事である。骨董的ものであっても、例えば焼き物の釉薬にしても、その精製技術や混錬技術など、原料に近いところにおいては、近代技術の活用によって精緻化出来るものである。昔は良かった、この不純物の混じり具合はなどと言って、偶然の出会いに作り手と買い手が感嘆しているようでは先は無い。より良いものを求め、そしてそれが叶わない時には淘汰させる。その厳しさが必要である。

話は文芸の方にずれてしまったが、本題の機械というかものづくりの方に移ってみたい。電子ビームとか、プラズマとか、イオンビームとかレーザーとか、まぁ、近代モノづくりツールは周期律表的に進化しているわけだが、こと「形を造る加工」という点において、まだまだ刃物の地位は揺るがない。何でかということをイオンビームで考えてみますが、我々が見たり触ったりする触感のあるものは1立方センチメートルの中に約十の22乗個の原子がある。一方、イオンビームは、まぁ、馬力がある無しがあるわけだけど、1秒間に十の15乗個程度の原子をぶつけることができる程度だ。けた違いに少ないのだ。入る深さも表面から0.1μmのレベルだしね。

例え1mmずつ削っていくという点においても、刃物に叶わないというのはそういう事だ。ではその刃物が進化したかということだが、刃物の進化は削られたものの評価によって成されなければならないが、そんな研究は殆ど無い。何故か?刃物そのものがダイヤモンド砥石で削り出されて作られているからで、それは戦前から変わっていない。加工時にダイヤモンドがミクロに欠けていき、その際に莫大な乖離エネルギーが加工される側に雷の様にわたっていく。数百ミクロンの欠陥が出来るわけで、それは加工を始めると、刃物の欠けに繋がっていくわけだ。だから、刃物をダイヤモンド砥石で作ったら負けなのだ。しかし、それは続いている。安いし早く刃物が出来るからね。

ということは、そんなぼろぼろの刃物で自動車等を作っているということが延々と変わらずに行われていて、それ故に走行中に車軸が折れたりするわけだね。それがちっとも変わっていないところに、モノづくり業界の停滞があるのではなかろうか?しかも刃物が高価なものだから(良く出来たビジネスモデルだね)使う刃物の総量を減らしたいとかね、そんなご依頼が来るわけだけど、削って作られる部品の寿命を長くしたいとか、より美しく仕上げたいとか、そんなご依頼は来ないわけですな。来年も日本発のものづくりはそんなレベルでありまして、なんとも夢の無いことだなぁと残念に思う私であります。

知恵も公共の物

大学教員は「教育者」であり「研究者」であるわけで、研究者の顔で論文を書くわけだ。勿論、教育学という観点において教育をネタに論文を発表される方もいらっしゃるわけだが、教壇で論文を執筆しているわけでは無いから、恐らくなのだけど、教育を研究してそれを発表されているのだと想っている。この両方の顔は、結局のところ大学という組織に属しているわけだけど、研究者の思考って、学会の一員って思ってしまうので、大学を通して「頭の中身」まで社会の共有物って認識に至っていらっしゃる方って、ひょっとすると少ないのでは無いか?

いや、むしろこんなことを語るとミサイルが飛んできそうな気がするが、大学における活動経費(給与からポケットに入れるものは除く)は須らく公のもので、それを活用して得た知識、創いや、むしろこんなことを語るとミサイルが飛んできそうな気がするが、大学における活動経費(給与からポケットに入れるものは除く)は須らく公のもので、それを活用して得た知識、創造した知識は、これは当然の事、公に活用して頂くものである。勿論、ゼロ円で公開する必要は全くなく、社会の価値から正当な対価を大学に入れて頂くのは当然の事である。そりゃぁ「いらない」と言われるものまで無理やり供する必要は無いが、社会から求められ、国のファンドが投入されたのであれば、それまでに構築された知恵を、是非とも社会に還元して頂きたいと思う。研究者だから、金に頭を下げないってことは正しいけれど、その知恵を発揮して形にして下さいと望まれるのであれば、是非、挑戦して頂きたいのだ。

20代、30代前半の方にはそれは望まない。むしろ、思いっきり没頭して研究して下さいとお願いしたい。昨日の話では無いが、ウルトラ失敗出来るのはその頃だ。人生、これしか無い!みたいに没頭して打ち込んでいたら、思いっきり勘違いとかね。そんな事、棺桶に両足突っ込んでからは出来ませんって。その年齢帯の歯の食いしばりと血の滲みこそが、後の肥やしになって、様々な世界の変革を乗り切って、そしてリード出来るのだ。その頃に成ったら、社会への還元の形で知恵をお借りしたいのだ。自分のやりたいことだけやって余生を過ごすとかでは無くてね。

圧倒的に進んだ研究をしていらっしゃると、学会の寵児となって、その世界をリードされるようなるのだが、それはそれで素晴らしいから、そのまま突き進んで頂ければ良い。それは一番、幸せなことだと思うし、とても羨ましい。社会実装を求められたならば、それにも是非ともお力をお貸し頂きたい。自ら起業されて兼業してお金儲けも出来る時代である。様々な方策があろう。スピンアウトされるのも宜しい。是非とも世界をリードする商品・サービスを構築して頂きたい。単にお金儲けだけでは無くてね。そう願いたい。

失敗しなくちゃ

近年の話題にスタートアップ企業をどれだけ世の中に出すかみたいな、競争(狂騒)じみた話が飛び回っている。毎年毎年、その熱が高まっているように感じる。ただ、それが「びっくり仰天」というのではなくて、単に中堅・大企業が雇用する体力が無くなって来たから、若者が自分達で雇用を確保しろよと国が言い出したようにも感じるのだ。何かしらの補助金を出して、輩出したスタートアップ企業数だけを競わせて、本当に国民なり国の世界に対するプレゼンスを向上させる方向を求めているのかと疑念を抱く。

海外との考え方の大きな違いが、「スタートアップは成功するべきだ」みたいなのが根強くあると感じるのです。スタートアップ、ベンチャーなんて、本来、失敗するもんだ。ベンチャーって、それに期待することがベンチャーであって、やっている本人はひたすら必死に突っ走る。だけど、そこから生まれるものが商品にまで成長するかなんて分かったものでは無いのですよ。本来であればエンジェルが居て、1千万くらいで遊ばせてみて、「やっぱり駄目だったのね」みたいなね、そんなことを繰り返しながら、いつかは「どっかぁん」みたいな。単に山師では無く、科学的根拠のある挑戦者ってことかな。挑戦者だから敗北はつきものなんだよね。

夢を語ると「偽善者!」とかね、言われちゃう。夢を見ることが許されない国。そんな国に居たいかと言われれば、居たくないにきまっているわな、そりゃそうだ。でも、問題は、夢を見ている学生君達がどれだけ居るんだろうということ。TVのニュースなどでは小中高校生の選ばれし民達が「こんなに立派な発想で、こんなことを成し遂げました」(本当に凄いと思うけど)とニュースにして大騒ぎするのだけれど、あの子達(今まで表彰された生徒達)って何処に行ってしまったんでしょうか?起業したなんて聞いたことが無い。

大失敗が必要なのですよ。日本の教育に最も欠けていること、それは大失敗教育。わざとでは無いですよ、大きな夢を抱いてもらって、5年くらい、かなりのお金を突っ込んで、それで綺麗に失敗していただく経験。自慢じゃないですが、僕の大ボスは無意識にそれを僕にさせましたね。危うくF棟のもくずになりそうでしたけど、なんとか踏みとどまったね。巨人に「不可能です」と証明した時、何か人生の歯車の回転方向が変わり始めた気がした。そんなちんけな失敗では無く「大失敗」を親も先生もそして自分自身も許せるような教育に向かっていかないと、文明開化なんて起こらないんでしょうね。スタートアップなんてそんなんで良いだと思う。失敗させた数で大学を競わせる。それくらいの遊び金が教育費として計上されないとね。本気でそう思う。

テクノロジーは?

12月的に、最後のお仕事週という感覚で、今週を過ごそうと思う。今年の振り返りなどどうでも良いのでする気は無いのだが、この年末、やたらと殺伐としたニュースが多いなと感じている。世界を見渡すとオミクロン株の大流行と言うことで、今度は水際対策ってどうなのだろうと思ったら、予想通りに穴だらけの日本だった。デルタ株においては、オリンピックの時期と重なったから、まぁ、ざるだろうなと思ったら見事にざるで、それが終わったのだから何とかするのかなと思ったら、いきなりGoToどうしようってなって、結局ざるだった。日本の懲りない、油断だらけの政治と言うのは、これはもう、未来永劫、治らないのだろうな。

振り返らないと言っておきながら、今年の発言の傾向を思い出してみると、「学ばない日本」ということだったのではないかな。過去を振り返り学ばないということでもあり、しっかりと基礎を学び、未来に挑戦するということもしないということでもある。コロナ禍で半導体が無くなりますよと言って、熊本に誘致する巨大な工場は、結局、自動車製造だけを意識した、世界で最も安定している、言ってみれば枯れた技術の20nmルールものであって、世界が進めているAIチップの1nmルールなんて、日本では意識も出来ないね。このままだと本当に、研究者も、そしてそれを学ぼうとする学生も絶滅するでしょうね。現場が無くなれば発展のしようがない。

するとですよ、世界で最も精度的に厳しいものづくりが日本から無くなる、いや、もう無くなっているのだけれど、日本では何をどのように作っていくのでしょうね。まぁ、先日も少しだけ希望的なことをお話したのだけれど、半導体素子製造を支える基盤的技術の高度化は未だに続いているので、その起業殿には可能な限り応援はし続けたいとは思っている。それらの企業様達に、雇用して頂けるような学生さん達を、日本の大学が何処まで育成出来るのかに掛かっているとは思う。そのためにはパワハラ、アカハラ言われようとも、必死に指導しなければならず、高校までにおいては、その必死さに耐えることが出来る人間形成をして頂きたいものだ。

「むしゃくしゃしたから人の命を奪いました」とあっけらかんと言われると、力が抜けてしまう。そんなことが許される世の中である。人の命程、重いものは無いはずなのに、その消失が余りにも安易で、たやすくて、何故にこのようなことになってしまったのか、世界中でどうようなのか、日本だけなのか?そのあたりの情報が全くないので理解不能だが、発生してはいけない事件であることは間違いあるまい。日本の経済的未来は、結局は今の若者の有り様に掛かっているわけだし、それは永遠のバトンの引継ぎである。急速なIT技術の発展に人間の脳が追いついて行けなかったということであれば、それはエンジニアが引き起こした悲劇である。テクノロジーは何をもたらすのか。悩める1年であった。

一票に格差があっちゃいかん

小選挙区定数変更の10増10減に自民党から異論が出たとのこと。まぁ、毎度のことで自分の基盤の議席が減るから怒鳴る、増えれば民意の反映だと威張る。必ず出るのが「地方の声が国政に反映されない」ってやつ。おいおい、国会議員って国全体の未来を考えるんじゃなかったっけ?国立大学はそれぞれ役目があって、世界に新たな学理を提案し、学問における我が国のプレゼンスを上げる役割の帝国大学機構と、殿上人の言葉は一般の民には解釈出来ないから、それを地域に翻訳し我が国の人が用いることが出来る学問を深め、幅を広げる役目の地方国立大学の2種類。まぁ、お役所殿は更に細分化従っていますが、こんなところだ。

国立大学は全ての国民に門戸を開いていて、どの大学にどんな問題を持ち込んでも良い。受験生はその大学で学びたい欲求を満たすために挑戦すればよろしい。門前払いされたとするならば、それまでの努力が足りないということになるんだけど、最近はここに、親の収入云々などというパラメータを入れた分析が成されてきて訳が分からないことになるが、それはあり得るだろうが、合格者全員がそうだという事では無かろう。データの解釈結果に惑わされてはならない。

話がずれたが、定数問題的には、米国の様に1人に至るまで民意の平等が約束された国と、格差が2倍を切っていれば良かろうという国会議員や裁判所の古典的というか、自堕落的な判定しか出来ない国家において、自分の土地が切られるのは嫌だという当事者に決めさせて、民意云々は無かろう。地方議員という枠があるのだから、国会議員はそれに縛られず、国民の付託を平等に受けるために、多すぎるところを減らして、少なくとも1.09倍以内の格差に収めるべきだ。一票の格差があったら、そもそも選挙じゃないだろう。

国勢調査って何のためにやっているんだと不愉快になる。人口が減ったら、住民にとって一人当たりの獲得面積が増えるわけで、地域の為政者が公の力で何等か、生産に結びつける知恵を出せば良いのだ。産学官金連携での思考などは、正にうってつけの思考の場だ。隣国に土地を売って税金を回収して喜んでいる体たらくは直ちに止めなければならない。国会議員が国を思わない。国を思って命を絶つ人が粗末に扱われる国家である。まぁ、そんな国家だからそんな議員か。選ぶのは国民だしね。情けない。