おせち料理とは

いよいよ年の瀬である。そこを越えると変わりますよという、それが瀬なのだが、ずっと何かが連続して襲ってくる毎日を送っていると、瀬があるのか何なのかわかったものではない。しかしながら、年齢は確実に増えていくし、その分だけ「元日」というシロモノを乗り越えてきたのだろう。瀬を超えて何かが変わった記憶が無いということは、その程度の人生であったということだろう。大掃除をして料理をする時期というくらいしか意識がない。

新聞広告や、TV番組などで、豪華絢爛というか、贅沢三昧というか、そんなおせち料理が紹介されるわけだ。ネットを眺めてみても、幸せを重ねるために重箱に詰めるのだなどと、余計なお世話だということがまことしやかに並んでいる。幸い、そんなことは習わなかったので、普通に手に入る食材をおせち料理という名に変えて、三が日というか、元日に頂くことにしている。家族のしきたりに従ったものを頂く為には、それを作り込まないといけないわけだ。

小生の場合、祖母の味ということになるのだが、それを頑なに護って現在に至っている。こうだからこうしなさいというだけのことなのだが、実に有難い教えで、毎年毎年、ご先祖を思い出させて頂けるという点において、おせち料理作り以上の供養は無かろう。分家の末端だからご先祖のお墓が近くにある訳では無いのだが、それよりも声も姿もリアルに思い出せるお料理作りを教えて頂き、それを実践することこそ供養であると、自ら納得、そして信じている。

例年、計画的に大掃除をこなし、最終週には料理しかすることが無いくらいまで自らを追い込んでいるわけだが、この十年来、妙に外来者のアタックが多く、今日も安穏としてはいられない。今日現在、残るおせち料理は三品まで迫った。比較的、早い造り込みであるが、油断をしていると想定外のものを作り始めるから、自らに油断出来ない。しかし、ものづくり屋として、掃除や料理ほど、面白いものは無い。おせち料理を作ったことの無い男子程、虚しい生命体はなかろう。ちょっとは働いたらどうだ?そう思う。