よく降るって?

大雨になり、ぼけっとしている。「雨がよく降る」と言ってしまって、それこそ「よく言うよ」となる。「よく降る」の「よく」は「良く」ではなく、『しょっちゅう』とか『大量に』というつもりで使っているのだが、こんな用法は許されているのだろうかと、親が使っていたから何気なく使うというだけで、教科書で習ったかどうか?まぁ、教科書なんてろくなことは書いていないからどうでも良いのだが、気になり始めると気持ちが悪くなる。大量にだったら『じゃんじゃか降る』とか、しょっちゅうということであれば『週に三日』とか定量的に語れば良かろう。この曖昧さが日本人流か?

その点、方言はその同郷人であれば納得できるすぐれものだ。共通言語である必要なんか何処にもなくて、中京圏に来て面食らうこともあったが、今はかなり慣れてきた。地域限定というのもなんか日本人好みの気がする。季節限定とかチョコ菓子の地域ものとかね、なんだか知らないけど買ってしまっていたりする。それでがっかりするのだから、我ながら愉快である。積極的に騙されることに喜びを感じているというか、バカバカしいというか。このバカバカしいということが、非日常で楽しいのである。

情けない話なのだが『みざら』っていう単語が某所にあって、それが今まで標準語だとばかり思っていた。まぁ、無意識で使っているもんだから、被害にあった周囲の人々は結構いらっしゃるはずで、「みざらもちいさ」とおねがいしているのに、ただ立ちすくんでいる学生君がかなり居た。結局小生が取り行くのだが、通じないと成るとごっちょうなことである。『ごっちょう』だって、いかにも「ごっちょう」なのだが、通じ会えないと単なる暗号であって、指示を解釈出来ない者にとってはかなりのプレッシャーであろう。申し訳ないことをしたと、折角の連休初日で「よく降る雨」に、なんだか苦笑いである。

東京では判明しているコロナ禍新規感染者が千名を超えたそうな。潜在的感染者が千名ということではなくて、症状が現れて保健所なりに行って、これは危ないなと思われて検査をした結果、そうであったと解釈された人の数が千名を超えたということだ。一千万分の千だから、何となくなんだけど、数は多くないと錯覚してしまうが、インドの状況などを拝見してしまうと、何時、酸素不足なんてことになってしまうかもしれないと考えると、これは警戒せねばと思う。出歩くにしても不特定多数の方の少ない場所に行かねばならぬ。「マスクをしていた環境は三密では無い」とTVで言っているが、それを信じるかどうかは本人次第だ。自分の身は自分で守る。ジャングルでも都会でもそれは同じだ。

非日常を

何とか踏ん張って、今週三日目の勤務日に突入だ。明日から連休が始まるわけだが、コロナ禍状況で緊急事態宣言下であるから、愛知県から脱出するわけにはいかない。どれだけ「縁」まで出掛けられるかが勝負(何の?)どころだ。とは言うものの、基本的に行く宛など無くそのへんをぐるぐると歩き回るのがおちであろう。日頃出来ていないことも沢山あるしね。そんなものをじっくりと片付けて、頭の整理をしていこうという贅沢な期間である。普段はそんなのどかなことは言っていられないからね。もっとも、お仕事が無くなるわけではないから机にかじりつかれる毎日ではある。

出掛けたかったところが無かったわけではないのだが、その場所が逃げていくわけではなく、国の史跡だからそう簡単に宅地造成されたりしない。日本においては、天然記念物だって切り倒されたりするので、後々見に行こうなんて呑気なことは言ってはいられない。老舗もいきなり無くなってしまうから、食べてみたいと思ったら直ぐに行動に移さなければならない。油断禁物なのだ。たまたま本屋で見かけて「まぁ、ネットで買うか」なんて思って調べたら絶版で、本屋に取って返すと売れてしまって後悔しきりなぁんてことを繰り返してきたわけで「今ある」ことの有り難さを痛感しなければならないのだ。それが日本だ。

愛知県ってものづくり資料館から自然がいっぱいというところまで、観光の幅が凄まじく広く、ちょっと気合を入れれば相当に楽しめる。これ程に面白い県は他に無いと思っている。「他県への移動禁止」なんて制限をされても、あぁそうですかと簡単に切り替えせるのが愛知県の素晴らしさであろう。いやほんと、凄いところですよ。鎌倉街道がそのまんま残っていたりしてね。源頼朝が歩いた未知をそのまんま歩ける愉快さだ。1000年の樹齢を超える木もあったりで、巨木と千年分の会話を楽しむなんてことも出来る。天気が良ければ茶臼山で星空を眺めながらコーヒーを淹れるなんて豊かさも味わえる。それなりのツールは必要だけどね。

要はちゃんと遊ぶ気があるかということだ。これは本気で思っているし、そうだと決めつけているのだが、ちゃんと遊べない人は、仕事も出来ない。業務は出来るかもしれないけどね。遊ぶって頭を相当使いますよ。バックキャスティング的思考が出来ない人は遊べないんだろうなって。「遊ばないよ」って言い返されそうだけどね。まぁ、勝手にして頂戴というところだ。折角、連休というものがあって、最近では「休暇をきちんと消化しなさい」という恐ろしいお達しもある。だからちゃんと休んで、できればちゃんと遊んで欲しい。じっくり文学に浸るなんていうのもレベルの高い遊び方だ。非日常。味わって下さいませ。

人工の葉っぱ

ご近所のお会社殿が、人工光合成で、空気中二酸化炭素と水から有機物を生み出す効率を凄まじく高めたという記事を拝見した。植物と比べてどうなんですかという疑問に対して、植物ほど器用でもなく小さくも無いが、炭酸ガスを有機物に変換するという観点からは、太陽光エネルギーの4%強を有機物に変換していることに対して、今回の試験装置においては7%強なのだそうで、夢のようなお話だなと思った次第。

まぁ、形態的には人工光合成と言っても、太陽光パネルで発電した電力をつかって触媒等々を活かしながら炭酸ガスの固定をしていくのだが、太陽光パネルの、太陽光のエネルギーを電力に変換する効率が20%程度、その電力の1/3程度を有機物に変換することで、大略太陽エネルギーの7%の変換効率というのが出てくるのだそうだ。それほど小さな代物では無いが、それが実現できたということが重要だと思う。旧日本的に「もっともっと効率を上げてから市場に」なんて遠慮せんと、小中学校にじゃかじゃか配って教育に使って欲しい。SDGsは人からである。

それにしても炭酸ガスの固定化とか、世界の潮流を受けてマスコミが騒ぐのか、企業が取り組むのか、まぁ、そんなことはどうでも良くて、丁寧な研究成果の積み上げには敬意を表するところですよ。なっかなか出来るものでは無いのです。しかも前を進む人が居ない領域はね。人工光合成が前に行く人が居ないということでは無いんだけど、高効率ってなかなか出来ない事ですからね。大学でやらなくなっているところに寂しさがあったりする。

未踏領域を探すのはとてつもなく大変で、予測されていた「まだ見ぬ世界」への挑戦はなんとかなる。しかし、安住の地に安息してしまうと、そこから抜け出そうとはなかなかしない、出来ない。結局のところ『勇気』ってことなんだと思いますよ。お金がじゃぶじゃぶあるわけでは決して無いし、日本の企業は学者の夢物語に投資なんてしないしね。こんなところに日本の寂しさがあったりする。過去の組織にしがみつくとかね。まだ見ていない世界はそこら中にあるのにね。

選挙考

市長選がありましたな。名古屋市の中を見渡して、市民の生活がボロボロになっていたか、街の中が荒れ放題になっていたかと言われれば、決してそうでは無い。だから今回の結果は見えていた。マスコミが煽って知事との不仲、まぁ、いろんな出来事をまくしたてて面白おかしく選挙をかき混ぜたかったのでしょうけれど、市の職員さんだって、やるべきことに向かって活動できているわけで、破壊的に何かが悪くなったわけではない。そんな時には選挙の結果は見えている。現役の首長選挙とはそんなもんだ。

国政選挙に関しては、まぁ、そうでしょうねというところだ。見ている人は見ているなと感じた次第。いくらなんでもね、「みそぎ」という政治家しか使わない死後を振りかざして、マスコミがバックアップしたとしてもね、駄目なものは駄目ですよ。コロナ禍対策だって何やってんだかという、世界から指をさされているような状況を作り出して、堂々巡りを繰り返す。一向に迷路から出る気配がない状況を続けて、行くべき先を示さなければ政権与党とは言えないわな。「オリンピック!」だけではね。

選挙権は国民の権利で相当に重要なものであるから、自分の割当範囲だけではなくて、今回のように閲覧しても大した時間にならないような選挙の時は、どの政党が何を言っているんだろうってネットで拝見するわけですよ。便利な世の中で、簡単に一覧できて、比較サイトまであったりする。正しいかどうかわからないから、新聞でも確認はするのだが、大略、同じことを言っていたので、まぁ、良かろう。呉越同舟型の与党と、もう少し絞り込んだ首長の野党という絵柄ですな。マスコミや与党が、野党を罵倒する時に使う呉越同舟なんだけど、今は逆だね。

1億人を超えている国家である。全員が同じ意志を持つなんてことはあり得ないことが前提なんだけど、でも同じ憲法の下で生活をしているんですよ。何があっても拠り所はそこであって、戦争の放棄を止めたがる人達とそうでない人達という絵柄はわかり易い。そこが軸足だと、行動は変わるからね。組織も同じで、誰がどうなるという方向性が重要で、私の言うことを聴けという絵柄は駄目だ。滅私奉公が基本。選挙明けでいよいよ連休ですわな。皆さん、30日はお休みしてくださいね。30日に出来ることは連休明けに致しましょう。宜しくお願いいたします。

ときめいては駄目?

ネズミの時間、ゾウの時間みたいなお話があって、これ、かなり気に入っているというか気になっているお話でして、最初に聞いたのが小学校5年生だったと思うのです。M崎先生が「生き物の心臓が生涯でドクンドクンという回数は決まっている、だからネズミよりも象は長生きなのだ」とまぁ、もっと複雑なことをおっしゃったのかもしれませんが、学校大嫌いながきんちょだったから、この程度しか覚えていない。間違いなくM崎先生が言ったのだということだけは覚えている。

ザリガニが脱皮するなんていうのは、池上本門寺の裏の池でイカを餌に釣ってきて、飼っていたから知っている。脱皮をするたびに大きくなる。脱皮が出来ないと死んでしまう。あるいは、無防備だから敵に食べられてしまう。生きていくというのは大変なことだなと思っていた。それに加えて心臓の鼓動の回数のお話が加わって、極力脱皮回数を少なくして、おとなしくして、心臓を動かさなければ長生きするのだという妙な図式が頭に浮かんだわけだ。そのくせ、休み時間には校庭中を走り回っているのだから暢気なものだ。山登りなんて心臓鼓動レースみたいなもんだ。

で、組織改革ってやつも、なんかこれに似ているなと思った次第。ある方は「これは十年後で良いよね」と、そのまんまの世界で生きる。脱皮しない、おとなしいから鼓動は止まったまま。一方で、外の世界は猛烈な勢いで動いていて、「明日までに脱皮して、100km先のゴールまで行け」と迫ってくる。改革反対の方々の時間軸に合わせていると組織そのものが沈没する。組織の鼓動を停めるか、違うステージに上がって、心臓移植して1回目の鼓動から始めるか。

当たり前の話なんだけど、心臓移植の道を選ぶわけですが、賛同して頂ける方は、大略2割くらいなもので、「大丈夫だ、象もネズミも15億回の鼓動で死ぬが、人間はそれでいくと26年強の寿命しかない。しかし100年を超えて生きているでは無いか」と平穏無事なお答えを頂く。う~ん、確かになぁ、そうなんですが、話によると、咀嚼も関係あるそうだ。歯の健康が寿命と関係していると言われ始めたのは最近のことで、鼓動だけではない。だからこそ、あらゆる方面で脱皮して、心機一転を繰り返す必要があるのだ。止まってはいけない。常に新しく無ければ。明日が待ち遠しいなら新しくあれ!

遥かなるテレワーク

どうでも良い事をだらだらと綴っていくのが戯言なんですが、大元は「名古屋携帯PC研究会幹事長の戯言」っていうところから。かれこれ20年以上もだらだらと綴っている。パソコン通信を知っていらっしゃる方ならピンと来るかもしれませんが、「カプラー」という怪しい機械を緑の携帯電話にくっつけて、出張先から事務所にデータをFAXで送る。TeXファイルを変換してどうやって見栄えの良い報告書を作るかなんて、メモリーをけちって通信料金を節約してなんて技術を共有して行く時に、なっかなかうまくいかない愚痴みたいなものから出発したような気がする。

それこそどうでも良いことを思い出したのは、出張という概念が消滅した今、恐らくなんだけど、一人当たりの回線が細い状況の中で、様々な工夫があって、消費電力も少なくしながら、家庭内不和を引き起こさず、パソコン知識の西高東低による軋轢を回避しながら、過干渉から逃げつつ平和裏にお仕事をするためのノウハウって、どっかに纏まっているのかなと、実に下らない心配をしたからなんですね。

何の役にも立っていない非常事態宣言なんだけど、全県にロックアウトを掛けながら、効果のあるワクチン接種が進んで、新規感染者ゼロになって、マスクレス生活を送れるようになるとして、それまで閉じ籠り生活を送らないといけない。当然、そこには経済活動が伴うわけで、それを実現するためにどんな生きたツールが必要なのか。今よりも快適に『そこに共に居る』よりも快適にお仕事が出来る環境って、どんなのだろうかと。

ネットを見れば情報は氾濫しているわけだけど、そもそも、対面ワークを基調とした人達の議論であって、ちっともワクワク感が無い。不具合解決型の提案で、こんなところにも日本的モノづくり社会の縮図が見えるなと感じるわけですよ。携帯PC研究会で考えたことって、今、ほぼほぼあるんですけど、それでも不満足な点は沢山ある。それに外に出れば感染するとかね、当時は想定外だったですよ。これから益々変異が変異したものがでてくるのだろうから、それを想定しながら「テレワークとはこうすること」という、なんか回答を小学生に聞いてみたいなと本気で思っている私であります。

マンボウ

暫く知らんぷりをしていたのですが『まん防』が愛知県に適用されたという事で、ちょこっと雑感など。既に言い尽くされているのでどうでも良いかもしれませんが、地下鉄などは満員、帰宅時刻の道路も自動車だらけ。要するに、在宅勤務が主流になってはいないということ。オフィスで皆が揃っていた方が文殊の知恵は出やすいような気もするのですが、一時、皆、宿舎に入り込んでウイルスが消え去った世界を作らないとというお話もこれまた言い尽くされ、いや、言い古されている。本当にそれで消えるの?

海外との行き来が完全に閉ざされているわけでは無い。経済活動の甘い言葉を金科玉条、錦の御旗として掲げ、医療機関の機能不全などどこ吹く風。政権与党は邁進していくわけですよ、人の命よりお金ってね。お金が大事と言うんですけど、お金を回すのは人の活動であって、回す人を減らすような考え方を中核に据えた政策って正しいのかなぁ?まぁ、「恐れていては何も出来ない」の掛け声もあり、感染対策の中、経済活動が進められるわけですな。

お医者さんの待合室なんか、アクリル板なんか無いし、物凄い密だし。行きたく無いけど、行かないといけない理由も生まれたりして、嫌だろうがなんだろうが仕方が無い。抗体が出来ても型が違うと効力が無いとかね、いろいろあるんだけど、この国では抗体獲得率が1%以下であって妙に少なかったわけですよ。情報として全く出して頂いていないのだが、ワクチン接種をされた方々って、抗体出来たの、出来てないの?税金でやってんだから、情報は開示されるべきだよと思うけど、現政権下では期待することそのものが間違っていると言われるんだろうなぁ。

感染者が少ないということなんだろうけれど、それは謎のままで、いよいよ変異株が増えだしてきた様子を見ると、不幸にして変異株に感染してしまった皆様の抗体獲得状況を精査して、公開して頂きたいわけですよ。大阪で何人、東京で何人という数字だけでは無くて、感染者(発症者)当たりの抗体獲得率を知りたい。理由は分からないけれど、日本人には抗体ができにくいということであれば、集団免疫なんて絶対にならないし、世界中から新型コロナ種が消えてくれない限り『まん防』は継続だ。非常事態宣言なんで、こんなに頻繁に出したり止めたりして良いものか?悲劇の国だ、そう想う。

客観視

小生の先輩の方々はリアルでご覧になられていた「これからの30分間、貴方の目は貴方の身体を離れてこの不思議な時間の中に入っていくのです」というあれ。ウルトラQということなんですけれど、とあるつまらないことを考えていたら、このフレーズが蘇ってきた次第。震災復興などのお話が出ると、小中学生がTV画面に出てきて、大人の人批判を展開する。マスコミはそれを面白おかしく、さも、自分達が子供代表の如くにまくし立てる。で、大人ってなんだ?子供ってなんだ?と何故か考えたわけですな。

子の親になっているから、それは大人かと言われると、それは違うだろうね。ネットで検索をしてみると、出てくる出てくるいろんな意味が。大人とは一人前の大人みたいなことを言われてしまうと、苦笑するしか無いが、経験のある年配とか、指導者的人物と言われると、成る程なとやや納得する。では、経験とは何を経験してきたのか?指導者的って何をご指導いただけるのか。ご指導ご鞭撻の程などと、定型文的なものが出てくるわけだが、誰も経験のない未来に対して、誰が経験していて、どんな指導を与えて頂けるのか?

新たな価値の創造なんて簡単に文章化出来るのだけれど、そんなに簡単な代物では無い。
小生も年齢は無駄に重ねた気がするが、人を指導できる経験なんて何もないわけだ。大人かと言われたら、大人ですと言い返す自信はない。と言うか、言えないですよ。根拠が無いからね。そもそも大きな人ってなんだ?大小が問題か?それこそ臍が茶を沸かす。なんなんだろうと思った時に『客観視出来ること』かなぁって漠然と想った。自分をどれだけ他人の目で冷たく見つめられるか。その冷たさがある臨界点を越えたら、大人の領域なのかなと?

そうしたら「貴方の目は・・」を思い出した。目が身体を離れる、自分が何をやっているのか見つめることが出来る。自分が見ているのではない、行動している自分を、それが誰だか全く知らないもう一人が見つめて批判している。自分が可愛いから恐怖がある、恥ずかしいという気持ちが生まれる、悔しさも出てくる。いや、他人となって見つめてみてごらんなさいよ、大したことやってないから。大したことをやらない人だから大人なのかもね。経験してきたものに引きずられて自分に縛られる、思考停止する。大人には成りたくないものだ。子供で十分だ。

半導体業界

泣き言を言ってはいけないのだが、東芝の凋落を見るまでもなく、半導体に掛かる「生産」技術は、それなりのものしかこの国には無いと言って良い。多く語られることだが、iPhoneの中身は日本製の部品が数多くと語られ、何か、自虐的とも慰めとも、そして現実逃避とも感じる美辞麗句なわけだが、要するに心臓は創れませんよということだ。TRONを国が放棄した時点で全てが決まっていたのかも知れない。いや、業界もバブルに浮かれてこのまま進めばよいのだと思い込んでしまったのかも知れない。思い込みの怖さ、今を捨てる勇気。血を流して身につけたものを葬り去れるからこそ、次の次元が見えてくる。血を流さず金で買うだけの企業群の何と多いことか。

まぁ、金ってそんなものかもしれないけどね。会社ごと買ってしまえばその技術は確かに利益に乗ってくるかもしれない。優れた人材も取り込めるのかもしれない。マスの効果は確かにあるとは思う。文殊の知恵は一人では産みにくい。正しい否定者とのコンビは、思考を発展させる上で重要であることは、数々、体験していることである。エゴイストな否定者が多いのには辟易するけどね。まぁ、それにも耳を閉ざさない方が良いこともある。苦しいけどね。

オールジャパンで動いたのは第二次大戦後の時だけだったのではないか?小生はその時のプレーヤーでは無かったから、その当時の国民の思考の組み立てがどうだったのかは知らない。伝承はされてはいるが、その場に居なかったわけだから、真実は理解出来ていない筈である。極限状態で初めて一体となるこの国だから、まぁ、それなりに生きていける現状下において、オールジャパン的思考は出てこないでしょうね。一回目の緊急事態宣言はそのチャンスだったかもしれないけれど、それも適当なところで解除されておじゃんになりましたな。

半導体産業の凄まじさは、その精緻さにあることは間違いないが、そこで働く方々の気配りというか、精神状態と言うか、そんなものも必要なのだ。呼気中のナトリウムや硫黄原子にまで気を使う。そこまで教育できる設備は東北大くらいかなぁ?もう、限界ではなかろうか?漸く、大臣が「半導体産業を守らないと」なぁんて仰るわけだが、倒れきったドミノの列に、さぁ、起立!って声を掛けてもね。挑戦と勇気を失ったこの国に何が出来るか?まずは一歩から。そんなところだ。

新常識?

約束場所に待ち人来たらず。これ程、がっかり&悲しいことはない。片想いの思い込みで勝手に待っているのとは訳が違う。メールなどとも違う。人と人とのリアルな約束、しかも将来が掛かっていると、待ち人側が思っていたとして、その相手が来なかったらどうだろう。例えば小生が面接員で、その相手が無連絡で来なかったとしたら。しかもその相手が旧知の推薦で逢って話をするのを楽しみにしていたとしたらどうだろう。

何というか、その昔、ゆとり教育というお話があったじゃないですか。暗記一辺倒ではなく、チームで解決するとか討論が出来るとか、なんかそんな教育をしていきましょうというやつ。それそのものは正しいと思いましたよ。ただ、そのやり方が現場任せで、指導要領の教育項目を大幅に減らして、野原の観察とかね、まぁ、それもやりようによってはとても良いのですが、行列を教えなくなったとか「えっ、なんだそれ」みたいないことが多くありました。

反動で今は詰込みに戻っているわけですが、それもどうかとは思いますけどね。何が言いたいかと言えば、苦労するのは当たり前、努力させるのは当たり前、痛みを伴う人生も当たり前、駄目なものは駄目等々、人とのお付き合いの中の当たり前が教育されていないというか体に染みついていない。民度ゼロ学生が就職に臨むとどうなるか?内定を何処かから頂戴した時点で、面接時間を頂戴していたお企業様をすっぽかすという我儘発散に出る。まぁ、就職支援のあり方もいかんのだとは思うけどね。やっぱり人だよね。

約束ってしたことが無いのかな?怒られるからやる、不利益を被るからそうならないようにだけ自分主体で行動する。自律主義で客観視が出来ないというか、最初から概念が無い。どうやったらそんなふうに自己中心的に生きられるのだろう。どんな神経構造なのだろうと思ってしまうのは老人力に満ちているからだと、脳みそが永久凍土だからと現生人類は言うんでしょうけど、だったら永久凍土人が居る世界に来ないで頂戴。いや、きっとそんなコロニーがあってコミュニティが出来ているのだと思う。そっちの勢力が近未来にこちらを圧倒するのだろう。まっ、しょうがないか、撒いたつもりは無いが、撒いた種が芽を出して実を付けたということだね。