年度末

年度もいよいよ今日で勤務日はおしまいである。年度が替わるからどうだということは無いのだが、事業所的には学校であるから、学生さん達にとっては学年が変わるし(変わらない者も居るが・・)勤務者としては所内での配置換えもあるだろうし。いずれ、てんてこ舞いが発生するというのが年度代わりである。

部屋の引っ越しをやってみたのだが、ネットワーク環境などが変わり、接続をばらして組み直した結果、妙な動きになってしまい、PC環境でてこずることになってしまっている。古い器械を後生大事に使っているということもあって、屋移りに弱いなと感じるところである。

2か所にあったオフィスを一ヵ所に統合したのだが、荷物の多さに驚いた。大したことの無い量だと思ったのだが、広いところから狭いところに移動すると、驚くほどに荷物があふれてしまう。まぁ、実験室のてんてこ舞いさ程では無いのだが、それでも必死に捨て直すことになる。気持ちが良い。

新年度、大学に残留させて頂けるかどうかが全く分からず、なんとか滑り込みで残留と相成った。窓口業務を続けていくので、鶴舞にお越しの際にはお立ち寄りくださいませ。よろしくお願いいたします。

リメンバー

国が5兆円の支援をすると、水素飛行機は飛ぶのだろうか。とあるところでMSJの撤退は、単に飛べなかっただけではなく、飛ばせるための人も辞めていったことが最大の問題であると指摘された幹部の方がいらっしゃった。その通りである。加えて、エネルギー問題という点において、水素を海外から購入しようなんてことを言っている段階で、飛行機を飛ばすたびにいったい、海外にどれだけのお金をまこうというのか。政治家諸氏の本気度ということなんだろうけれど、この国ではそれは全く感じられませんな。

知的財産アクションプランとか言っても、知的財産を生む知力を蓄えた博士人材が圧倒的に少なく、仮に、博士を取得したとしても、思い切ってその思考力を活用しようという企業が現れないのだから、徹底的に学んでやろうという学生が出てこなくても無理はない。この国に資源は人しかいないのに、親ですら子のよこっつらをひっぱたくと訴えられる時代である。学問は詰め込む時に詰め込まないと、後にいくら頑張っても無駄である。それがわかっているにもかかわらず、お上品に育て上げてしまう。

個性の教育をしている諸外国に対して、みんな同じことが出来ることが美しいなどとのんきな時代をいつまで過ごすのだろう。これもとある方にお伺いしたのだが、中堅企業が自らの強みが分からず、本来、獲得できる対価を獲得できていない状況に、なんとかしていきたいのだが、力を貸してくれないかと。それは勿論、出来ることは何でもさせて頂くわけだが、技術が生み出す価値を考える、考え方を学び、実践するということを、本来、身に着けるべき小学生ではなく、企業人が学ぶ機会が求められてきている。

高校に文系・理系クラスなんてものを作っている間は、この国はどんどこおいて行かれてしまうのだろうなと感じる。その内に、日本は人件費が激安だから、海外企業がこぞって雇用し始めたりしてね。ただ、そうであっても世界の標準的な文化も知識も身に着けていないのであれば、それもかなわなかったりするのか?一生涯、学び続けねばならない。そのはずなんだけどね。これから水素飛行機を作るという。リニアモーターカーのように、水問題ならぬ水素問題をクリアできるのだろうか。水素をじゃぶじゃぶ自給できる国になって欲しい。心底、そう思う。

民族を語った人

何よりも独自性を重んじ、客観的に民族学を語った折口先生の文章は素晴らしい。比較検討ではなく、一つ一つ真実を掘り下げ、日本人の民族としての学理を追及されたその切り口が好きである。小泉八雲先生も素晴らしいのだが、それは出雲と言う領域と相まって、場を必要とする民俗学であるのに対して、日本人とはなんであるかと言う、神話では無い日本人の民族DNAの決定因を追求し、それを断定していく表現に引き込まれる。

強烈な文章と言えば小林秀雄先生だが、氏の文章は推測を許さず、一点の濁りを感じることすら許さない、なんというか、文字に触れている間に全身の筋肉が硬直し、血が通わなくなるのを感じる程であり、文章をこのように創るのだという学びには最適だが、読み物として楽しむには、極めて質の高い教養が必要であって、これを読解したと言えるには、あと、何年の修業が必要なのだろうかと絶望を感じる。

中庸が良いのだろうけれど、気が付くと近代文学者の作品をちっとも読んでいないなと恥ずかしくなる。まぁ、天邪鬼の読まず嫌いということなんだけど、AIで作文が出来てしまう時代において、なんとなくだが、機械に楽しまされているようで気持ちが悪い。これも極めて食わず嫌いであるのは間違いないのだが、ゲームなどを受け入れない精神構造もそんな価値観から来ているのだろうと分析している。

結局は古典的人間だから、古典しか受け入れないということでは無いのだが、研究ネタは新規しか興味が無く、研究開発に取り組まないお企業様の支援も絶対に嫌だ。コスト削減とか自動化とかね、そんなネタは御免被るわけだ。オープンイノベーションって、意識が未来に無いと取り組めないし、それは未来の幸せに感動できる人にしか出来ないし、一流の文学に感動出来ないような人には無理なのだろうなと思う。明日を迎えられるか否か、これも価値観だろう。

終わりは始まり

熊本方面では春の大雨で、降雨量が観測史上最大だという。梅雨前線の如くの前線が大陸から伸び、とても春とは思えない空模様の中、卒業式である。どうもここのところ、卒業式に傘を持参していることが多いなと自覚する。参列者はそれなりの衣装の人達だから、別れの涙雨とはいえ、天のいたずらにお灸をすえたくなるが、こればっかりはどうしようもない。今までの苦渋を綺麗さっぱりと洗い流してくれる清めの雨と歓迎しよう。

お役目故に卒業式に参列した回数が多くなったが、それもこれで納めであり、卒業式の卒業を迎えることが出来たことはとても嬉しい。卒業式はしんみりする要素があっていけない。舞台の上で背筋を伸ばし続けるのは結構堪える。老兵は去り行くのみで、きれいさっぱりと別れの気持ちでいられよう。レンタルの松をじっくりと堪能しようではないか。あの松もしっかりと育ってきていて、継続して眺めていると微妙な変化がいとをかしである。

公会堂の工事があって午前・午後の二回制になったり、コロナ禍のお陰で中止になったり、学科代表者との対面式だったり、バリエーション豊かな経験もさせて頂いた。コンターマシンの導入があったりと、まぁ、海外では当たり前の仕組みを古式ゆかしい場に持ち込んだりと、座っているだけなのだけれど、壇上の微妙な変化も愉快であった。

学生としての卒業式から三十年以上が経過して、檀を見上げる側の気持ちを学生さん達から毎年もらってきて、学生気質の変化も感じさせて頂いてきている。空気感と言うか人柄と言うか、時代の変化を確実に感じている。もう、こんな老人が経営者側に居る時代では無かろうと感じるわけだ。卒業と言うのは区切りの意味である。終わりは始まりのためのものである。単純と堂々と。終わってそして始めたい。そんなところだ。

朋友

朋友との時間はあっという間に過ぎていく。遠方より来りて去っていくわけだが、去り際も寂しくなく、またこのひと時が来るだろうという予感もない。当たり前のひと時であって身構えることもない。良い関係である。だから朋友というわけだ。そんなひと時を過ごせる人間味が残っていたのかと、自分に少々驚くくらいである。あっという間感が良いのかもしれない。雨の中、集まって、そして去っていく。良い空気感である。

集まった場所は、かれこれ15年くらい前に出掛けていて、もう二度と来るものかと思ったところなのだが、情報によると経営者が女性となり、雰囲気ががらりと変わったとのこと。Netでの評判も上々で、これなら今一度、試しに覗いてみるのも良いなと、果敢にチャレンジしたわけだ。まぁ、メンバーがメンバーだけに、どんな状況でもなんとかなるだろうくらいの気持ちではあったが、良い意味で大きく裏切ってくれた。また行きたいと思う。

そこでも話題になったのだが、この入場料金でこれだけのサービスを提供してくれるという、日本の「安さ」を感じてしまった。フロア係殿は、適度な距離間で煩くなく、必要な時にさりげなく出現して去っていく。求めたい、自らもそうありたいと思う身のこなし。女性経営者の細やかさを感じるわけだ。店舗の中もサービスカウンターも雰囲気が良く、有り勝ちな「あそこがああだったらもっと良かったのに」という気持ちに全くさせない爽快感であった。

それにしても、何と言うか、久しぶりに会ったとしても、その久しぶりの時間は瞬時にどこかに行ってしまって、ずっと継続している感覚である。当たり前すぎて「お久しぶり」の挨拶を忘れてしまう程だ。そんなスイッチを持っていることは幸せである。まだ、本決まりでは無いのだが、まだそんな関係が続きそうな気配もある。油断は禁物である。慎重に進む。

三月は速過ぎる

3月は物凄い勢いで動いていて、あれよあれよと2周が過ぎてしまった。桃は開花をはじめ、いよいよ春を迎えるのかというところだが、寒い日が続きそうで、桜は遅れて卒業式での満開は無さそうだ。年度の切り替わりで、挨拶だのなんだの、御免被りたい内容ではあるが、長年、お世話になり感謝を申し上げないといけないという気持ちはちゃんとある。節目ということだ。

某人から伺ったのだが、長年、同一の組織に継続して所属していると、いざ「卒業」と機械的に決まったとしても、気持ちがそれについていかないという。なんらか、区切りの挨拶等を実施すると、いよいよ終りがやってくるのだなと納得出来るということ。小生などはちゃらんぽらん故に、ぱぁんと辞めるというところに至れないのだが、それも「はい、おしまい」ということが無いからか?薫陶は有難い。

最近、時々話を出している部屋の掃除なのだが、いよいよキャビネットの中身を空に出来て、それを廊下に出したところで、部屋の床の上の物体はマックスになったかなと感じるのだが、いよいよドアに向かって通路が出来た。いよいよ本丸の取り壊しに入っていけそうでほっとしている。何事も地道に進めていかないといけないと思うところだ。

自分に厳しくとは思ってはいるものの、時間という誰にも平等に分配されているものを最大限に活用しようと思っても、ミッションを放り出すわけにはいかず、遅々として進まない。進まないことを時間が無いという言い訳で逃げるわけだが、何時までも自分に甘いことが嫌になる。オフィスの紙資料などは纏め終り、運べば何とかなるところまできた。何事も一歩一歩である。そう実感している。

春の嵐に思う

客観であることは極めて難しい。ある人とお話をさせて頂いていて、ぽっと自分の意見を述べさせて頂くわけだが、社会的課題になると、途端に主観論のぶつかりになる。給料が上がって物価が上がったから、ゼロ金利政策を終了させれば日本経済は万々歳だとTVは政府を称賛するわけだが、某社の重役殿からは「景気なんて全く良くないですよ。従業員はどんどんと辞めていく。それでも給料を上げる算段をしないといけない」と苦渋の声がにじみ出る。

とある方は「何故、北の大国は暴君を称賛するのか?」と問うてくるのだが、「先の大戦が無かったら日本も同じだったのではないかな?結局、誰かを頭目に頂いて、指示に従って動く構造を良しとする思考を完全に破壊されて、他国に征服されて、漸く政治の取り組み方が変わっただけでしょ」と答えたわけだが、問いかけに答えたわけではない。単に主観を口に出しただけで、客観的な回答を述べたわけではない。社会的課題に正解など無いのだろうと思うわけだ。

首相がなにやら叫んでいるわけだけれど、国会議員に権力を与えて、その権力が欲しい者とその欲望を活用してやろうという民が居る限り、人間が作ったルールの隙間をかいくぐって知らぬ存ぜぬ、正しいことをしていますよということに、野党が吠えても何も出てこない。先の大戦でしおらしくなった国民性は、戦前に逆戻りだ。本当に不思議でならない。

今のところ日本の憲法では、民は人権を持っていることになっている。生存権だってあるのだが、国は安全な飲み水、食料があり、住処があって医療や教育を受けられることになっているっぽいのだけれど、水で争い、食料は他国任せ、へき地医療は衰退の一途で教育格差も広がる一方だ。税金の有り様、社会福祉の考え方を真剣に議員が議論していると感じられないことが問題だ!などと言っても、それは主観であって、客観では無い。勿論、戯言で客観に拘るつもりは全くない。春の訪れの有り様も随分と変わってきた。どう変化していこうか。主観も持てない恐ろしさである。

法事にて

法事という行事は、まぁ、酷い言い方をすると宗教団体のサブスクで、家族・親族の心の隙間に入り込み、金を出させるイベントである。お世話になったという気持ちは常に持っていて、まぁ、時間を作って墓掃除に行くなどと言うことも、しょっちゅうできるわけでは無いので、無理やり法事だと言われて参集し、皆で線香を手向けるということは良い仕組みなのかもしれない。

宗教団体と国との関係は、今、どんな状況になっているのかマスコミが黙っているので解らないが、まぁ、それはそれとして置いておく。法事を行うのは施主であって、まぁ、金銭管理人である。施主から金銭を受け取って、まぁ、ついでに弁当なども受け取って、馳走に預かるのが坊主殿ということになる。最近は住職が減っていて、法事の際に車でやってくる人となっている。

スリッパをぺたぺた音をたてながら、どんな修行を為さったのかは定かでは無い方がやってきて、扇を畳に投げ捨てるのが作法なのかは存ぜぬが、進行毎に疑問符が湧いてくる。焼香参列者が続いているのに、読経を打ち切り、時間ぴったりに終わることを最優先するのは、次の職場があるからだろうが、気持ちの良い対応とは言えまい。

はたと我に返り、こんな対応をお客様にしてはいないだろうなと、自分の胸に手を当ててみる。そもそも論、目の前の坊主殿に腹を立てているのは、前回の法事で無断欠席をやられたからで、そんなことを根に持っていてはいかんなと思った次第。坊主殿だけに胸に響く講話をせよなどとねだってはいかんなぁと思いつつ、昔の坊主殿は、なんだか立派だったなと感じたのでありました。

遥かなる高利少売

高利少売を求めたい。それはものづくり系企業へのお願いなのだが、自分自身では買うものを極力少なくしたいという想いがある。人生の終末期が近づいてくると、なんとなくだが、モノに囲まれているのが煩わしくなる。なんでこんなにモノがあふれているのだと嫌になってくる。研究室などはテーマ新設の度毎に方向性の異なる機械だったり、分析能力の高い装置だったりを揃えていかないといけなくて、まぁ、仕方なく増えていくということはあるのだが、捨てても捨てても湧いてくるそのモノたちの恐ろしさである。それでも床の面積が増えてくると頑張る気力が湧いてくる。

名古屋市のごみ分別の粒度の細かさは有名なのだが、仕分けするのが面倒になってくる程である。これはなんだ、あれはなんだとなってくると、仕分けの速度が一気に低下してくる。ドメスティックなルールもあって、合わせ技で捨てることになる。こんなことになるのなら、最初から入手しなければ良いのにとなるわけだが、まぁ、そうも言っていられない。PCなどは便利なツールで、その形状だけで終わってしまうのだが、今度はデータをどうするのだ問題に直面する。最初から限られた大きさなら良かったのだが、無限の壺に投げ込み続けたら、いきなり親組織が紙皿を配って、その上に載せられる分だけねと言わるとパニックになる。これも必死に小さくし続けている。

最初の高利少売に戻るのだが、七徳ナイフのような万能選手ではなく、1品1機能で、それが極めて高機能で、一度使ったら一生それを使い続ける気になって、しかも一生ものになって欲しいのだ。そうであれば身の回りのものがどんどんと少なくなっていくのではないか。しかし、それを作る側からすると、一度売ったらもうその人には売れないわけで、修理のサブスクなどを考えるわけなのだけれど、その修理すら要らないようなモノが欲しいのだ。爪切りなどは無いと困るが、気が付くと沢山持っていたりする。これなどは関市のT社さんのプレスを使ったものが良いのだが、これは秀逸である。

複数の企業さんの合作と言うことなのだが、床面積を広くとることになってしまうので大手メーカーは絶対にやらない配置を取ったことで、見事な逸品を作り出している。当然のことながら、市場価格は上がってしまうのだが、それを使うと他社の爪切りは使いたくなくなる。こんなものに囲まれたいと思うのだが、まぁ、モノを増やしても仕方が無いからネットで眺めているだけにとどめている。それにしても断捨離は難しい。本などは最たるものである。諦めずに捨て続ける日々である。

脱カンコツ

カンコツではない国になったらどれだけ強くなれるのかを常に思う。小生自体がカンコツの塊であるのだが、結果は世界共通の分析装置によって評価して、その値と解釈を論文誌で評価して頂いているので、まぁ、後付けで理由が出てくるものづくりではあるものの、「なんでそれが良いの?」という問いかけには答えられるものが多い。多いということは全部が全部という事では無いので、まだまだ楽しみが残っているという事だ。

愛知県には知の拠点という立派なエビデンス拠点があって、誰でも使えるシンクロトロン光センターとして活況を呈している。勿論、それだけではなく、ホームページを見れば、様々な企業様からの要求に応えられる装置ラインアップが頼もしい。何より、その道のプロがオペレーションして頂け、データ解釈まで伴走して頂けるのだから使わない手はない。企業様からの活用が50%を超えるという。これは全国的に稀な事例だと思う。

如何に、ご当地が世界を相手にものを売っているかということの表れだ。カンコツ信用商売など、世界には通用しない。通用しないから、カンコツだけだと直ぐにリコール、一千億円規模のペナルティーなんてことになるのだ。人の命を支えるものづくりなのだから、それは当然である。経験と勘の蓄積が自社の要素技術だなんて言っている時代ではもう無い。となると、採用する人にもそれなりの能力を求めるのは当然で、学生を鍛えない大学はご退場ということになるのも当然だ。

知の拠点は素晴らしい仕組みなのだが、政治的配慮から断層の上に立っていたり、そして何よりも僻地の拠点であることが活用意欲を削いでしまう。僻地故に振動が少なく、分析にはもってこいなんだけど、T中研の辺りは常に混雑するしね。それはさておき、中小企業だから高度分析技術の活用は困難などと言っている場合では無い。脱カンコツ、脱ノウハウである。そんな時代だ。