民族を語った人

何よりも独自性を重んじ、客観的に民族学を語った折口先生の文章は素晴らしい。比較検討ではなく、一つ一つ真実を掘り下げ、日本人の民族としての学理を追及されたその切り口が好きである。小泉八雲先生も素晴らしいのだが、それは出雲と言う領域と相まって、場を必要とする民俗学であるのに対して、日本人とはなんであるかと言う、神話では無い日本人の民族DNAの決定因を追求し、それを断定していく表現に引き込まれる。

強烈な文章と言えば小林秀雄先生だが、氏の文章は推測を許さず、一点の濁りを感じることすら許さない、なんというか、文字に触れている間に全身の筋肉が硬直し、血が通わなくなるのを感じる程であり、文章をこのように創るのだという学びには最適だが、読み物として楽しむには、極めて質の高い教養が必要であって、これを読解したと言えるには、あと、何年の修業が必要なのだろうかと絶望を感じる。

中庸が良いのだろうけれど、気が付くと近代文学者の作品をちっとも読んでいないなと恥ずかしくなる。まぁ、天邪鬼の読まず嫌いということなんだけど、AIで作文が出来てしまう時代において、なんとなくだが、機械に楽しまされているようで気持ちが悪い。これも極めて食わず嫌いであるのは間違いないのだが、ゲームなどを受け入れない精神構造もそんな価値観から来ているのだろうと分析している。

結局は古典的人間だから、古典しか受け入れないということでは無いのだが、研究ネタは新規しか興味が無く、研究開発に取り組まないお企業様の支援も絶対に嫌だ。コスト削減とか自動化とかね、そんなネタは御免被るわけだ。オープンイノベーションって、意識が未来に無いと取り組めないし、それは未来の幸せに感動できる人にしか出来ないし、一流の文学に感動出来ないような人には無理なのだろうなと思う。明日を迎えられるか否か、これも価値観だろう。