終わりは始まり

熊本方面では春の大雨で、降雨量が観測史上最大だという。梅雨前線の如くの前線が大陸から伸び、とても春とは思えない空模様の中、卒業式である。どうもここのところ、卒業式に傘を持参していることが多いなと自覚する。参列者はそれなりの衣装の人達だから、別れの涙雨とはいえ、天のいたずらにお灸をすえたくなるが、こればっかりはどうしようもない。今までの苦渋を綺麗さっぱりと洗い流してくれる清めの雨と歓迎しよう。

お役目故に卒業式に参列した回数が多くなったが、それもこれで納めであり、卒業式の卒業を迎えることが出来たことはとても嬉しい。卒業式はしんみりする要素があっていけない。舞台の上で背筋を伸ばし続けるのは結構堪える。老兵は去り行くのみで、きれいさっぱりと別れの気持ちでいられよう。レンタルの松をじっくりと堪能しようではないか。あの松もしっかりと育ってきていて、継続して眺めていると微妙な変化がいとをかしである。

公会堂の工事があって午前・午後の二回制になったり、コロナ禍のお陰で中止になったり、学科代表者との対面式だったり、バリエーション豊かな経験もさせて頂いた。コンターマシンの導入があったりと、まぁ、海外では当たり前の仕組みを古式ゆかしい場に持ち込んだりと、座っているだけなのだけれど、壇上の微妙な変化も愉快であった。

学生としての卒業式から三十年以上が経過して、檀を見上げる側の気持ちを学生さん達から毎年もらってきて、学生気質の変化も感じさせて頂いてきている。空気感と言うか人柄と言うか、時代の変化を確実に感じている。もう、こんな老人が経営者側に居る時代では無かろうと感じるわけだ。卒業と言うのは区切りの意味である。終わりは始まりのためのものである。単純と堂々と。終わってそして始めたい。そんなところだ。