自分の道は自分で選ぶ人になって

自動車産業のど真ん中に居るわけで、ちょっと東に車を走らせれば、無限に続く巨大な工場を見ることができる。南に行けば田んぼの中に城郭と見まがうばかりの、これまた関連企業を拝見することができる。その中においては自己決定権などは意識する必要のない、組織一体思考者となるのが安全な領域である。一旦就職できた若い方は、取り敢えず上司に逆らわず、それを当たり前として無意識に受け入れるライフスタイルを謳歌するのだろう。

グリーントランスフォーメーションとかね『X』を付ければ良いのでしょ?と、政治家殿がお金を使う事だけが経済を活況にすると思っているわけだが、将来の国のイメージを示さずに、「今、活況になれば次の選挙も何とかなるだろう」という不可思議な保守がまかり通る様は、もう、国としての体を成していないのかなと、新規事業創造なんて走り回っていることが虚しくなってくる。まぁ、そうも言ってはいられないのだが。

企業・組織の中においては、我儘勝手は通す必要は全く無いのだが、自らが進む方向性の決定権が個人にあるんだよと言う教育は、我が国では「親の干渉」という、最も忌み嫌う風習がずっと続いている。その中で、起業に挑戦する若者の登場は、いよいよ護送船団方式の崩壊を予見させるわけだ。いきなり社会がひっくり返るということは無かろうが、半導体分野における基礎研究への国の支援などは、遅すぎる気もするが、集中的投資が成されれば、なんとかなるのかなと思ったりする。その際に考えるべきは我が国としてどこを強みにするのかということを、丁寧に、短期に議論することだ。若者のアイデアを否定することがあってはならない。50歳を超える人は議論に参加するべきではない。

脱炭酸ガス排出なんて言いますけど、海中の溶存CO2を削減しないと、そもそも大気中に排出された炭酸ガスは温暖化ガスとしてそのまんま働くわけで、排出しないということばかりに躍起になっていると、海そのものが死んでしまう。人間のみならず、全ての動植物が海から生まれたことを考えて、まず、第一にするべきことに手を付けないと、生命が居なくなるというトランスフォーメーションの星となってしまう。小さな一歩を踏み出す若者を応援したいし、それを受け入れる企業様と共に進ませて頂きたい。そう願っている。

挑戦、最後のチャンスでは?

「大学の技術なんて、所詮は企業では使えないんですよね」と冷めた若者が声を上げる。2つの思いがあって、一つは、量産を考えず、世界のトップを目指す研究の成果なのだから、月間1000万個の同じものを作らないといけないとなると、直ぐにそれを使う事は出来ないよねということになる。それに対する言い訳は、決まった請負のものは出来るけど、経験の無いものは作れないという、技術の無さを直視しない、低次元な発言ですねということ。言わないけどね。量産プロセスに乗せるまでの大変さは、ライン立ち上げもさせて頂いてきているので、存じ上げている。

もう一点は、大学の研究者がビジネスモデルを考えて、基礎研究をすることがあったとすると、思考の範囲が極めて広くなり過ぎるだろう。3年後の消耗材がきちんと入手できるかとかね。そんなことは担当の専門家がいらっしゃれば良いわけで、そんな方が伴走すれば良いだけだ。それが産学連携担当部門のお仕事でしょうし、それが出来る者が組織に居れば良いだけだ。というか、世界トップの研究成果を、企業さんが使える化出来ない!と大学を見下してくる様は、日本の暗黒な経済を見るようで悲しい。

種々の家電産業が統廃合され、今や、日本製品は見る影無い。しかし、しょっちゅう話題に出ることだが、パーツは日本製だという言い訳。今のところ、多くの量産機械が日本製であることは、一つの安心項目なのだ。それが無くなってしまうと、ものづくりの世界において、日本の出る幕は無くなり、観光のみの国になるのであろう。そうならない為には、企業様のトップの決断しかないのだ。オープンイノベーションは、本当にオープンな状態にあるのだ。

別の観点なのだが、大学に企業がお金を払うべきだという政府の意見があるが、それは有難い事なのだが、例えば自動車の一つの部品の改善に繋がりましたという時に、もしもそれが限られた車種で、月産1000個の改善にしかならないということであれば、それは採用されないし、したとしても、開発費用としての大学への期待は極めて少なかろう。それが月産1000万個ということであれば、例え、1個1円のコスト減に繋がるのであれば、それなりに大学へ入れて頂かないといけない。こんな話が通じる人が、経済界にいらっしゃいますか?ということだ。ビジネスモデルにおける研究成果の取り込みという事に関して、容易では無いが、挑戦しない何も変わらないどころかじり貧だ。間違いない。

価値の技術化

技術の価値化というキーワードは、この20年くらい、言い続けてきたことだが、先日、「我々は使わない用語だ」と言われ、社会ではそうなのかなと思った次第。価値があることが前提になっているのか、それとも価値そのものに囚われていないのか。ビジョン無き社長様とか、そんな方には価値という単語は死語なのでしょう。当該地域で語られるビジョンは「委託を良品廉価で即納致します!」ということだからね。

それはビジョンとは言わない、いや、ビジョンなのかもしれない。自己満足できる最良の状態と言うことなのだろう。良品は高価で当然なんだけどと思っていたら、市長某殿が「当該地域は良いものを安く売るから偉いんだ」と声高らかに語られて、唖然となってしまった。こりゃぁ、給料が上がるなど、永遠に来ないなと。最低賃金設定とか、それを上げるなんてことをすれば、当該地域は雇用が無くなるんでしょうね。

世界の人口増加にブレーキが掛かり始めたわけで、技術の価値はどうあるべきか、何が届けられるべきかということを真面目に考えている人が居るのだろうか。今の社会における技術の価値である。バーチャルではなくリアルな幸福感と言うか、笑顔と言うか、そんな心の有り様を獲得できるような、そんな技術の価値を求めたい。どんな技術が価値化されるべきか。良質で、ずっと手元に置いておきたい。そんな技術はなんなのか。

人の心の有り様であるから、どこの会社が儲かるとか、潰れるとか、そんなお話では無いのだ。サービスを売るということが一時流行ったが、「おもてなし」ということで、公金がわいろに使われるような日本である。価値という言葉を社会の方々が使わなくなっても当然なのかもしれない。逆に、価値の技術化こそ、今求められているのだろう。分かり易い価値を技術にしていく。ベンチャーのやり方だが、ペインでは無く幸福から。それを間違ってはいけない。

荒れた山を見て

ちょこっと山間部を車で走ってみると、目に付くのが放置された間伐材。山から降ろすのには大変な労力とお金が必要になる。トラック輸送となると、燃料コストも安全面でも、とっても面倒なことがあるなと、容易に想像つく。間伐された丸太がごろごろころがり、苔むして、汚らしい山肌を晒す。大雨になって、これらが流れ出したらとんでもないことになるなとは思うのだけれど、経済的に不採算であれるから放置されるのであろう。

先日、ちょこっと拝見したところは、もうそれはそれは悲惨な状況であった。立っている木がかわいそうなくらいである。というか、その山の下の農地を活用していらっしゃる皆様にとって、恐怖でしかなかろうと思う状況である。山からイノシシすら降りてこられないのでは無いか?間伐材は勝手に持ち出しても良いぞとかね、地域の里山においては、それくらい規制を緩和しないと、山そのものが駄目になろう。山が駄目になれば川も海も駄目になる。小学校で習うあれだ。

宿舎に立ち戻ってぐるりと見渡すと、間伐材の直径で間に合いそうな杉の建具とか、多数あるわけだが、これらは太い素材から切り分けられているのかなと、加工のしやすさ、均一性という観点からはそうなってしまうのだろう。地域のなんらかに使えないかなとは思うが、雨ざらしのところでは、腐食が進む木材の辛さ。火災にも弱いしね。しかし、そんなことを言っていたら、結局、醜い山が増えるだけだ。

行政が入って大規模に活用するという事例は見たことがあるが、それは税金を大量に消費するということに繋がる。DIYの番組などで、手作業でのものづくりに取り組む人もいるのだろうが、それは極めて稀であろう。そうであれば、公共の税金を使うとしても、素材として板化したものとか、地域小学校や中学校に配布して、自由に工作に使って頂き、手作業の素晴らしさを身に着けて頂いてはどうだろう。ものづくりは楽しく素晴らしいのだ。子供の頃の感激が日本を救う。それくらいのことを思ったら、税金を使っても良かろう。そう思った。

誰を幸せに?

新規事業創造や第二創業を目指すお企業様の声が、耳の奥まで届くようになってきた。いろんな社会情勢の変化があろうが、大学ですらどかどか潰れていく時代が何を意味するかということである。旧態依然の学問を身に着けさせようとしている組織は要らないという社会の判断と考えると、社会そのものは旧態依然ではなくなっているという宣言なのかななどと思ったりもする。社会を見れば、突然、田んぼが潰れてロジスティックスセンターが立つとかね、看板方式とは随分と社会が変わってきたぞと感じるのだ。ジャストインタイムは作りたいものを作りたいときに必要な数をそろえるようにしておけば、在庫が生まれない分、B2Cのポジションを獲得した者のみが利益を得るという方式だが、今は、最終ユーザーが満足を得ない仕組みは淘汰される。世界の当たり前は、今のところ日本では非常識と叩かれる。

Z世代諸君はそんなことは知っちゃいない。メニューにある商品は今、欲しいのだ。漸く、血みどろになって稼いだ金を使う側に利益が還元される時代がやってきたのだなとほっとするのだ。ビジネスモデルだの、サブスクだの、なんだかんだ言って、一度も、世界の経済状況を好転させたことがないMBAとかね、未だに地下鉄の車内広告で見かけるもんね。あれ程の詐欺がまかり通るのだなと、ロジスティックスワンダーランドの現状を見て思うのだ。本当に素晴らしい、良質なものを欲しいと思った「今」欲しいのだ。それを実現しないのであれば、その商品は無かったに等しいのだ。回転すし屋などは、店舗でもそれを平気でやるけどね。なんで淘汰されないのかさっぱり分からない。

話を戻すが、新規事業をやりたいというお話を聞かせて頂いて、正直にお尋ねするんだけど、「御社もしくは社長殿のビジョンは何ですか?」って。「良品廉価で委託業者に満足頂きます!」という、化石もびっくりな返事をしていただける。それが大半なんだよね。特に、ものづくり企業様に置かれてはもっと悲惨で、某機械メーカーの最新機種を補助金で買いたいから、知恵をくれって。その機械って、要するに量産品でしょ。量産品を同業他社に売りつけまくって、価格競争のプレーヤーに仕立てて、Tier0の王様が作ったゲーム版の上の駒になっているって気が付かないんだよね。見事なビジネスモデルですよ。すべてのプレーヤーが貧乏農場にゴールする仕組み。

自社の技術の棚卸をしてみたい。そんなお話が聞こえてくる時、聞かせて頂きたいのは、それを活かす算段が、上層部におありですかということ。M&Aで事業を購入して「新規事業だ!」ってふんぞり返るのは、そろそろ世界的に終わりを迎えているぞ。M&Aの玉が切れてきたということだね。それでスタートアップをなんて、隙間ビジネスを沢山作らせているけれど、良質なスタートアップには吸血鬼のVCが最初からくっついていたりね。地域で大切に育てて欲しいなというビジネスの提案に出会うことがあるが、そんな素敵な人達と出会うにつけ、自らの存在によって、どんな笑顔を社会に届けていらっしゃるかを知らない企業が我が国には多すぎるなと。棚卸はそこからでよろしい。先ずは自らの存在理由を定量的に理解して頂きたい。それすら出来ないのであれば、それは良品廉価なお企業なのでしょう。無くなって宜しい。そう思う。

時の断捨離

昨年来、ずっと断捨離を続けている。職場の紙が減らないのには辟易するが、それでもかなり減ってきてはいるので良しとする。巨大なディスプレーをでんとおいてということを某職場ではやっているのだが、オフィスが分散され、そうもやっていられなくなっている。紙の資料を無くすことが、情報の精査の確度を下げることに繋がってはいけない。紙から離れない方のお仕事を拝見していると、慎重に見返して事を成していらっしゃるなと感銘を受けることもある。その逆もある。

紙を手に、簡明に趣旨を説明され、意識統一を図れる姿は美しい。それを目指したいのであるが、紙が出てきてしまうと、オリジナルのデータをくれないかしら、検索できるものが欲しいと我儘を言いたくなる。欲しいのはキーワードであり、キーワードによる一覧性である。エキスパンドブックが出てきた時、お仕事の資料が全てこの形式になれば良いのにと思った。勿論、今では検索可能なPDFで全て事足りるわけだが、中にはご丁寧に、紙に印刷してPDF化して頂くこともあり、遥かなるDXだなと思うわけだ。

紙の資料の断捨離は、勇気と決断によって成し遂げられるのだが、時間の断捨離はなかなかにして難しい。興味が湧くと没頭してしまったり、いくつものToDo(パソコン通信時代には何頭ものトドとか言ってたな)を眺めて、ちらほらと考えながら無駄に時間を過ごしてみたり。これらを防ぐために、やっぱりシングルタスクだなと、これまた覚悟を決めて最大に困難と思われるものからちょっかいをだす。進めるに足るエビデンスデータが足りなくなったらスパッとやめて、どんなデータが必要かを5分以内で纏めて、先送りする。

ちょっとした空き時間にそれを見返して、何処に探しに行こうかを考えてメモをしておく。そのメモを元に終業間際にその「何処」を探し当て、翌日に送る。するとそこからお仕事をスタートできる。そんなものの繰り返しで、毎日が過ぎ去っていく。作業は無いから、新規に思考して組み立てていくしかないのだけれど、それはそれで未踏の領域で愉快でもあり苦しくもある。絶望はしない、何故なら、人が思いついたゴールだから、何処かに必ず存在するから。そうやって四苦八苦して5日間、過労困憊になり、職場に出なくても良い日が来る。一週間とは良くしたものだ。そう思う。

企業投資を促せに思う

基礎科学分野での我が国発信の論分のプレゼンスがどんどん落ち込んで、その勢いが止まらないと、まぁ、昨日今日に始まった事では無いのだが、ずっと続いている。論文の数だけではなく、所謂、トップ10%論文と呼ばれる領域にどれだけ出せるかということなんだけど、企業の都合の良いように改革しろみたいなことを言っているわけだから、それは無理だわな。チャレンジしない企業に溢れる我が国において、そちらさんに向けて考えろみたいなことを言っている限り、それは駄目だ。

昨日の日経などには「大学は企業が投資したくなるような研究体制を整えろ」と書かれていましたけどね、ゼロ円で成果を寄越せという意識改革を企業群にして頂かない限り、それは成立し得ない。勿論、全てのお企業様がそうだとは言わない。基礎研究に価値を見出し、そこに投資しようと意識を変えて頂くことからではないか。大学が経済再生の一助となっていないという評価だが、新入社員さん達が、数年経って、全くの役立たずか?創造性の高い人材を育てろとか、タダで成果を寄越せとか、企業側に都合の良いことばかり並べるでは無い!

企業さんに喰いついて頂けるか頂けないかは、教員の人的魅力と、基礎研究が世界でナンバーワンでオンリーワンであるかである。そんな研究室には、当然の事だが、大学院生も多い。その若い力も当然の事ながら、新規のアイデアを生み出す原動力である。そこにもRA経費などとして、直接経費として入れて頂かなければならない。そして、経理を担当する大学のバックヤードにも当然の事ながら費用が発生する。所謂間接経費で、海外では65%以上が当然のラインだが、我が国では要求すると泥棒扱いされる。

企業が世界トップを目指さず、自社の生き残りだけを考え、国からの助成金や補助金を貪り食い、国を疲弊させている現状にちょっかい出すと票が減るということなのだろうが、政治家がいつまでも金と票に頭を下げているから、大学は企業から金を奪う策を考えろ見たいなことになる。学問は天が作った学理を、人知に理解される言葉に翻訳するものである。それを人の幸、延いては企業の利益に繋がっていくもので、それが国民に還元されるのだ。確かに、基礎研究の質を上げる努力は徹底的にしなければならぬ。それと企業に媚をふれということとは道理が異なるのだ。

サポート考

2021年の統計なのだけど、海外から日本の大学に留学して学んでいらっしゃる方は、大略24万人強なのだそうだ(文科省資料)。これはコロナ禍の影響で、オンライン留学の学生さんも含まれるが、それは全体の9.1%だそうで、多くは住み慣れた家から遠く離れた地で学んでいらっしゃるということだ。同年の我が国の大学生総数(留学生を含む)が263万人だから、約1割の方が留学生であるわけで、多くの海外の友人を持てるチャンスが双方にあって素晴らしい事だと感じる。羨ましい限りである。

コロナ禍の型が感染力が高いと言われるBA.5型に置き換わって来て、8月中頃には置き換わるという。異国の地で、感染された留学生は全国で大勢いらっしゃることだろう。その中にはワクチン接種においても不如意で、接種せずに感染し、重篤になった方もいらっしゃるかもしれない。その点においては各大学で十分なサポートが必要であろう。ただ、そのサポートを何処まで各大学が受け持つのかと言うところは難しい処だ。

留学生が滞在するための宿舎において、陽性と認定された学生さんを、保健所職員でも無い、ましてや医療機関の者でもない大学職員がその場まで出向いてサポートすることなど言語道断と考える。その対応次第に依っては、二次感染による事務機構の崩壊を招くわけだ。患者の安心最大化を目指すことを否定するのではない。きちんとお金を掛けて、プロに委託する範疇では無いのか。それは国が補助するべきでは無いのかと言いたい。

日本から海外へ学びに行く者、そして海外から日本に来て頂ける者は、将来の宝であることは間違いない。我が国の文化、思考を知って頂く者、伝えて頂ける者の増大は、平和外交の根幹である。ミサイルが飛んでくるからと、憲法を改正して、予算的にも軍備増強と叫ぶ前に、人的交流で平和を長期に目指すところに税金を投下するという考えに至らないのか。短期的には止むを得ないところはあるのかもしれない。しかし、政治は長期的展望が大切である。そう思っている。

1.5倍速

四月中旬だったか、今、目の前にあるPCを発注したのですよ。新しいチップセットで、今の職務にある限り、もう、買い替えることが無くて済むように、まぁ、普通に使える程度の機械を見繕ってみたら、6月下旬にやっとこさっとこやってきた。その間、オールドタイマーをひたすら我慢して、何とか頑張ってみたわけですよ。そのちょっと後に頼んだ4Kディスプレーがやって来る気配すら無い。多く、半導体やパネルの不足が叫ばれているわけだが、こうまでもエレクトロニクス製品が手元にやってくるのが遅れるような時代になるとは思わなかった。

この4月に対面講義が本格スタートした後での学生から「教師がしゃべる速度が遅すぎてイラつく」という感想が多数あげられたとのこと。昨日、TVで1.5倍速で映画など、デジタルコンテンツを体験する若者が増えているというニュースを見て、それを思い出した。体験ではなく消費であり、時間パフォーマンスを重視するのだそうだ。じっくりと堪能するというよりも、単位時間当たり、どれだけの経験をしたかを重視するという。それだけ理解速度が高まって、講義なども短時間で理解できるのであればそれは素晴らしいことだ。昔から「速読」という、数十分で本一冊を読み上げる人達が居るからね。同じことだ。

ふと、板取川で溺れた30代男性のニュースと重なった。川の流れを見て「これはゆっくりだ」とか思ったのかしら。1.5倍のニュースを見る前だったから、激流・濁流で育った小生だから、川の恐怖は知っている。海は浮くが川は浮かない。濁った水は密度が高く、浮くとか浮かないとかではなく、壁に体当たりするほどの衝撃が自ら伝わってくるのだ。ましてやここ数日の雨模様の川である。こう言っては失礼かもしれないが、自然に対する恐れが無さすぎる。自然は畏れ敬う存在である。たかが人間が勝てるわけがないのだ。何か刹那的な衝動的行動を感じるのだ。

突然、教員が転職して、そのプログラムが崩壊するとかね。組織としておかしい。代役が居ないと崩壊する仕組みを組むこと自体、組織としてあってはならないことである。あるいはそうであったとしたら、それをきっかけに大いに見直しを図るとかね。研究と教育は違う。研究なら濁流に飛び込む挑戦も必要かもしれない、いや、その連続である。教育であるならば、まず、その激流を渡る橋を架けるべきだ。誰もが渡れる堅牢な仕組みを構築することこそ責任者の務めだ。自分の足元はどうなのだろう。まぁ、大丈夫だろう。社会は動いている。1.5倍速の人達が2倍速の人達と共に作る世の中が来るのであろう。草葉の陰で見守るとしよう。

先輩風は

産業技術の発展は目覚ましく、研究すれども油断をすると、あっという間に世界に置いてきぼりを食わされて、新しいと思っていたのは自分だけで、たこつぼに居たことに気が付いた時には50過ぎ・・若手支援のメニューが世の中に増えてきたのは、何も、研究者人口を増やそうというだけではなくて、頭の柔らかい、そして博士課程の内に海外で修行して、それらの知恵を社会に還元して頂きたいからだ。若い内に企業の厳しい目線に晒されて、要素技術の深堀に挑むことは、研究者としてプラスになる。

教授先生が助手を私物化していた時代、いや、今もそうかもしれないけれど、自由な発想なんて許されなかったですよ。「それは既に論文が出ているのか?出ていなければそんなものは信用できない!」と怒鳴られて、随分と文化の違う大学に来てしまったなと思った昔を思い出す。挑戦レスの国立大学時代。そんな研究者が多かったのかもしれませんね。今は、まぁ、駆逐されていると信じてはいるのですが、それは定かでは無い。

もうれつなスピードで変化していく社会情勢ではあるが、例えば、カメラのミラーが無くなるとかね、無くせるものは無くせば良いのですよ。いや、ミラーの高速動作の機構に一生を捧げたのだから、無くなっては困るなんてお話は要らないのだ。しかしながら、研究者にも企業にもそのような考え方が根強く残っている気がするのだ。カーボンニュートラルとかプラごみを無くそうとか、そんな時代にありながら、やっぱり利便性を考えると研究は続きますよね。

工芸・美術の世界があって、人の感性に働きかけるものづくりはプラスチックでも金属でも可能である。しかしそこに到達するまでのプロセスを思考していくこと。それは過去を知り抜いた老人は、その知識と経験が邪魔になる。若手研究者支援というのはそんな意味もあるのだと感じている。経験が無駄口を叩くこともあるのだ。先輩風は最悪の暴風だ。肝に銘じないといけない。