四月中旬だったか、今、目の前にあるPCを発注したのですよ。新しいチップセットで、今の職務にある限り、もう、買い替えることが無くて済むように、まぁ、普通に使える程度の機械を見繕ってみたら、6月下旬にやっとこさっとこやってきた。その間、オールドタイマーをひたすら我慢して、何とか頑張ってみたわけですよ。そのちょっと後に頼んだ4Kディスプレーがやって来る気配すら無い。多く、半導体やパネルの不足が叫ばれているわけだが、こうまでもエレクトロニクス製品が手元にやってくるのが遅れるような時代になるとは思わなかった。
この4月に対面講義が本格スタートした後での学生から「教師がしゃべる速度が遅すぎてイラつく」という感想が多数あげられたとのこと。昨日、TVで1.5倍速で映画など、デジタルコンテンツを体験する若者が増えているというニュースを見て、それを思い出した。体験ではなく消費であり、時間パフォーマンスを重視するのだそうだ。じっくりと堪能するというよりも、単位時間当たり、どれだけの経験をしたかを重視するという。それだけ理解速度が高まって、講義なども短時間で理解できるのであればそれは素晴らしいことだ。昔から「速読」という、数十分で本一冊を読み上げる人達が居るからね。同じことだ。
ふと、板取川で溺れた30代男性のニュースと重なった。川の流れを見て「これはゆっくりだ」とか思ったのかしら。1.5倍のニュースを見る前だったから、激流・濁流で育った小生だから、川の恐怖は知っている。海は浮くが川は浮かない。濁った水は密度が高く、浮くとか浮かないとかではなく、壁に体当たりするほどの衝撃が自ら伝わってくるのだ。ましてやここ数日の雨模様の川である。こう言っては失礼かもしれないが、自然に対する恐れが無さすぎる。自然は畏れ敬う存在である。たかが人間が勝てるわけがないのだ。何か刹那的な衝動的行動を感じるのだ。
突然、教員が転職して、そのプログラムが崩壊するとかね。組織としておかしい。代役が居ないと崩壊する仕組みを組むこと自体、組織としてあってはならないことである。あるいはそうであったとしたら、それをきっかけに大いに見直しを図るとかね。研究と教育は違う。研究なら濁流に飛び込む挑戦も必要かもしれない、いや、その連続である。教育であるならば、まず、その激流を渡る橋を架けるべきだ。誰もが渡れる堅牢な仕組みを構築することこそ責任者の務めだ。自分の足元はどうなのだろう。まぁ、大丈夫だろう。社会は動いている。1.5倍速の人達が2倍速の人達と共に作る世の中が来るのであろう。草葉の陰で見守るとしよう。