先輩風は

産業技術の発展は目覚ましく、研究すれども油断をすると、あっという間に世界に置いてきぼりを食わされて、新しいと思っていたのは自分だけで、たこつぼに居たことに気が付いた時には50過ぎ・・若手支援のメニューが世の中に増えてきたのは、何も、研究者人口を増やそうというだけではなくて、頭の柔らかい、そして博士課程の内に海外で修行して、それらの知恵を社会に還元して頂きたいからだ。若い内に企業の厳しい目線に晒されて、要素技術の深堀に挑むことは、研究者としてプラスになる。

教授先生が助手を私物化していた時代、いや、今もそうかもしれないけれど、自由な発想なんて許されなかったですよ。「それは既に論文が出ているのか?出ていなければそんなものは信用できない!」と怒鳴られて、随分と文化の違う大学に来てしまったなと思った昔を思い出す。挑戦レスの国立大学時代。そんな研究者が多かったのかもしれませんね。今は、まぁ、駆逐されていると信じてはいるのですが、それは定かでは無い。

もうれつなスピードで変化していく社会情勢ではあるが、例えば、カメラのミラーが無くなるとかね、無くせるものは無くせば良いのですよ。いや、ミラーの高速動作の機構に一生を捧げたのだから、無くなっては困るなんてお話は要らないのだ。しかしながら、研究者にも企業にもそのような考え方が根強く残っている気がするのだ。カーボンニュートラルとかプラごみを無くそうとか、そんな時代にありながら、やっぱり利便性を考えると研究は続きますよね。

工芸・美術の世界があって、人の感性に働きかけるものづくりはプラスチックでも金属でも可能である。しかしそこに到達するまでのプロセスを思考していくこと。それは過去を知り抜いた老人は、その知識と経験が邪魔になる。若手研究者支援というのはそんな意味もあるのだと感じている。経験が無駄口を叩くこともあるのだ。先輩風は最悪の暴風だ。肝に銘じないといけない。