同じ自分だけれども

時には本拠地を離れて、遠い島国に来るのも良い。とか何とかいうと、橋で繋がっているぞと怒られそうだ。その橋の確かな構造には驚かされる。コンクリートの柱を海中に建てるのは勿論なのだが、柱がまっすぐに地球の中心に向かって立っているその確からしさこそ日本の凄さだなと、本四連絡橋が出来た時に感激した。今でもあの橋を見るたびに驚かされる。ゴールデンゲイトなどの世界の橋も凄い。あんなものが良く出来るなと感激する。

そんなことを言うとピラミッドはどうしてくれる、マチュピチュやインカの遺跡群はどうしてくれると直ぐに言われそうだが、まぁ、そんなにいきりたちなさんな。金属加工だって凄いんだぞと仰るでしょうが、加工される側から接触する刃物を考えたことがありますかと尋ねてみたいものだ。あると仰るかもしれない。でも恐らくないでしょう。そんな状況に世界は今ある。

様々、変わらねばならない。意識を変えなければならない。する側からされる側に意識を転換しなければならない。常に上から目線でこうあるべきだと高圧的な方のなんと多い事か。みんな弱者だ。一人で強い人間なんていない。虎がひとたびじゃれつけばあちらの世界にご招待ってなもんだ。弱くていいじゃないですか。みんな弱いんだもの。

高知は2年ぶりかしら?はりまや橋は相変わらずのがっかり度日本一だが、まぁ、そのがっかりを楽しみに眺めてしまう自分に苦笑いだ。飛行機の眼下に見える海岸線は神様が創ったものだ。だから美しい。人工物にも美しいと言わせてほしいが、それはなかなかにして難しい。便利は有難い。それを目指してしまう。しかし、本当にそれで良いのか。魂の底から湧き上がる「何かをしたい」という想いをぶつけたお仕事を創って、そして参画したい。今日を頑張ろう。そう思う。

陰口は必ず聞こえる

新幹線などと言うと、多くのお企業殿が「関係ねぇや」と威張られる。成る程、威張るのですね、ほうほう、世界ははるかにあなた方よりも「圧倒的」に技術が高いというのに。これを先日、諏訪にて感じた。東海地域のTier2,3ほかの方々、図面を形に換える能力で、大学人を馬鹿だのなんだのおっしゃってこられましたが、ほう、そうですかそうですか、まぁいいか、いずれわかることだ。

歯車が百億回廻って一回ずれる加工と、永遠にずれない加工と、世界がどちらを求めているか、宇宙船を下町が飛ばしている今をみれば明らかなこと。それを「私たちは凄いんだ」とヒステリックに叫ばれる。誰も求めない。それを直視できないのであれば、もう、消えるしかない、いや、世界からは消えている。

同様に、大学教育も同じことだ。天下万民を導かせて頂く教育に挑戦しない人種は消えれば宜しい。当然である。小生などはその急先鋒である。無用の短物である。長物などと己惚れない。工学人でありながら、食料自給率20%台を許してきた学者など屑である。申し訳ない。

要するに我が国は食えない国である。威張ろうが何を叫ぼうが「お前の国には飯をやらん」と言われたら干上がるのだ。それが日本だ。それをひっくり返そうとすると「邪魔な奴」と言われる。国から以外にも足元から言われる。まぁ、無視はしますが、うるさくてかなわん。それが我が国であり、プラスチックが小腸に絡みつき、絶滅する人種であろうとは思うが、それにあがなうことこそ小生の役割と思うのだが、まぁ、陰口も聞き飽きたので、どうしようかなと思う私であります。

時代は進むのに

地域振興と土地の方々の利便性がマッチすることは極めて稀である。新幹線が通るたびに在来線が廃止、もしくはその軌道から特急などが消えていき、遠距離の旅行客だけがハッピーになって「観光立国実現の方程式の解」みたいにもてはやされる。新幹線が通るまでは来て欲しいオーラを出しまくり、いざ、来ることが決まると、やっぱり在来線もそのままにせよという日本人の変わり身の早さだね。

列車が停まる・停まらないというのは正に死活問題で、公共交通機関が無くなってしまった結果、ゴーストタウンになるのは世の常である。利用者が居なければ営業活動が成り立たないのだから、それは必然と言えよう。新幹線の駅の周りに引っ越そうと思ったとしても、そこはもう、計画の前から購入者が決まり、そして価格は一般民間人の及ばぬところに行ってしまう。それが日本という国だ。

たまたま新東名を走ったのだが、これは大動脈の東名高速の非常時道路とも言え、このパラレル化は実に素晴らしい事業だと小生は思っていたりする。土地の利害関係は置いておくしかないのだが、大動脈の梗塞などはあってはならないことだ。それを回避するためにも様々な工夫が成された巨大事業であり、凄まじい税金が投入されていたとしても納得できる代物である。あくまでも「小生は」ということだ。一般論ではない。

土地の必然性をもった商材を作るとすると、それが活きる地域に運ばねばならぬ。超精密な歯車などが諏訪圏で出来たとしても、それを活用可能なシステムを製造可能なエリアに持ち込まねばならぬ。そうなると様々な物流が必要になるのだが、貨物列車をうまく活用できれば良いのだが、それだけでは厳しいものが現状ではある。国家は、人が住むところ、そうでは無いところ、ヨーロッパの如くに大ナタを振るう時期にきていると感じる。それが真に故郷を思うということになるのだろうけれどなかなかにして難しいだろう。新幹線問題を見てそう思った。

「ほっ」っとするもの

おニューの新幹線って電池だけで走っちゃうんですね。架線が切れても大丈夫と言う超特急はなかなか素敵ですね。これなどは正に日本のお家芸というか、災害が多くなってきた現状を踏まえ、架線が切れて走るというよりも、災害時の基地として働けるということでしょう。これは極めて心強い。全ての鉄道車両に求めたい機能ですな。どんどん作り込んでいって頂きたい。

AI関係でついつい計算機って方向に開発が向いてしまいがちですが、農業や医療に関わるモノ作りもどんどん精緻化していって頂きたい。勿論、家庭における「ほっ」も重要な課題で、断捨離された中に「ほっ」が存在するとおしゃれな空間になりそうです。そんなデザインも日本発のモノが欲しいものだなぁと思うのです。偉大な「ベジデコサラダ」などは、おしゃれ空間の姫君と言っても過言では無かろう。世界に通用する稀有な存在だ。

尿から癌を診断する、水素をマイナスイオン化する、そのような素晴らしい技術が市場進出を待っているわけだが、相当のお金が掛かって実現しているのは事実ですね。革新的研究にお金が行っていないという文科省の主張は、正しいとは言い切れない気もするのです。だから様々に努力を重ねて一歩一歩進んでいくのが大切。どこかで花開く、それを地道に進むということなのだと思う。

生活空間の中にあるすべてのものを放り出して、生活苦にならないように再配置していったら、本当に必要なものはどれだけ部屋に帰ってくるだろうか。そう思うとき、科学技術と生活の「ほっ」は必ずしも一致しないけれども、国際競争力、即ち、外貨を獲得して国際的国家であり続けるためには、世界的研究と、それを商材化するストーリー構成力が必要だと実感する。今週も新たなモノづくりをしたのだが、すでに金曜日。今日出来ることは明日に伸ばして、ちょっと一息つきたい私であります。

ここまではやる

分子と言っても巨大なものから水素分子まで様々なサイズがある。それらを機械加工で制御出来たら、まぁ、大概のことはできますわな。「弊社の技術はとんでもなくすげぇぜ」と仰る方の加工品を拝見すると、鏡面仕上げと言っておきながら、とてもナトリウム発光の1/20波長の凹凸を下回る仕上げでは無い。これは加工とは言わない。破壊と言うのだ。

その破壊の具合は、素材表面から数十~数百までに及ぶ。それを意識せずにモノを加工で作ってきた日本なのだから、そりゃぁ、車軸も折れるしタービンブレードも吹っ飛ぶわなぁ。まぁ、そんなレベルの我が国ということだ。となると、これは裏を返せば伸びしろが無限にあるということだ。これは凄い。

いっぱいいっぱいのかつんかつんだと、もうどうしようもないわけだが、そうではなくて、思いっきり頑張る余地がいくらでもある。あるのだから図面など待たずに自ら商品製造に向かって動けば良いのに、それは決してやらない。待つ、ひたすら待つ。何を?図面を。この繰り返しを断ち切らないのであれば、我が国はもはや国では無いね。

医学の進歩が素晴らしく、しかし工学が追い付かずに、薬の価格がべらぼうに高いのであれば、分子レベルでモノづくりをしようではないか。様々な困難があろう。困難を与えてくれる事例は最近にしては珍しい。挑み続けるしかないのだ。カン・コツの世界の定量化、そして脱却。それが進む道だ。誤ってはならない。

真実は?

先日、某所での展示会で「仕上げレスで鏡面です!」と叫ぶ、まぁ、中京地域だったら威張りくさりそうなブースで足を止めた。確かに綺麗だ。中京地域の同じ絶叫に比べれば、確実に上を行く仕上がり具合だ。立ち止まり視線を落とすと「0.6μmかな」。何故解るのですかの問いかけに、「いやいや、中京地域なら表面だけの粗さだけど、御社の製品は内部の歪が少ないね」の問いに頬をあからめる。中京地域の技術が自動車目線でそれ以上を求めなくなっているなかで、きちんとモノを作っている人たちが我が国には残っていらっしゃったことを知ったことは偉大なる収穫であった。

何を作るか問題だが、自動車などはもう我が国で作る必要は全く無い。5Gの世界がくる中で、車の中のハーネスに頼る時代はもう無い、いや、とっくになくなっているのに、さもそれが必要の如くにうそぶくモノづくり屋と学者によって踊らされてきただけだ。税金を産むのは自動車だけですからね。それは否定しないけど、ものを作るという点において、日本の置き去りにされた感は凄まじい。図面を形にしただけでしょ?その図面の価値はなんだったのですか?そこまで威張る根拠があるのですか?まぁ、そんなもんだ。

で、じろじろ世の中を見渡してみると、人間である限り、やはり自らの能力を最大に発揮できることこそ豊かな社会と言えるのではないかと、心底思うのです。五体満足でも智慧がなければでくのぼうだ。きらりと「あなただけ」の力を発揮できれば、それこそ「命」である。その命の価値を最大化させるものづくりが出来る時代になったと思うのだ。人類が作った電子頭脳が、人間の処理能力を超えた時代である。否定してはならない。

計算機を形作る世界で面白いお話が最近出てきている。40年近く前の技術が伝承されていないと。オートメーション化された機器を繰り返しと言う嘘の経験に依って威張ってきた連中が世の中を作っている。実は真理はそこには無い。無いから技術の伝承は成されない。ボタンを押すことは技術では無い。何を作るかの前段階で、我が国は既に滅んでいる。だからこそ、ゼロから数字を産む奴が必要なのだ。それを褒めたたえる文化が必要なのだ。

世界は何処に?

様々な「もの」、「こと」に対して国のお金が投下されているわけですな。川下の企業からこの図面を貰ったから、それを三次元化すれば必ず売れるから装置を買う金をよこせ。これが国の繁栄に繋がってきたのだからそれは否定しない。特に美国に対して追いつき追い越せ、国を挙げて皆で頑張る時代であれば、税金をものづくりに回して、それによって再び税金を得るモデルは何処の国でも経験済みだ。

問題はいつまでそれを続けるのかというところだ。永遠にそれにしがみついて、行き過ぎれば「装置があれば図面が来るから現金を投下してくれ」となってくると話は別だ。それは投資であって、そこに挑戦性が無ければリスクだけが発生する。そこに税金と言うわけにはいかない。挑戦する側には、規模にもよるが、少なくとも投資の10倍程度の稼ぎが得られ、国家の投資以上の税金が国に戻らねばならぬ。自らが価値化されなければならぬ。小生などは真っ先に消滅せねばならぬ。解っている。化石は不要、無用だ。過去の価値観を振りまく者達は、自らの存在価値を語れねばならぬ。

さて、この条件で縛ってみると、機械一台を購入してものづくり企業が新たに何を作るかと言う大問題に衝突する。大型計算機などは設計できる企業は限られているし、そこに使われる部品一つ一つ、大企業でないと到底入り込めない。マスコミなどでは美談として、こんな町工場がこれだけ素晴らしい部品を作っていると称賛するが、1個1億円で終わったら、投資回収はできないのだ。税金で作るべきものではない。波及効果も含めて考える必要がある。あなたではない、天下が必要としているかだ。生きるために作るのだ、だから仕事があるべきだ。成る程、しかし、天下は大転換している。今の仕事は本当に必要か?この国に必要か?

新幹線などはとてつもなく良くできた製品で、これを設計・監修している方には尊敬の言葉以外、何も浮かばない。時速300kmで激走してもひっくり返ることも分解することもないのだ。最近は足回りが怪しい事件があったが、これなどはもっと反省せねばなるまい。新幹線のような極端な事例は滅多に無いが、国を代表する優れたモノづくり。これからも見てみたいものだが、はてさて、そんな事業に関われる「本当に力のある企業」がどれだけ生き残っていくのか。それだけではなく、もっと国の根本を見つめ直さないといけないでしょうね。そんな世界情勢の中の我が国のモノづくりを考えねば、この先、真っ暗闇でしょうね。

何を創るのか

全く何も無いところから何かを生み出す機会はなかなか無い。それどころか大概のことはネット上に紹介されていたりする。規則も含めた様々な情報がアップされているのだから「やる気」があれば様々な挑戦が出来る時代になっている。一歩を踏み出さない、踏み出せない方々のなんと多い事か。挑戦しやすい時代なのにそれをしない。

ところが最近、そうでも無いんだなという気持ちになっている。二十歳前後の諸君の挑戦意欲の大きい事。ただ、ソフトウエアの世界のことですけどね。ハードウエアを伴うとなると、途端にハードルが上がってしまって、チャレンジすることは極めて難しいのですが、もう数年経ってみれば、3Dプリンタが2万円くらいになっちゃうのでしょうから、いろんなものを具体的に作って新しいギミックを考えて、それを世に問う方々が現れるかもしれない。

素晴らしい技術をお持ちのお会社は確かに沢山あって、これからも技術を高めていかれるのでしょうけれど、それを何処まで高めていくのかという覚悟と、社会に何を提案したら商品になるのかという極めて難しい分岐点にきていますな。AIの台頭でホモサピエンスが絶滅するということがまことしやかに語られていますしね。

結局のところ何かをする勇気と言うことに行きつくのは間違いない。時の運だとか勢いだけでなんとかなる時代ではない。そしてオセロチャンピオンの凄まじい若年化を見れば、大人はもう後ろに回る時代であるというのも間違いない。何かを創っていくとか生み出していくとか、そんな流れの一週間にできればと思う、まぁ、結論とか発見とか何も得られないだろうけれど、例によってねちねちと考えてみましょうかね。

より良いものづくりを目指すが

AIがやってきて失われる職業に教師が入っている。するとなぁんにもやることが無くなるので、何か買い物をしたくなるのかもしれない。しかしなぁんにもやることがないと収入も無いわけだから、やっぱり何も買えないのだろう。浮世から離れて生きるには一番良いかもしれない。役小角よろしく、自然界から食べられるものを見つけ、空を共にして生きるのだろう。生命の原点まっしぐらである。

物々交換の世では財産という概念は基本的には無く、食料を皆で分け命を支え合う美しい世の中であったわけだ。貨幣が生まれ貧富の差が出来て、醜い浮世が生まれてきた。面白いものだ。その世が進化してきて、年齢を重ねると何も欲しいものが無くなるという達観に至る。AIによれば、健康寿命を延ばすためには読書が一番ということなので、ひたすら図書館に出向き、片っ端から活字を脳内に流し込む。正に健康的だ。

学生時代、巨大なガマの油売り大学の図書館にて、それこそ片っ端から読みまくったのだが、戦前の本にすら、大先輩諸氏の書き込みがあり、それを探すのもとても楽しかった想い出がある。「真実であろうか?いや、そうではあるまい」などと万年筆を走らせた方はどんな人生を送られたのだろうかと、今は懐かしく思い出す。活字まみれになる以外、やることが無かった陸の孤島。

食料は必要であり、水も必要だ。トイレも必要だし真っ裸で歩くわけにはいかないから、衣服も必要だ。まぁ、そんなものなのだ。真に必要なものは。サバイバルならナイフ一本を追加すれば良いだろうが、都会のジャングルでそれはあまりにも物騒で不要である。ジャパネットがあろうとも、なぁんにも欲しいとは思えない。新しい車のディーラーが出来、洋服屋が回転して半額セールを展開しようが、店を覗く気にもならない。より良いものを作りたい。その気持ちにはあふれているが、作る当人が「モノ」を欲しがらない。面白いものだ。

そうきたか

まぁ、自動車のデータ改ざんだとかなんだとか、ここ数年、そうなんだろうなと、言われてはきましたが、免振構造に「うそ」が入ってましたとなってくると、もう、日本発構造物を誰が信じるのだろうかと、どこまでうそをつき続けるモノづくり構造なんでしょうかね。

自然の猛威には首を垂れる以外の方策はない。そこに対してその猛威を理解し、人類との緩衝材として「すごいな」と思っていた企業が嘘つきとなってくると、もはや日本発を誰も信用しないでしょうね。ものづくりのどこにどれだけ「うそ」があるやら、もういい加減にしてくれと叫びたい程だ。

何も買うものが無いぞというストーリーではありますが、どんどこ市場に「うそ」が蔓延してくると、買う、買わないどころか買うものなんてそもそも市場には無かったなんてことになりかねないというか、あるわけないというか。

ベビーカーに100万円を出す人もいらっしゃるが、それが「実は車輪が外れるのですけど」という結果が出たらどうだろう。倫理教育はどうなっているのだと、大学を追及するのも、それはよろしい。その通りだ。金さえ稼げればそれでよろしいと政府は叫ぶが、それはいかんと言うのが学者の務めだが、それが出来ていない世の中になってしまっている。戦争も良い、嘘も良い、そんな日本に何故なったのか。今日は悩み続けよう。