夢?

時々思い出す核融合による無限のエネルギー発生。重水素と三重水素の核融合反応を連続的に発生させて、人工太陽を地上に作ろうという壮大な計画である。燃料1gで石油8トンを燃やして得られるエネルギーを発生させるのだが、水素を1g集めるって結構な量ではあるのだが、原理的には可能ではある。

日本では量子科学技術研究開発機構が頑張っていらっしゃるが、熱エネルギーを生み出してタービンを回すという原理は火力発電や原子力発電と変わらない。なんだか新しみが無いなと思う。地上に太陽を作って大丈夫かと言う心配事も、これまた延々と言われていることだが、小生が生きている間には完成しないのではないかと思ったりもする。

入れたエネルギーよりも大きなエネルギーを取り出し続けなければならないわけで、永久機関の魔法を見せられているような、そんな気分にもなるのだが、核融合とは通常のエネルギー発生とは全く異なる概念だから、それは夢を見続けたいと、少しは思ってはいる。

夢が少ないというか殆ど無いというのが現代社会であるから、少しは夢があったほうが良い。いや、多くあった方が良い。その昔(今でもあるのかな?)、ガマの油売り大学には四六のガマからしゃれで付けた「ガンマ―10」という核融合実験施設があった。四と六を足してガマ10ということなのだそうだが、いつかはきっと出来ると信じていると、ひょっとすると出来るかもしれない。短期決戦だけの日本になっていると思ったが、そうでも無い人達が居る。それだけでもほっとする。爆発しないことを祈るだけだが。

技術廃棄国家

来年になると日本人女性の平均年齢が50歳に到達するとかしないとか。凄いお話である。短期的にも不景気で、将来を長い目で見ましょうなんていう風潮は全く無い。何かを作ろうかなと思っても、「数が多いもの」が海外製品だったりサービスだったりするのだから、お金儲けはもう無理だ。

ドローンを見てもわかるように、先進的な技術があったのに「あれは危険だからダメ」という法律を作って、技術を捨てる方向に行く。検索エンジンは著作権法違反であるという国民の声で、結局のところ、海外のものを採用する。日本の行政・政治は日本産のアイデアは破棄して、育てることは決してしない。

大企業が新しい事に挑戦しない根本原因がそんなところにあるような気もする。大企業がクラウドファンディングでお金を集めて製品作りをしている現状は悲惨としか思えない。高齢者が過半数を占める時、多数決社会において、新しい意見は完全に抹殺されるのだろう。益々新しいサービスが生まれにくい国になっていくのだろうなと思う。

精神衛生的に何かを変えていくというのが性分に合っているのだが、それが全く不能になっていくのであれば、もう、何処かに逃げ出すしかないのだろう。しかし、遺伝子的にそれに対しても拒否反応を示す。何が何でも長期的視野を持つ。そう考えて毎日を過ごすしかない。息苦しい。

何をするか?

火山が噴火し、地震が頻発、アフリカではバッタの群れが食料不足を引き起こす。なんだか、モーゼの予言みたいなことが世界で頻発している。新型コロナウイルスもその範疇か?世界中で暗い話ばかりで、ニュースを見る気にもなれない。だからこそ、何か明るい話題が欲しいわけだが、そんなものはそう簡単には落ちてはいない。

いきなり目の前が明るくなるようなデバイスの登場を期待しても、そんなものは当分は出てきそうにない。5Gのお話にしても、噂先行で出てくる前に既に飽きてしまった気分になっている。びっくり箱の楽しさが無くなっている。勿論、びっくり箱を受け入れられるような世界では無くなっていることは理解できる。突然の出来事が受け入れられないそんな世の中だ。

予言して、予告して、熟知させて登場させる。逆に、それが出来ないのであれば開発しないというのが、特に日本の大企業の姿勢に見える。挑戦などしない。売れると分かっているものにしか投資しない。その姿勢が明らかなのだから、1000個のデバイスで商売が成立するようなところに投資するしか無さそうに思えるのだが、それもしない。結局、何も作らず、何も売らずに消えていくのが日本という国なのかもしれない。

エコバッグになるハンカチとかね、そんなものが話題になるような空気感である。滲みにくいゲルインクとか、なんだか隙間にアイデアがどんどんと入っていく。かく言う小生も、1mmに金属刃物で1000本以上の線を引こうとか、隙間埋めにまっしぐらだ。それでも何かをしなければとは思う。そんな気分だけが先行している。そんな毎日だ。

パンデミック?

丁度、大学に入学した頃の友人との会話。「癌が治療できるようになったら、エイズと言う新しい不治の病が出てきたね」とはI君の話だ。SARSが出て、忘れ去られたら、新しいコロナウイルスが登場だ。既に中国全土に広がり、ヨーロッパでも発症している。日本への侵入も既にあり、これから発症者が増えだすことだろう。街の封印と言う、いわば鎖国だが、鎖国の江戸時代にあっても海外に出ていき、そして入ってきた事実がある以上、閉じ込めることは不可能だ。人は動く。

14億人の中国の皆様が、春節を活かして70万人程の個人観光の方が日本にやってくる。ビザの緩和もあり、観光ウエルカムの日本としては旅行を阻むわけはなく、リアルなパンデミックとなるのだろうかと、かなり恐怖を感じている。感染源は全く分かっていないが、人から人に感染するということが認められていることから、どうやったら防げるのか?

インフルエンザよりは感染力は弱いと「テレビでは言われている」のだが、変異を続けるウイルスであることから、ワクチンなどの情報も全くなく、感染者情報も本当に正しいのかどうかもわからない。情報が無いのだから、過剰に警戒しても仕方が無いのかもしれないが、怖いものは怖いのだから仕方がない。

潜伏期間は9日から14日間だそうだが、胃腸風邪やインフルエンザで弱った状況にあると、複合的に危険な状況になるとかならないとか。淡々と粛々と毎日を過ごすのみなのだが、手洗い、うがいくらいしか対処手法が無い。マスクも役に立つのか立たないのかも分からない。冷静に情報を判断して活動を考える。しばらくは警戒が必要とのこと。皆さま、ご自愛のほどを。

人事AI

久し振りに隣の街に出掛けてみると、道路が整備されていたり、橋がかけ直されたりして渋滞が緩和されて驚いてしまう。何処に行ったということはどうでも良いのだが、逆に、なんでこんな余計なものを作るのだろうと、日本の建築・土木にだけお金が落ちる状況に首をかしげる。確かに大きなお金は落ちるだろうが、ずっと維持費という固定費が発生する事業頼みの国で良いのか?

街が新しくなっているように見えるのだが、人が殆ど歩いていない。観光地っぽいところに出掛けてみても、空いているから嬉しいとは感じるが、収入が無ければ施設の維持は出来ないわけで、「こんなに働く人が居て、人件費はどうするのだろう」と心配になってしまう。道路が空いていると感じることは、移動している人が少なくなっていることの裏返しなのかもしれない。

そんなことは心配することは無いのだと言わんばかりに、高輪GW駅では無人のAI店舗が出来るそうで、いよいよ働く場所の削減も本格的に始まるのだなと実感させられる。人口減少などどこ吹く風。無人化とAIが働く場所を減らしてくれる。

人事査定をAIが行う流れも既に出来上がっている。どんな大学を卒業したかなどどうでも良くて、どんな能力を身に着けているかをAIが判定・判断し、採用が行われているとも聞く。全ての企業がそうなっているわけではないが、海外では当たり前の状況になってきている。常に学び続ける、働き方改革は学びが前提である。瞬間瞬間が過去となっていく。凄まじい世の中だ。

逃げ口上

身の回りにある情報源によれば、〇〇を食べると体の何処の状態が「良く」なるらしい。例えば血圧が下がるとか、動脈硬化が治るとか。「良く」なるというのは正しくマジックワードでありまして、「良く」なってもその数値は定量的には「悪い」のかもしれない。原因が解らないのに、良いも悪いも無いのだ。そんな関連性があるという事であって、諸悪の根源を断ち切るわけではないのだ。

「当たらない」役者を大根役者と言う訳だが、江戸の御代において、大根を食して腹痛を起こす人は居ない、だから「食当たり」しない、そこから当たらない役者を大根役者と言うと言われると、成る程、大根で調子を崩したことは無いかもしれない。えらいものである。身の回りにおいても大根で食中毒になりましたという人に出会っていないのだから、大根は食するに際して「食中毒に成る事例は現在見出されていない」という現象には行きつくことが出来るのかもしれない。反例が見いだせないのであれば、そこから原因に突き進むことも出来るかもしれない。

この思考の「原点」を見出すことが学者の務めの一つと思っている。ガマの油売り時代に「実験素材が足りません」と生意気を言った途端に「ここに無限に積んだら君は原因を言えるのか!」と怒鳴られたことを覚えている。これは脊髄に刻み込んでいる。思考停止をすり替えているだけだったと今は反省出来るのだが、その時は、ただただ恐縮しただけだった。

とある疑問に対して、調べてみるとごちゃまんと論文があったりする。それが様々な主張に彩られ、もう考える事など無いと決めつける。それが現象でしか無いにも関わらず、原因が究明されたと己惚れる。そして何とかしてくれと簡単に泣きつく。主観である感性に逃げることは簡単だ。しかし、客観の糸口は遠い。それで良いのだ。思考の原点に漸近していくことが大切だ。これまた一歩一歩である。己惚れてはならない。

自己責任の無い国

米国で$500、日本では\80000円。この差額が日本の特定保守管理医療機器認証に掛かるものだ。ハードウエアは同一で、どこで作っているのか知らないが、輸入だけでそれだけの価格差になる筈は無いのだから、許認可に対して排他的価格設定を取らざるを得ないということは明白である。

ご存知の通り、米国では医療費が極めて高額である。保険制度の関係であって、国の決めることだからとやかく言わない。一方、日本では自己責任で健康を保とう、自らの情報を得ようとしても、機器認証を得るための莫大な上納金が上乗せされた機器しか手に出来ない。海外の優秀な機器を得て、健康を維持しようとしてもそれは国家が認めない。

低い性能の機械を使って、見せかけの健康で喜んでいろと見下されているのだ。高額な医療費で国家が疲弊するベクトルは守り切ろうとするわけだ。「票」というものがあるからね。何処で何が作用しているのか突っ込まないことにはするのだが、余りにも気分が悪いでは無いか。あのApple Watchですら、日本では封印されている医療分野のツールが埋め込まれているのに使えない。

自らの健康の原因を突き止めようとしても、国家がそれを認めない。労働者平均年齢を上げていこうというのだから、それなりのケアは各自で必要であって、それを阻害して何が嬉しいのか?自己責任が問える国家と責任の所在が何処にあるのか分からない国家とどちらが成熟しているのか。余りにも未熟な国家に悲しくなる。そんなところだ。

現象と原因

昨日の続きで恐縮だが、現象と原因とはまるでちがう。上手な論説はあたかも原因を語っていると迫ってくるが、実は現象を断片的に語っているだけだ。シャーロックホームズは犯人を見出すことは出来るが、同様の犯罪を無くすことは出来ない。戦争はダメだと言いながら、世界中から戦争が無くなった世の中などありはしない。

研究も同様で、現象は見いだせる。原因の完全究明はそう簡単には至らないのだ。地震などが好例で、スロースリップが発生したから、ロックしている紀伊半島の真下で巨大地震が発生しますよと言いながら、それはちっとも発生しない。小生こそ代表格の横綱級だが、「解った」と言うのは目に見える現象を、とある仮説を立てると説明できるという実験データを見出しました程度のことで、それを外野の皆様に勘違いをして頂いているだけが学者の行動だ。物理現象など、観測手法の発展により、新たな解釈が生まれるものだ。だから面白いのだ。

ニュートンは万有引力が存在していることを数式に示した。これは凄まじい洞察力と感服するしかないのだが、お弟子さんの言葉によれば(もうここに真実以外が入っているではないか)、リンゴは落ちるのに月は何故落ちないのかというところから始まった学説だそうだ。引き合いながら釣り合いが取れる状態と、そうでは無い状態がある。凡人にはなかなか見いだせる代物ではない。

原因が究明されることというのは、本当に稀有なことだと思う。ピコ秒でびっくりしていた35年前だが、今では「アト」秒の時間分解能で物理現象が語られる世界だ。しかしここでも見えるのは「現象」であって原因を見出しているのではない。理想からそれを生み出す原因は何かをAIが成すとするならば、判断の世界に人間は要らないのかもしれない。暢気になれるかもしれない。

見せかけの正論

社会の声を聴いてみましたと、マスコミをはじめ、様々な方々が仰る。数名からお話を聞きましたとか、誰誰に聞きましたという、狭いけれど定量的な情報は傾聴に値する。日頃、深いお付き合いがある方からの情報であれば、その発言のバックに何があるのか、断片でも分かりますからね。「誰、それ?」となるともう不特定多数からの情報と同様で、「情報操作されている」感満載になる。

情報の質というものなのだが、ネットに書いてあるというのと、広辞苑に示されているということでは質が全く異なる。広辞苑と言っても「何版?」というところまで明確にならないと、今は意味が違うぞとなってはしまうが、それでもその情報の信頼性は高くなる。と、言うか、客観性が出てくる。

AIネタが最近、自分でも増えているなとは感じているが、自らの存在意義が消されようとしている最中であるから、増えてくるのは必然と諦めてほしい。とっとと楽になりたいという気持ちの裏返しというか素直な表現かもしれない。AIさん、どんどん賢くなってくれというのが本音である。なんでそんなことで質問にくるのだと、思考を断絶される苦痛には耐えられない。

声が大きい人、一見、弱者側に居る人の意見は、正論となりがちだ。「私はそうは思わなかった」と言われて窮地に立ったこともあったが、「私はそう思った」のご意見に救われたこともある。知識をバックに迫ってくる人の話は半分も聞けない。知識を持っている人は迫ってこない。何故なら「その知識には欠けているところが沢山ある」と知っているから。目で見ても虚構だったとなることも多い。気を付けなければ。

試験監督考

共通テストの監督者となったのは、かれこれ30年前だ。ということで教職30年ということなのだが、受験生がまだまだ形もない頃のお話で、随分と無駄に年齢を重ねたものだと苦笑いである。同じことを科目毎に繰り返し言うのだが、言っておかないと「言わなかったぢゃないか!」と阿鼻叫喚となりかねない昨今であるから、ひたすら機械となって話し続けるのだ。

素晴らしい働き方改革のおかげで、代休日は指定できて登録できるのだが、それを実行できるかどうかは別問題。延々と休みなく繰り返される日常に、どうやってメリハリをつけるかが個人裁量になっているというのが改革の本質かもしれない。AIにやらせることが出来ることは、全てAIに任せましょうというのがストーリーだ。AIが出来ることの範疇には給与を払いませんというのが雇い主の考え方だ。

AIスピーカーなるものを導入してみると、確かにこれは手強い。かなりのことを伝えてくれる。現状ではプライバシー云々が叫ばれるので、妙な垣根を感じるのだが、そんなものは近い将来に撤廃されて、更に時間短縮に繋がっていくことは間違いない。講義ノートをひたすら板書する先生、パワーポイントを映して話すだけの先生は現時点でも無用だが、確実にポスト削減に繋がっていくのだろう。

知財など、人間が凄まじい労力を掛けて検索などをしているが、そんなものは正にAIに任せればよろしい。人間側は、必要なキーワードの抽出を成せば良く、知財の価値を明確に差別化させるところを人間がやり、その他は機械任せになるのが良い。間違いなく賢くなれる。そんなことを思いながら、二日間、それこそ「AIスピーカーとロボットにやらせれば良いのに」と苦笑いさせられた。そんな土日であった。