逃げ口上

身の回りにある情報源によれば、〇〇を食べると体の何処の状態が「良く」なるらしい。例えば血圧が下がるとか、動脈硬化が治るとか。「良く」なるというのは正しくマジックワードでありまして、「良く」なってもその数値は定量的には「悪い」のかもしれない。原因が解らないのに、良いも悪いも無いのだ。そんな関連性があるという事であって、諸悪の根源を断ち切るわけではないのだ。

「当たらない」役者を大根役者と言う訳だが、江戸の御代において、大根を食して腹痛を起こす人は居ない、だから「食当たり」しない、そこから当たらない役者を大根役者と言うと言われると、成る程、大根で調子を崩したことは無いかもしれない。えらいものである。身の回りにおいても大根で食中毒になりましたという人に出会っていないのだから、大根は食するに際して「食中毒に成る事例は現在見出されていない」という現象には行きつくことが出来るのかもしれない。反例が見いだせないのであれば、そこから原因に突き進むことも出来るかもしれない。

この思考の「原点」を見出すことが学者の務めの一つと思っている。ガマの油売り時代に「実験素材が足りません」と生意気を言った途端に「ここに無限に積んだら君は原因を言えるのか!」と怒鳴られたことを覚えている。これは脊髄に刻み込んでいる。思考停止をすり替えているだけだったと今は反省出来るのだが、その時は、ただただ恐縮しただけだった。

とある疑問に対して、調べてみるとごちゃまんと論文があったりする。それが様々な主張に彩られ、もう考える事など無いと決めつける。それが現象でしか無いにも関わらず、原因が究明されたと己惚れる。そして何とかしてくれと簡単に泣きつく。主観である感性に逃げることは簡単だ。しかし、客観の糸口は遠い。それで良いのだ。思考の原点に漸近していくことが大切だ。これまた一歩一歩である。己惚れてはならない。